マルチェッリーナ考 ― 2009年09月13日 18時21分27秒
昨日の土曜日は、「モーツァルティアン・フェライン」の例会で、8年ぶりに講演しました。モーツァルトにかけては抜群に物知りの方々の前でお話しするのは気が引けるのですが、昨年の《フィガロの結婚》の授業で楽譜と台本を見直し、新しいことにいろいろ気がついていたので、その点をまとめてお話ししました。
その中で皆さんがいちばん興味をもってくださったのは、女中頭マルチェッリーナに関することです。モーツァルトはマルチェッリーナをソプラノとして考えていたが、現在はメゾソプラノで歌われる、その傾向は、第4幕のアリアを省略する慣習の定着によって加速されたのではないか、という仮説をまず述べ、その根拠として、第4幕のアリアがハイhを含むかなり高い音域のコロラトゥーラで書かれていること、第1幕のスザンナとの小二重唱で両者のパートがカノン風に書かれ、音域上の差異が設けられていない、ということを述べました。
その副産物として考えられたのは、本来のマルチェッリーナが今風に言えばアラフォーの、色香を充分に残した、なかなかすてきな女性像だったのではないか、ということです。マルチェッリーナをすっかりお婆さんにしてしまう演出も多く、それはそれで「にもかかわらずフィガロと結婚しようとしている」ストーリーを面白くするのですが、それでは、スザンナが彼女と張り合って本気で嫉妬することの根拠が、弱くなります。第4幕のアリアにも、「色香」がぜひ必要であるように思われます。
お婆さんタイプの典型はガーディナーの映像ですが、この日鑑賞したアーノンクールとチューリヒ歌劇場の映像ではエリーザベト・フォン・マグヌスがまさに色香イメージで演唱していて、これでこそ、と思いました。そう思って見ると、若々しいマルチェッリーナは、珍しくないですね。今までは、これじゃちょっと若すぎるな、などと思っていたものですから。
マルチェッリーナのアリアはメヌエット調の優雅なものですが、山羊でさえ互いの自由を尊重する、というくだりの「自由」というところで、唐突に、大きなコロラトゥーラが出現します。これは《ドン・ジョヴァンニ》の「自由万歳!」を連想させるもので、モーツァルトのひそかなメッセージではないだろうか、というお話もしました。マルチェッリーナの声部をモーツァルトはソプラノ記号で記譜しているのですが、これについては次話で。
続・謝罪考 ― 2009年09月09日 22時56分54秒
外に対する謝罪、内に対する謝罪という分類をしましたが、どちらにも含まれない、第3の謝罪があることに気づきました。神様に対する謝罪です。日本の伝統に則して言えば、「お天道様に対する謝罪」ということになるかもしれません。
まあこれは、人道的・道徳的観点からの反省、というのと同じことです。そう言ったのでは、抽象的で味気ないですが・・。教会に通っている人であれば、それが懺悔とか告解といった形を取るのだと思います。その究極的な形、将来への誓約を含む形が、「悔い改め」と呼ばれるものなのではないでしょうか。悔い改めは赦しの前提ですから、Claraさんのコメントにあるような「謝るぐらいなら最初からしないでよ」とおっしゃる方に、赦しはやってきません。
憐れみの祈りも、神への謝罪のひとつの形態と考えると、わかりやすいかもしれませんね。eleison、miserere、erbarme dich・・・。謝罪について考えているうちに、バッハの歌詞の中心部にたどりついてしまったようです。「憐れんでください」とはどういうことか、いつも考えていますが、素直に謝る気持ちの延長線上にあることは確かだと思います。
謝罪考 ― 2009年09月07日 22時03分42秒
熊本で挨拶にいらした3人の方が、私が初めて国立音大で授業(音楽美学)したときの思い出を語られました。それによりますと、私は、「たくさん用意してきた資料のごくわずかしかお話できなかった、申し訳ない」と言って、授業を終えたのだそうです(記憶なし)。私の教員活動が謝罪とともに始まったということが、われながら興味深く思われました。
ダブルブッキングなどを繰り返す報いとして、私は日常生活において、ひんぱんに謝ります。頻度はどうかなと思っていろいろな人を観察してみると、さかんに謝る人がいる反面、けっして謝らない人も、ある程度いることに気づきました。謝らない人のメンタリティはどんなものかなあと考えましたが、よくわかりません。
かくいう私にも、謝りにくい時や、謝りたくない時というのがあります。謝って当然だと周囲が思っている時にはかえって謝りにくく感じるのは、私だけでしょうか。謝れ、と言われている時に謝るのは、もっとむずかしい。メンツがからんでくるからでしょう。ですから、一般に謝罪の要求というのは、人間関係を損ねると思います。
さらに考えるうち、私は家庭でめったに謝らないことに気づきました。外では謝るが、家では謝らない人。外でも家でも謝る人。外でも家でも謝らない人。外では謝らないが、家では謝る人。皆さんはどちらでしょう。また、望ましいのはどのタイプでしょうか(笑)。
月日への実感 ― 2009年09月06日 23時45分56秒
5日、熊本のモーツァルト・コンサートは、1800席と大きいにもかかわらず音響効果のひじょうに良い県立劇場に、大勢のお客様を招いて開かれました。
この日の大学+地元のコラボレーションは、地元のアマデウス合唱団とアンサンブル・ラボ・クマモトが国音勢の参加と福田隆教授の指揮により、《レクイエム》の抜粋を演奏するというものでした。しかしこれが、気迫のこもったじつにすばらしいもので、作品のすごさを見事に表現。〈トゥーバ・ミルム〉でソプラノ(澤畑さん)が「その時、哀れな私は何と言ったらよいのか」という歌詞で入ったところでは涙が出て、以降止まりませんでした。高校生の時傾倒したこの作品にこうした形で再会し、感無量です。
演奏後、また打ち上げの席で、私が最初に非常勤で行った講義を聞かれた方、若い頃の授業を受講された方が何人も来てくださいました。積み重ねた月日を、しみじみと実感します。
6日(日)。ほとんどの先生方は高校生対象の講習会で忙しいのですが、私は担当がありません。せめて私ぐらい観光しないと熊本県に申し訳ないと思い、タクシーを借り切って阿蘇巡り(!)。雄大きわまりない自然景観を満喫しました。温泉にも入りましたよ。
戻った東京、涼しいですね。全然違います。
名前を忘れては ― 2009年09月04日 23時08分51秒
今日は北九州の八幡にある「響ホール」で、「モーツァルトの美意識」のコンサートを行いました。熊本も、北九州も猛暑。もともと暑い土地柄なのか、ちょうど今そうなっているのか、わかりませんが。
こちらで用意していく出し物に加えて、現地の卒業生組織からの出し物を取り入れ、交流を図るのが、当シリーズのコンセプトです。冒頭の《ケーゲルシュタット・トリオ》と、《魔笛》の少年役を、北九州支部の方々に担当していただきました。これがなかなかで、《魔笛》の3少年など、大きな貢献をいただいたと思います。
トーク担当の私が心配したことのひとつは、演奏者紹介。お名前を忘れたりしたら、たいへん失礼にあたります。しかし最近は、あたりまえのことがとっさに出なくなる、ということをしばしば経験していますので、油断はできません。
演奏が大きな盛り上がりのうちに終わり、私が出演者を紹介する番になりました。懸命に記憶をたどりつつなんとかフルネームでご紹介できていたのですが、最後に、精神的な深さを加え圧巻の歌唱だった長身美貌のソプラノ歌手の前で、立ち往生。懸命にプログラムのページをめくり、「澤畑恵美」という名前を発見しましたが、一生の借りを作る、大失態でした。一番間違えそうもないお名前を忘れてしまうのですから、弁解の余地はありません。
失態はともかく、4人の名歌手(澤畑、加納、経種、黒田)の歌はすばらしく、器楽の方々も本領を発揮されて、エキサイティングなコンサートになったと思います。明日は、熊本で開催します。
熊本 ― 2009年09月03日 23時17分32秒
熊本に来ています。四国、九州のうちで、いちども来たことがなかったのが、この熊本。原初の力強さのみなぎった都市です。街路に植えられた木も太くたくましく、銀座の柳(いまはないですが)が、いかにもひ弱に感じられます。
熊本城の広壮さは、たいしたもの。建物だけでなく周囲の環境がそのまま保全されていて、全部経巡ったら、相当な時間がかかりそうです。小腹が空いたのでラーメンを食べようと思い、やっとみつけた小さな店に入りました。そのお店は地元のお年寄り女性のおしゃべりの場となっていましたが、その言葉が、よく理解できません。いろいろな意味で、伝統が色濃く残っているのですね。でも、練習が終わったあとに行ったビア・レストランは、世界のビールをそろえて、見事なものでした。
《レクイエム》の合唱も気合いを入れて準備されていましたので、いいコンサートになりそうです。明日は、北九州です。
9月のイベント ― 2009年09月01日 22時18分21秒
ああ、9月。もう、9月。ついに、9月。秋ですよ、みなさん!
今月のご案内です。皮切りは、毎年この季節にやっている「モーツァルトの美意識」と題するコンサートです。今年は「響き合う友情と愛」と題して、4日北九州市立響ホール、5日熊本県立劇場コンサートホールで開催します(北九州は19時、熊本は18時から)。
プログラムはやや変則的なのですが、ヴァイオリン・ソナタホ短調と、オペラの二重唱特集が共通で、出演者は澤畑恵美、加納悦子、経種康彦、黒田博、久元祐子その他、国立音大の誇るすばらしい陣容です。このほか地元の同調会との交歓企画で、北九州には《ケーゲルシュタット・トリオ》、熊本には《レクイエム》抜粋が入ります。九州の方々、ぜひお会いしましょう。北九州の情報はhttp://www.kunitachi.ac.jp/event/2009/kitakyushu090904.html、熊本の情報はhttp://www.kunitachi.ac.jp/event/2009/kumamoto090905.htmlでどうぞ。
12日(土)は、モーツァルト・フェラインで講演します。「歌劇《フィガロの結婚》--気づきやすいこと、気づきにくいこと」というタイトルを考えています。19日(土)、20日(日)は、全日本合唱コンクール中国支部大会の審査員で、広島に行きます。様子のわからないところなので、また苦労しそうです。
26日(土)13:00からは恒例の朝日カルチャー横浜教室のバロック・シリーズ。「コーヒー店のバッハ」というタイトルで、《コーヒー・カンタータ》と若干の器楽曲を紹介します。
人ごとですが ― 2009年08月31日 23時56分55秒
選挙、台風。大嵐が同時に来たような昨日今日でした。私が選挙好きなのは、悲喜こもごもの報道を通じて、人間の生の姿を見ることができるように思うからです。当選と落選、このぐらい明暗がはっきりしているものはなく、候補者が全身で、その違いをあらわしています。
私にとってはまったく人ごとの世界ですが、過去にクラシック音楽の領域から政界に挑戦した人が、いないわけではありません。しかし、生きるも死ぬも他人の投票次第、という世界って、どうなんでしょう。思えばわれわれの世界も、最終的には他人の評価だということなのかもしれませんが、基本的には、自分の勉強をコツコツ積み重ねるやり方が可能です。自分の名前を書いてもらうために「お願いします」「助けてください」と叫ぶ行動は、とても縁遠く感じられるのです。
よく考えてみると、選挙というのは、大学にもあるわけですよね。私はほとんど興味がありませんが、興味をもつと、深入りしてしまうものなのかもしれません。それにしても、過去には予見できなかったことがどんどん起こりますね。歴史の流れに、感慨を憶える選挙ではありました。5年後、10年後は、いったいどうなっているのでしょうか。
言われてみれば・・・ ― 2009年08月29日 21時40分01秒
目からうろこが落ちるといいますか、根本から認識の修正を迫るとてもいい本を最近読みましたので、ご紹介します。小林標著『ラテン語の世界~ローマが残した無限の遺産』という本で、中公新書の一冊、2006年初版です。
ラテン語を学ばれた方は、どなたも、むずかしい、複雑だ、という印象をお持ちではないでしょうか。私もそうで、合理化された近代語に比べると古典語はまことに複雑、じつにむずかしい、と思っていました。
ところが著者は、そうではない、というのですね。ラテン語というのは形式と意味がぴったり符合した言葉で、少しのあいまいさもなく論理的にできている、というのです。たしかに名詞の格や性、動詞の時制の数は多いが、それをいったん憶えてしまえば例外がほとんどなく(たとえば不規則変化の動詞がないので、辞書の巻末にも載っていない)、すべて明確に読める、というのです。
言われてみるとたしかにその通りで、それは気がつかなかったと、脱帽しました。ラテン語は、少ない言葉できちんとした意味を伝えられるということです。シーザーの”veni, vidi, vici.”(来た、見た、勝った)は文中でも引かれている有名な例ですが、「veni」を日本語にきちんと訳すなら、「私は来た」とせざるを得ません。ラテン語の簡潔さ、無駄のなさがきわだっています。そうか、ラテン語の聖書も薄いですもんね。
基礎をきちんと勉強することが大事だとわかり、またやってみようか、という気になってきました。蛇足ですが、CDの解説等に、ラテン語聖書の歌詞の対訳に新共同訳など新しい聖書訳をそのまま当てているものが多いのは、感心しません。ラテン語訳とヘブライ語/ギリシャ語原文は大きく相違していますので、やはりラテン語から直訳すべきだと思います。
(私が読んだ新書、2007年の第4版でした。読む人、多いんですね!)
絶品!ギエルミ氏 ― 2009年08月28日 23時51分05秒
いずみホールのバッハ・オルガン作品連続演奏会。第6回の出演者は、初のイタリア人、ロレンツォ・ギエルミ氏でした。トリオ・ソナタのCDが好きで世界最高峰、という印象を抱いていた私は、楽しみであった反面、不安でもありました。イタリア語でインタビューはできませんし、どの程度コミュニケーションを取れるか、心配していたのです。
お会いしたとたんに、心配解消。日本人ほどの背丈で、いかにも頭のよさそうなギエルミ氏は、オルガン技術者とはフランス語で、ホールのスタッフとは英語で、私とはドイツ語で流暢にお話になります。何の不安もない、バイリンガル。リハーサルは要領よく進められましたが、じつに明晰なスタイルで貫かれ、オルガンが、これまで聴いたこともないほど、すっきり響きます。線が生き生きと絡み合い、音色選びのセンスも最高。そのことを申し上げると、自分はオルガーノ・プレーノでわーっと響かせるのが好きではなく、つねに繊細な音作りを心掛けている、とのこと。さすがのコメントです。
休憩後のインタビューでステージにお呼びすると、意外や、小走りに出てこられました。愛嬌のあるお話をしばらくされた後、手を振りながら、小走りに退場。知性派なのに、軽いノリなんですよね(笑)。洗練された演奏は後半ますます透明度を高め、アンコールのスカルラッティのソナタは最高でした。
毎回こうした演奏が続きますので、このシリーズ、本当に多くのお客様に来ていただいています。ホ短調のプレリュードとフーガに《18のコラール》の抜粋をはさむ、という今回のプログラムはきわめて渋いものだと思いますが、客席が大きく盛り上がったのはたいへん嬉しいことでした。前売りの予約も最高を記録しました。ありがとうございます。
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