65歳でモンテヴェルディ2011年05月01日 23時03分08秒

5月になりましたね。私は、4月と5月で年齢が違います。4月30日に誕生日を迎えるからです。年齢はよく四捨五入で扱われると思いますが、それだと、今年は代上がりになります。実年齢65歳、四捨五入でじつに70歳。戦争直後の昭和21年に生まれて、本当に長く生きてきました。

さぞ嘆きは深かろう、と期待される方、たくさんおありでしょうね。50歳のときの嘆きは比類ないものでしたが、もはや開き直りの心境で、あまり嘆いておりません。定年になる65歳の年。昔の想像ではさぞ下降線の、孤独で憂鬱を抱えた時期なのではないかと思っていましたが、そうでは全然、ないですね。体調がよくワインを楽しめますし、仕事にもまだまだ意欲があり、職場の人間関係も、良好です。なによりすばらしい学生さんに支えられていることが嬉しく、人生でいまが一番いいと、自分では思っています。もちろん、それはもうすぐ、終わるわけですけれども・・・。

その弟子たち、および周囲の方々と一緒に、今月はモンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》の東京公演を行います。5月26日18:30から、西国分寺駅前のいずみホールです。チケットは3000円(学生2500円)ですので、ぜひお出かけください。須坂公演の成果を見直し、改善を加えて上演します。新たに第1幕のパッラデ降臨(セネカへの死の予告)の場面を加え、博士1年の大武彩子さんにご出演いただくことにしました。第2幕の〈死ぬな、セネカ〉の上声部は須坂では湯川さんの兼任でしたが、これを改め、葛西賢治君にご出演いただいて、男声三重唱としました。ヴィオラを入れて器楽を4声とすること、通奏低音にチェンバロのほかオルガンを加えることも、重要なポイントです。以下に、出演者を記しておきます。

幸運の神、小姓 川辺茜/美徳の神、侍女 山崎法子/愛の神 高橋幸恵/ローマ皇帝ネローネ 内之倉勝哉/皇妃オッターヴィア 高橋織子/ポッペア 阿部雅子/将軍オットーネ、乳母アルナルタ 湯川亜也子/哲学者セネカ、親友3 狩野賢一/貴婦人ドゥルジッラ 安田祥子/女神パッラデ(ミネルヴァ) 大武彩子/詩人ルカーノ、親友2 小堀勇介/親友1 葛西健治/ヴァイオリン 伊左治道生、大西律子/ヴィオラ 渡邊慶子/ヴィオラ・ダ・ガンバ 平尾雅子/リュート 金子浩/指揮、チェンバロ、オルガン 渡邊順生

思えば初演時にモンテヴェルディ、75歳。歳をとった、などと言っていられません。

ペースメーカー2011年05月02日 23時48分01秒

今日バスに乗っていたら、前の席に座っていた年配の女性が私を振り返り、「ペースメーカーをしているので携帯は使わないでください」と言いました。私は驚いて「アッ、すみません」と謝り、携帯(ニュース購読中)をポケットにしまいましたが、電源は切りませんでした。なぜかというと、そこが優先席ではなかったからです。

電車の車内放送で携帯電話のマナーについて話されるとき、「優先席付近では電源をお切りください」という言葉が付きますよね。でもこれ、実践している人はいるのでしょうか。一度も見たことはありませんが・・・。

優先席でも携帯を使っている人は、たくさんいます。私は、隣にお年寄りが来たときは、使わないようにしています。使ったときの影響と、電源が入っているだけのときの影響は、どのぐらい違うのでしょうか。また、影響の及ぶ距離は、どのぐらいなのでしょうか。

今日の場合、クレームを付けた方は前輪上の高い席に座っておられ、低い席の私との間には、かなり距離がありました。席は右側で、優先席は左側です。優先席に座っている人は、誰もいませんでした。そこで、優先席はあちらですよ、という言葉が喉から出かかったのですが、よく考えてみなくてはならないことが含まれているようにも思えて、呑み込んでしまいました。どうなんでしょうね。なんとなく割りきれません。

朝日カルチャーの新講座2011年05月04日 22時44分58秒

《ポッペアの戴冠》の練習、始まっています。私も3日、渡邊宅における練習に参上しました。みんな、とても楽しそうです。

ご案内をもうひとつ。この5月から、朝日カルチャーセンター新宿で、新しい講座を開始します。第一土曜日の10:00~12:00で、礒山風音楽入門講座です。

これは須坂で進行中の企画に基づくのですが、新宿のスタッフにお見せしたら、すばらしいのでぜひやりましょう、ということになりました。もちろん、種々改良してお届けします。第1回は、音楽における「反復」について考察します。反復に耳が対応すると、音楽が楽しくなること請け合いです。入門講座をお待ちの方、よろしくお願いします。

「楽しいクラシックの会」は21日(土)10:00からで、《ポッペアの戴冠》の第2幕、第3幕を予習します。横浜は、今月お休みです。

学生の演奏2011年05月08日 08時02分47秒

私は、学生の演奏に感動することが、よくあります。聴き方の基準を変えているのか?と聞かれれば、そうかもしれません。しかし音楽の神様がひそかに喜ぶ瞬間というのは、プロのレベル高い演奏家に占有されているものではなく、勉強中の若い人の演奏にも、相当あるような気がするのです。

それは、技術の問題ではない。条件は、その人が音楽と真摯に向き合い、自分なりに熟慮と工夫を重ねているかどうかです。その過程で、何か重要なものが発見されるという瞬間が訪れる。そうすると、楽譜の音がすみずみまで意味付けられ、音楽に血が通ってきます。こういう瞬間に立ち会う喜びは一種特別なもので、教育の場にいてこそ味わえるものかもしれません。

こういう体験は、往々にして少人数のクラスや個人指導の現場で訪れます。たくさんの人が聴いてくれたらいいのにとも思いますが、なかなかそうはいきません。金曜日には1日に二度こうしたことが起こり、幸福な気持ちになりました。演奏家のキャリアやレベルとは別のところで充実した音楽体験があることを、大切に思うようになっています。

急ぎご案内2011年05月09日 17時50分07秒

3月に延期となった博士研究コンサートが、今週行われます。私の論文弟子、ポッペア出演者が大勢含まれていますので、お時間のある方はお出かけください。音大の小ホール、入場無料、ひとり数十分です。

10日(火) 16:30から
高橋幸恵(メゾソプラノ) シューベルト
内之倉勝哉(テノール) フランツ、リスト、シューマン
川辺茜(ソプラノ) アルマ・マーラー、ツェムリンスキー、マーラー
阿部雅子(ソプラノ) モンテヴェルディ

12日(木) 16:30から
小島芙美子(ソプラノ) バッハ
高橋織子(ソプラノ) シュトラウス
服部慶子(ピアノ) 伊福部昭など日本の作曲家

理解できないこと2011年05月12日 23時21分09秒

最近ニュースを見ていて心を打たれたこと。それは、畜産業を営む方々がどれほど家畜を愛して仕事をしているのか、ということです。原発事故のゆえに牛を処分せざるを得ず、泣いて見送っている福島の方々を見て、私も涙を禁じ得ませんでした。愛犬家としての立場からの、単なる類推にすぎないのではありますが。

自分だったらどうだろう、と思って被害地からの情報に接するとき、きっとがまんできないだろうと思うのが、一律に避難させられて、体育館その他で生活することです。便宜や待遇のことを言っているのではありません。私なら、制止を振りきっても、家に帰ろうとすると思うのです。

禁止ゾーンに入ったらすぐ死んでしまう、というならともかく。汚染の軽微な地域も、同心円の中にたくさんあるわけですよね。しかも私は、年をとっています。何年先に何%の危険があるから、と言われても、それより今仕事をさせてくれ、自分に一番大切なのは時間なのだから、と言うと思う。そういう方、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

そう考えると、一律に強制退避、ということの必然性がわからなくなってきます。一時帰宅といっても、本当に不自由な制限が課されている。それが本当に被災者のためなのかどうか、考えれば考えるほど理解できません。

カント2011年05月13日 23時54分36秒

受講者に恵まれて、音楽美学の授業でカントの『判断力批判』を読み始めた、ということは、ご報告しました。その続報です。

私の手元にも、4種類の翻訳があります。それを並べてコピーし、原文も併せてコピーして、勉強を始めました。その結果確認したのは、翻訳をいくら読んでもさっぱりわからないが、原文を読めばわかる、という、よく指摘される単純な事実です。私がドイツ語が得意だから、そう言うわけではない。これは哲学書の翻訳のもつ、基本的な問題点なのです。

4種類の翻訳は、優秀な方が訳されていて、それぞれ立派なものです。しかしその違いは小さく、難解な点では五十歩百歩。それは、いずれもがドイツ語の構文をそのまま日本語に移す、直訳であるからです。

でも、そうせざるを得ない、ということもあります。カントの文体は、概念を立ててはそれを分析し、精細に区別して、美的判断の本質を抽出してゆく。それを訳す場合には、概念すなわち名詞を日本語に名詞のまま移し、分析を行っていく他はない。たとえば「無関心性」といった概念を使わざるを得ず、意訳して砕いてしまうことはできないわけです。

しかしそれだと、カントがドイツ語の普通の概念を精査している部分で、聞いたこともないような日本語を、対応させざるを得なくなります。結果として特殊な文章が出来上がり、日本語ではあるが、意味がわからない、ということになるわけです。

それをドイツ語で読めばなんでもない、ということが、案外よくあるのです。こうなると、翻訳とは何だろう、と考えざるを得ません。概念の直訳はごく少数に限り、徹底した意訳を基本とすることで、カントの言いたいことを広く伝える翻訳は、本当にできないのでしょうか。試みるには値することだと思います。意訳の足らざるところは、原文を読んでもらえばいいわけですから。

類語辞典2011年05月16日 07時55分18秒

月曜日はカントの授業なので、決死的に早起きして、予習を済ませたところです。その過程で、ある辞書がとても役に立つことに気づきました。それは『ドイツ語類語辞典』(中條宗助編著、三修社)です。似て非なるドイツ語の語彙がいくつかずつ集められ、それがどう違うかが、十分な用例付きで説明されている辞書です。

用例は、みな、日常的な文章。なぜそれが役に立つかというと、カントは日常的に使われる語を精密に規定するところから話を始めているわけで、日本語にたとえていえば、おもしろいとおかしいはどう違うか、というような議論から入ってくる。ごく普通のドイツ語語彙の、再吟味です。しかし日本語訳で読むと、快適だの善だの享受だのということになって、いきなりむずかしい観念の世界に連れていかれてしまいます。哲学系の辞典もいいのですが、概してその世界の中で整合的な説明が行われており、文字通り、雲をつかむような思いをすることが多いものです。

上記類語辞典は、詩の味読にも役に立ちます。なぜここで、この言葉でなくこの言葉が使われているのか。一般の辞書で訳語を知り、日本語に置き換えて考えるのではなく、ひとつひとつの原語を吟味して味わう習慣を身につけると、歌曲を歌う場合にもたいへん有益なはずです。

〔付記〕ページを繰ってみると、「悲しい」系にtraurig以下8語が挙げられていますが、うち6語がuウムラウトを含んでいる。「信用する」系はtrauenなど4語ですが、すべて、auの二重母音を含む。いろいろな勉強ができそうです。

火曜日の喜び2011年05月18日 11時58分00秒

「決死的に早起き」などと胸を張った月曜日でしたが、もうそんな無理は利かないようです。午後になると急激に疲労して気分が悪くなってしまい、会議を休んで、早退しました。ダメですね、こんなことでは。

火曜日に元気を回復したのは、音楽のおかげです。モンテヴェルディの授業がいよいよ《ポッペアの戴冠》に到達し、プロローグと第1幕の初めを扱いました。3人の神によって演じられるプロローグの、なんと魅力的なことでしょう。観れば観るほど、聴けば聴くほどそう思うようになっています。ピーター・ホール演出のグラインドボーン音楽祭の映像も、レッパード版ではありますがとても面白いし、ルセ指揮、レ・タラン・リリックのものは抒情性豊かで、きわめて高水準。エマニュエル・アイム指揮の新しい映像も一見の価値ありですが、授業時間は限られているので、そうそうは鑑賞できません。

夜は、くにたちiBACHコレギウムの《ロ短調ミサ曲》。いよいよ最初のオーケストラ・合わせでした。4年目に入っているので声楽はすでにかなりの完成度を示しており、SPC(練習会場)に、荘厳な雰囲気が立ち込めました。グレゴリオ聖歌の勉強もはじめていて、これがまた、心を洗われるような体験なのです。モンテヴェルディもすばらしいがバッハもすばらしい、と感じるのみです。ちなみにヴォルフ先生の本では、《ロ短調ミサ曲》は《マタイ受難曲》を明確に上回る、と価値付けられています。

芸術選奨2011年05月19日 23時49分48秒

18日(木)には旧文部省の一室で、芸術選奨の贈賞式がありました。私が出席したのは、「芸術振興部門」の選考委員だから。時節柄、アルコール無しの簡素なパーティでしたが、有名人にたくさんお会いしました。

司会者が、フリー(?)アナウンサーの柴山延子さん。CSでいつも拝見していましたが、最近お姿を見なかったので、実物をありがたく拝みました。「芸術振興部門」というのは、むずかしいのです。従来の芸術の仕切りを超える新しい活動を展開している人、また、有意義な活動を支援している人が、分野を越えて、候補になります。

それなら、「音楽の概念を根本から問い直す作業を通じて新しい音楽の可能性を探求する試みを、最先端のメディアを駆使して重ねてきた」(礒山)三輪眞弘さんがふさわしいのではないか、ということで、複数の方々とともに推薦しました。そうしたら、そうそうたる候補者のいた他分野の先生方が賛同されて、受賞に至ったのです。決め手となった『三輪眞弘音楽藝術--全思考1998-2010』は、真に前衛的な音楽創作論として、本当に面白いものでした。

初対面の私に、三輪さんは、ていねいに挨拶に来られました。その折に、「一番評価していただけそうもない方に評価していただいたので嬉しい」という趣旨のことをおっしゃったので、笑ってしまいました。そのとおりで、自分でも驚いているのです。いろいろな方、いろいろな機会に勉強させていただいて、それなりに視野を広げることができた結果だと思います。私にとっても、大きな出来事でした。