「授業」の終わり2011年12月21日 12時51分24秒

19日(月)で、すべての授業が終わりました。最後は総合ゼミと呼ばれる合同授業の司会でしたが、午前中は大学院の音楽美学で、これはとくに印象深いものとなりました。そこで、思い出を記しておきたいと思います。

私は音楽美学の担当者として大学に呼ばれましたので、一番重要なのは、本来、音楽美学系の授業でした。しかし学生たちの興味やニーズに合わせて講義することがむずかしく、わかりやすくしかも内容のある授業をどうしたらできるか、苦労しました。とくに困ったのが、大学院です。院ともなれば少し本格的にやりたいが、受講する学生にはその用意がない、という状況になりがちだったからです。

最後ぐらいは直球で、と思っていた今年、願ってもない受講生に恵まれました。まれにみる哲学能力をもつ男子学生(音楽学)と、声楽だが理解力のとても高い女子学生。そこに、一般大学の博士課程に席を置く聴講生(最終段階ではさらに、研究会を幅広く主催する碩学の卒業生)が加わったのです。そこでようやく、前期カント、後期ヘーゲルを材料とする授業が可能になりました。

私自身がたいへん勉強になり、もっと早くやるべきだったかとも思いますが、最後にこのようにできたことを感謝するべきでしょう。後期は、私がテキストの要所を抜粋・編集し、必要に応じて原語を添えたプリントを配布。それを読み合わせてからディスカッションする、という方法で進めました。その準備のため、日曜日が制約されたのはやむを得ません。諸芸術を概観したあと音楽の章を少し詳しく扱い、文学の章は展望したのみで、タイムリミットになりました。

ベースに使ったのは長谷川宏さんの訳された『美学講義』ですが、この訳に対するこちらの対応にも弁証法的発展があるのだから、面白いものです。この訳はきわめてこなれていて、少し慣れると、かなりむずかしい部分でも、スーッと入ってくる。大したものです。しかしちょっとひっかかるところ、正確に確かめたいところで原文と対比すると、その思い切った意訳に驚き、しばしば、このドイツ語がなんでこういう日本語になるのだろう、と考えこむ。自分流に訳し直してみたところも、少しあります。しかし何度かそういうことやっているうちに、飛躍しているように見える訳文にもそれなりの根拠があることがわかってきて、なるほどそれもありか、と再評価する。わかりやすい訳をありがたく使わせていただきながら適宜原文を参照するのが、結局便利なやり方であることがわかりました。これだけの本、訳文がすべてを伝えることは望めません。

前期のカントでは、違う経験をしました。何種類かの訳を調べましたが、みな、ドイツ語の概念に日本語の概念を1対1で対応させるという、アカデミックな直訳方式です。したがって訳の互いに相違する範囲が限定されていて、結局どれもむずかしい。原文がいちばんわかりやすい、と言ってもいいほどで、やはり原文なしでは読むことができません。(どなたか、カントを思い切り意訳して、大事なところは大筋で平易に理解できるようにする、という試みをされないものでしょうか。研究者としてはとてもやりにくいことではありますが。)

月曜日の朝いつも面白いなあと思っていたのは、男女の見かけの差異です。すなわち、紅一点の方の外見が、残りの人たちを、何もそこまで、というほど引き離しているのです。これって納まりのいい形だし、男性たちもそこにモチベーションを見出しているように見受けたのですが(反論があればどうぞ)、いつも私は洒落たことわざを脳裏に浮かべては、微笑ましく思っていたのでした。