《ヨハネ受難曲》の冒頭テキストについて ― 2015年02月04日 07時03分28秒
《ヨハネ受難曲》の研究をしていますが、せっかくカテゴリがありますので、気のついたことを少しずつ書いていこうかという気になりました。とりあえず、冒頭合唱曲のそのまた冒頭のことを。
冒頭合唱曲はご承知の通り、受難曲史上前例を見ない、壮大な楽曲です。テキストの作者は不明でこれについても考察したいのですが、とりあえず確実なのは、主部のアイデアが詩篇の第8篇から採られていること。主の栄光が世界を支配するさまがここで打ち出され、中間部に入ってから、受難の概念と結びつけられます。主部の2行を考察してみましょう。
Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm
In allen Landen herrlich ist!
仮に、次のように訳すとします。
主よ、私たちを統べるお方、その誉れ
全地に威のある方よ!
ルター訳の詩篇冒頭は、次のようになっています。
HERR, unser Herrscher, wie herrlich ist dein Name in allen Landen, du, den man lobt im Himmel!
最後の6語を省いて対応させると、次のように訳せます。
主よ、私たちを統べるお方、なんと威のあることでしょう、御名が全地に。
こちらでは呼びかけの次に感嘆文があり、"herr"のたたみ掛けがいっそう鮮明です。バッハのテキストでは感嘆文が関係文として呼びかけに従属するように改められ、その主語が、「御名」から「誉れ」に変わっています。両者は重なり合う概念ですが、「栄光」のニュアンスにいっそう近づいていると言えるでしょう。「エ」母音の連続する詩篇に対してテキストでは「ウ」母音の導入がきわめて効果的であり、音楽でもその効果が生かされています。
ふと思い立ち、七十人訳(新約聖書の前提となった、旧約聖書のギリシャ語訳)を調べてみました。えっと思うものでした。カタカナで失礼しますが、冒頭が「キューリエ ホ・キューリオス ヘーモーン」となっているのです。
ドイツ語のHerrとunser Herrscherは同格の言い換え、従ってどちらも呼びかけと考えていたのですが、ギリシャ語(呼格が確立している)を見ると、「主よ」という呼びかけの次に「私たちの主」という主格が置かれています。となると、「私たちの主である主よ」と訳すべきだということになるでしょう。
そこでバッハの作曲を見ますと、"Herr"はつねに呼びかけとして作曲されていますが、"unser Herrscher"の方は長い音型で作曲されている。それはヴァイオリンの音型と対応するもので、後に「栄光」の表現と重なり合う、circulatioのフィグーラです。だとすると、バッハは"unser Herrscher"を”Herr”の説明と考えていることになり、その訳としては、「私たちの支配者であられる主よ」という方がよさそうです。もちろん、「主よ」という語を冒頭に置く方が曲を生かす、という考えも有力ですが。
どうも、巨大な森に入りこんでしまったようです(汗)。
冒頭合唱曲はご承知の通り、受難曲史上前例を見ない、壮大な楽曲です。テキストの作者は不明でこれについても考察したいのですが、とりあえず確実なのは、主部のアイデアが詩篇の第8篇から採られていること。主の栄光が世界を支配するさまがここで打ち出され、中間部に入ってから、受難の概念と結びつけられます。主部の2行を考察してみましょう。
Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm
In allen Landen herrlich ist!
仮に、次のように訳すとします。
主よ、私たちを統べるお方、その誉れ
全地に威のある方よ!
ルター訳の詩篇冒頭は、次のようになっています。
HERR, unser Herrscher, wie herrlich ist dein Name in allen Landen, du, den man lobt im Himmel!
最後の6語を省いて対応させると、次のように訳せます。
主よ、私たちを統べるお方、なんと威のあることでしょう、御名が全地に。
こちらでは呼びかけの次に感嘆文があり、"herr"のたたみ掛けがいっそう鮮明です。バッハのテキストでは感嘆文が関係文として呼びかけに従属するように改められ、その主語が、「御名」から「誉れ」に変わっています。両者は重なり合う概念ですが、「栄光」のニュアンスにいっそう近づいていると言えるでしょう。「エ」母音の連続する詩篇に対してテキストでは「ウ」母音の導入がきわめて効果的であり、音楽でもその効果が生かされています。
ふと思い立ち、七十人訳(新約聖書の前提となった、旧約聖書のギリシャ語訳)を調べてみました。えっと思うものでした。カタカナで失礼しますが、冒頭が「キューリエ ホ・キューリオス ヘーモーン」となっているのです。
ドイツ語のHerrとunser Herrscherは同格の言い換え、従ってどちらも呼びかけと考えていたのですが、ギリシャ語(呼格が確立している)を見ると、「主よ」という呼びかけの次に「私たちの主」という主格が置かれています。となると、「私たちの主である主よ」と訳すべきだということになるでしょう。
そこでバッハの作曲を見ますと、"Herr"はつねに呼びかけとして作曲されていますが、"unser Herrscher"の方は長い音型で作曲されている。それはヴァイオリンの音型と対応するもので、後に「栄光」の表現と重なり合う、circulatioのフィグーラです。だとすると、バッハは"unser Herrscher"を”Herr”の説明と考えていることになり、その訳としては、「私たちの支配者であられる主よ」という方がよさそうです。もちろん、「主よ」という語を冒頭に置く方が曲を生かす、という考えも有力ですが。
どうも、巨大な森に入りこんでしまったようです(汗)。
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