12月のイベント2011年12月01日 15時06分43秒

公私に重要な仕事が続くうち、12月に入ってしまいました。恒例のイベント紹介です。

3日(土)は17:00から、日本ワーグナー協会地区例会。名古屋工業大学で、「ワーグナーにとっての救済」と題して講演します。『救済の音楽』を読んでリクエストしていただいた講演ですが、新しい視点として時間論をからめようと思い、準備中です。

10月ウィーン・フィル、11月ベルリン・フィルと重い対象の続いた新聞批評。今月は、マーク・パドモアの《冬の旅》です(4日、トッパンホール)。

11日(日)14:00からは、2ヶ月に1回の「すざかバッハの会」。2年間の最終回で、まとめの講義の後、コンサートを行います。出演は久元祐子さん(ピアノ)で、第1部がモーツァルトのニ短調の幻想曲とJ.C.バッハのニ長調ソナタ、モーツァルトの変ロ長調ソナタK.333。第2部は久元さんに伴奏していただく歌のコーナー。超新星の種谷典子さん(ソプラノ)、芸術性抜群の小堀勇介君(テノール)が出演します。曲はオール・モーツァルトで、歌曲の《すみれ》と《クローエに》、《ドン・ジョヴァンニ》からドンナ・アンナのアリアとドン・オッターヴィオのアリア、そして《コジ・ファン・トゥッテ》から、フィオルディリージとフェルランドの二重唱。アンコールには《トゥナイト》を台詞入りで予定しています。会場は須坂メセナホールですが、相当盛り上がりそうですので、ぜひ遠くからもお出かけ下さい。

「楽しいクラシックの会」(立川市錦町学習館)の例会は、17日(土)の10:00~12:00。《ロ短調ミサ曲》を続講中で、今月は「クレードが真髄!」です。

24日(土)が仕事納め。10:00から、朝日カルチャー新宿校の《ロ短調ミサ曲》講座最終回で、受容と演奏についてお話しします。13:00からは同横浜校の『魂のエヴァンゲリスト』講座。フリーデマン小曲集、インヴェンション、平均律第1巻あたりを扱います。

放送については別途。今月もよろしくお願いします。

今月の「古楽の楽しみ」2011年12月03日 23時24分45秒

朝6時、12月5日(月)から9日(金)までです。今度はメジャーな線で、バッハのライプツィヒ時代の鍵盤楽曲を特集しました。主として、出版作品。新しい演奏を、少しずつ入れています。

5日(火)は、《クラヴィーア練習曲集第1部》から、パルティータの第2番と第5番、そして、第1番から少し。演奏は第2番、第1番がスコット・ロス、第5番はフランソワ・ゲリエ(どちらもチェンバロ)です。ロスの第2番は躍動感があって、さすがです。

6日(火)は、パルティータからもう1曲、第3番を、バンジャマン・アラールで。次に《クラヴィーア練習曲集第2部》から、《イタリア協奏曲》を、パスカル・デュブレイユで。《フランス風序曲》は以前単独で取り上げましたので割愛し、ハ短調のファンタジーとフーガを2曲。斬新な作風で知られるBWV906(ミケーレ・バルキ)と、偽作説もあるBWV918(アンドレアス・シュタイアー)を入れました。すべてチェンバロです。

7日(水)は、《クラヴィーア練習曲集第3部》、すなわち壮大なオルガン曲集からの抜粋としました。演奏はマッテーオ・メッソーリで、これはすばらしいです。

8日(木)は、《平均律クラヴィーア曲集第2巻》から。まずリチャード・エガーのチェンバロで後半から4曲を聴き、これに、ロレンツォ・ギエルミがジルバーマンのフォルテピアノで演奏する3曲を加えました。ギエルミの演奏、じつに面白いです。

9日(金)は《クラヴィーア練習曲集第4部》、すなわち《ゴルトベルク変奏曲》なのですが、以前チェンバロとピアノのリレーという形で取り上げましたので、今回は変化球です。シュテファン・フッソングのアコーディオンで前半、フレットワークのガンバ合奏で後半。前回省略した変奏を優先的に選びました。各変奏の世界の多様さが、よくわかると思います。

どうぞよろしく。

師走2011年12月06日 23時39分40秒

師走ですね。年末進行とか、納期とかいうことで、たいへん忙しくされている方が多いのではないでしょうか。かく言う私も必死です。

私の大学は授業は12月で終わるので、あと2週間というところに来ました。その頃になると万感こみ上げてくるものがある・・かな、と以前は思っていましたが、仕事の集積が半端ではなく、とにかく最後まで完遂しよう、最後の坂を登り切ろう、という一心です。この段階で手抜きをしたら、あとで後悔しますものね。

でも山登りの山頂は楽しみがありますが、私の場合は、山頂は単なる行き止まりで、何も特別なものはありません。そもそもどこが本当の山頂であるかもよくわからないのです。郵便は開いていないし、遅れている仕事もいくつか。まあ、こうした思いもここしばらくで終わりだと考え、とりあえず授業の終わりをめざしてがんばっています。

最初の峰2011年12月09日 16時51分21秒

最後の連山登攀、今日、最初の峰にたどり着きました。金曜日にめぐってくる「音楽美学概論」が、最終回になったのです。バッハの共同授業は来週木曜日に出番がありますが、ゼミや個人指導はともかく、クラス持ちの授業は、これが最後。そこで、自分なりの「最終講義」を行うつもりで臨みました。

学生は50人ほどですが、年配の聴講生の方が4人おられ、この方々が熱心で、牽引力になっています。学生も意図して選択した人がほとんどのようで、これまでの授業でもそうそうなかったと思えるほど、集中してくれています。もちろん、私語はまったくなし。私も毎回、A3の全面を使った詳細なレジュメを作成して、授業に備えました。

内容は、これまで折に触れ採り上げてきたテーマを整理し、掘り下げることを中心としました。「音楽とは何か」「指揮者を考える」「ハーモニーを考える」「天才を考える」「感情表現について」「美について」「耳の文化」「音楽批評--音楽に対する価値判断」「コンサート・ライフについて」「作品概念をめぐって」「音楽と時間」「流れと永遠」が各回のテーマで、今日は「最終講義」をひそかな念頭に、「音楽と人生--私の場合」というお話をしました。過去を振り返り、若い人たちに勇気やヒントを与えたい、という趣旨でした。

少し達成感と解放感の味わえた今日でした。いいクラスをもてたおかげです。

音量への疑問2011年12月12日 23時04分35秒

過去に、ホールの大小の別なくフル・ヴォイスで歌われる声楽家が多いことに、疑問を呈したことがあります。小さな空間では音量を抑え、その分、より繊細な表現を目指す選択肢はないのか、と。

そう思っていたところへ、考えさせられる新しい実例に遭遇しました。私の出かけたイベントは、ビルの小さな一室。蓋を外したスタインウェイが中央に置いてあり、お客様は、その時点で20人ぐらい。全部入っても、4~50人でしょうか。プログラムは現代曲でした。

登場されたピアニストは、上手な方でしたが、たいへんな力演。耳を聾するばかりのフォルテシモを駆使して、演奏されたのです。作曲者が自然に耳を澄まして作曲したはずの曲だということもあり、私は、スタインウェイが発する轟音に接しながら、考えこんでしまいました。小部屋にふさわしい、聴き手の耳にやさしい演奏を求めることはできないのか、と。

いくつかの筋道が考えられます。演奏はスタインウェイのピアノに対してなされるもので、その響きを最大限に発揮するべきものであり、部屋の大きさ、小ささは二次的なことである、ということだろうか。あるいは、ポピュラーのライヴや小部屋でさえマイクを使うような増幅全盛の世の中のしからしむるところとして、大方のお客様に、大音量の違和感はないのであろうか。

私はやっぱり、小さな部屋でも耳を澄まして音楽を聴く体験をもちたいと思います。これって古い感覚なんでしょうか。

音楽批評2011年12月14日 10時10分01秒

「音楽美学概論」の授業で、音楽批評について取り上げました。その困難さやあるべき姿を、自分の経験をお話ししつつ考える、という趣旨です。授業の進行中新聞に発表し、配布して読んでいただいた批評が3つありました。ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、パドモア/フェルナーの《冬の旅》です。

興味を示された聴講生の方が、授業の最後に、これからも読みたいのでブログに載せてくれないか、とおっしゃいました。かつてホームページをやっていた頃は、行ったコンサートのほとんどに少しずつ感想を書いていたのですが、今は控えていて、とくに良かったものの中から、ぜひ知っていただきたいものの一部をご紹介しています。職業柄不用意な価値判断はできませんし、コンサート通いの詳細を公表するのも良し悪しだ、という思いがあるからです。

上記3つのうちでは、《冬の旅》が断然良かったです。12日の毎日新聞に掲載された批評、許可をいただきましたので次に引用しておきます。タイトルは、新聞社によるものです。

従来イメージ吹き飛ばす名演
 イギリスのテノール、マーク・パドモアが、ピアノのティル・フェルナーと、シューベルトの三大歌曲集を共演。トッパンホールの「歌曲の森」に含まれる企画で、私は12月4日の《冬の旅》を聴いた。テノールが《冬の旅》を歌うということは、曲が作曲者の指定したオリジナルの調で再現されることを意味する。その効果はやはり大きく、バリトンやバスで積み重ねられてきた従来のイメージが、一気に吹き飛んでしまった。冬を旅するのは悟りきった老人ではなく、これから生きなくてはならぬ、血の通った青年のはずだからだ。

 すっきりと明晰な声。すみずみまで聞き取れるドイツ語。枢要な言葉にわずかな余情を彫り込みつつ、端正に重ねられる語り。パドモアの発声は広い音域にわたってゆるみなくコントロールされ、音程の正確さに加えて、楽譜への反応が針を穿つように鋭敏だ。《最後の希(のぞ)み》における声とピアノの掛け合いは現代の器楽曲さながらで、思わず息を呑んだ。

 古楽が専門というイメージから連想するひ弱さは、まったくない。歌唱は芯の強い毅然としたスタンスで運ばれ、劇的な振幅も豊か。疲れた主人公を時に幻覚が襲う後半でも、パドモアは分岐の〈道しるべ〉をしたたかに見据え、墓地という〈宿〉を前に、すっくと背筋を伸ばす。こうして蓄えられた〈勇気〉に促されて、青年は未踏の旅を続けるのだ。

 ウィーンのピアニスト、フェルナーの貢献を特筆しておきたい。《冬の旅》のピアノ・パートには一見単調な持続がいたるところにあらわれるが、フェルナーは和音の構成に配慮し、変転する明暗をみごとに弾き分けて、パドモアを支えた。大切な音をわずかのタッチできらめかせる間合いと集中に効果があり、鬼火の描写も絶妙だった。

 歌い手とピアニストの紡ぐ純度の高い楽の音が、ひとえにシューベルトのみをめざしてホールに湧く。そんなひとときに居合わせるのは、なんとすばらしい体験だろう。

ゲネプロ公開2011年12月15日 11時25分36秒

12月1日からFAXで始まった、1月15日の《ロ短調ミサ曲》整理券の申し込み。最初の1日で200件あったとかで、すでに予定枚数を超過してしまいました。数日前から、国立音大のホームページにもキャンセル待ちの案内が出ています。

そこで、2倍以上収容力のある大ホールで開催するように変更するか、小ホールは動かさず、14日(土)のゲネプロを公開するかの打開策を検討しました。相当迷い、メンバーにも幅広く意見聴取しましたが、結論は、小ホールでのゲネプロ公開です。今までiBACHのコンサートが成功してきたのは音響のいい小ホールのおかげである、との思いが、決定打になりました。

近々、14日の整理券申し込みが始まると思いますので、ご確認ください。今までの勢いを考えるとこちらもなくなるかもしれません。ぜひ早めにお申し込みください。14日はどうしても、という方は、15日にキャンセル待ちをかけておかれではいかがでしょうか。どうぞよろしくお願いします。

事実上の区切り2011年12月16日 23時24分46秒

15日(木)は、教養、語学、音楽学など9人の教員で持ちまわりしているオムニバス授業「バッハとその時代」の最終回。5度目の登板となった私は、「バッハの音楽頭脳」という話でまとめをしました。バッハの音楽に対する価値観、彼の発想の傾向と特徴、その意義といったことを分析してお話ししたのですが、よく話しているようでいて、あらためてテーマとして立ててみると思わぬ発見と展開があり、勉強になりました。このような授業を提案し、創り上げてくださった同僚の方々に、御礼申し上げます。

これが事実上の最終講義、という認識が案外広まっていたようで、学長はじめ先生方もお見えになり、なんとなく盛り上がりを感じる場となりました。終了後、リレー授業をした先生方と、KISAKIで打ち上げ。心の通じ合う、最近でもまれな楽しい飲み会になりました。

この充実感が喪失感に変わっていくのかどうか、まだわかりません。月曜日のゼミ2つで、本当の最後になります。

須坂の一区切り2011年12月19日 00時12分15秒

「すざかバッハの会」主催で開催している音楽入門講座が、11日の日曜日で、2年間の区切りを迎えました。音楽美学のエッセンスをまとめたような講演を30分ほど行い、あとは、2部構成のコンサート。第1部は久元祐子さんのピアノで、モーツァルトの幻想曲と変ロ長調ソナタ、そしてJ.C.バッハのニ長調ソナタ。いつもながら配慮の行き届いた、温かく優雅な演奏でした。ごく自然に聞こえるのですが、裏に回っている部分にも音楽的脈絡がしっかり与えられていて、含蓄が深いのです。

第2部は配下の若手、小堀勇介君のテノールと種谷典子さんのソプラノで、モーツァルトの歌曲とアリア、二重唱。二人の若々しい声がホールを一杯に満たし、熱烈な喝采をいただきました。アンコールに《トゥナイト》を用意していたのですが、これをやると、モーツァルトが飛んでしまいますね。青春っていいなあと、少し感傷的な気持ちになりました。

須坂の講座、これで9年も続いたのだから、驚きです。ぜひ続けたいというお気持ちをいただいて、来年は「《ロ短調ミサ曲》のすべて」というテーマでやらせていただくことにしました。豊かな自然と人情を味わえる、貴重な機会です。もう、体の一部になってしまっています。

「授業」の終わり2011年12月21日 12時51分24秒

19日(月)で、すべての授業が終わりました。最後は総合ゼミと呼ばれる合同授業の司会でしたが、午前中は大学院の音楽美学で、これはとくに印象深いものとなりました。そこで、思い出を記しておきたいと思います。

私は音楽美学の担当者として大学に呼ばれましたので、一番重要なのは、本来、音楽美学系の授業でした。しかし学生たちの興味やニーズに合わせて講義することがむずかしく、わかりやすくしかも内容のある授業をどうしたらできるか、苦労しました。とくに困ったのが、大学院です。院ともなれば少し本格的にやりたいが、受講する学生にはその用意がない、という状況になりがちだったからです。

最後ぐらいは直球で、と思っていた今年、願ってもない受講生に恵まれました。まれにみる哲学能力をもつ男子学生(音楽学)と、声楽だが理解力のとても高い女子学生。そこに、一般大学の博士課程に席を置く聴講生(最終段階ではさらに、研究会を幅広く主催する碩学の卒業生)が加わったのです。そこでようやく、前期カント、後期ヘーゲルを材料とする授業が可能になりました。

私自身がたいへん勉強になり、もっと早くやるべきだったかとも思いますが、最後にこのようにできたことを感謝するべきでしょう。後期は、私がテキストの要所を抜粋・編集し、必要に応じて原語を添えたプリントを配布。それを読み合わせてからディスカッションする、という方法で進めました。その準備のため、日曜日が制約されたのはやむを得ません。諸芸術を概観したあと音楽の章を少し詳しく扱い、文学の章は展望したのみで、タイムリミットになりました。

ベースに使ったのは長谷川宏さんの訳された『美学講義』ですが、この訳に対するこちらの対応にも弁証法的発展があるのだから、面白いものです。この訳はきわめてこなれていて、少し慣れると、かなりむずかしい部分でも、スーッと入ってくる。大したものです。しかしちょっとひっかかるところ、正確に確かめたいところで原文と対比すると、その思い切った意訳に驚き、しばしば、このドイツ語がなんでこういう日本語になるのだろう、と考えこむ。自分流に訳し直してみたところも、少しあります。しかし何度かそういうことやっているうちに、飛躍しているように見える訳文にもそれなりの根拠があることがわかってきて、なるほどそれもありか、と再評価する。わかりやすい訳をありがたく使わせていただきながら適宜原文を参照するのが、結局便利なやり方であることがわかりました。これだけの本、訳文がすべてを伝えることは望めません。

前期のカントでは、違う経験をしました。何種類かの訳を調べましたが、みな、ドイツ語の概念に日本語の概念を1対1で対応させるという、アカデミックな直訳方式です。したがって訳の互いに相違する範囲が限定されていて、結局どれもむずかしい。原文がいちばんわかりやすい、と言ってもいいほどで、やはり原文なしでは読むことができません。(どなたか、カントを思い切り意訳して、大事なところは大筋で平易に理解できるようにする、という試みをされないものでしょうか。研究者としてはとてもやりにくいことではありますが。)

月曜日の朝いつも面白いなあと思っていたのは、男女の見かけの差異です。すなわち、紅一点の方の外見が、残りの人たちを、何もそこまで、というほど引き離しているのです。これって納まりのいい形だし、男性たちもそこにモチベーションを見出しているように見受けたのですが(反論があればどうぞ)、いつも私は洒落たことわざを脳裏に浮かべては、微笑ましく思っていたのでした。