お墓考2013年08月16日 12時21分52秒

当家のお墓は、大宮市の外れにあります。猛暑のお盆、お墓の掃除に行きましたが、暑いのなんの。なにしろ、熊谷が近いのです。

最近墓石を補修し、玉砂利を入れました。墓石は、白御影石の立派なものです。父が死んだのはもう30年以上前ですが、その時父が石にこだわっていたのを覚えています。そんなところに見栄を張るのかなあ、と当時は思ったのですが、最近妻に聞いたところでは、父は私が入るときに恥ずかしくないように、という思いから、石を探していたとか。時間が経ってこそわかる、親の恩ですね。

お墓や葬式の相談も、家族で始めています。驚くのは、世間における簡略化の、急速な流れ。お墓を作らず灰を撒く、という流行(?)を実践する人が、周囲にも出てきました。葬儀を内輪で済ませる人は、増える一方。自分のことで迷惑をかけないように、と考えられる方が多いようです。

予定が詰まっているときに葬儀の知らせが入るのはたしかに困りますが、一方では、人がひとり亡くなるのを簡単に済ませていいものだろうか、という気持ちも、とてもします。難しい問題ですね。

今のところ私は、四分六で、お経を上げる葬儀をやってもらおうと思っています。人間の生死がこの世の人間関係だけにかかわるのであれば、迷惑をかけないように、という発想も納得できるのですが、現世を超える視点から考えたいとなれば、おのずと答が違うように思われる。簡略化の便宜を享受しつつも、日本人の文化伝統を振り返るにつけ、これでいいのかなあ、と思う昨今です。

演劇に目覚める2013年08月13日 18時25分45秒

酷暑お見舞い、申し上げます。炎天下でお仕事されている方、お疲れさまです。私がいちばん暑いと思ったのは、11日(土)の名古屋でした。満員の新幹線から降り立っただけに、その迫力はひとしお。汗が滝のように出て、夜、寝てから水を飲みに起き出す始末でした。

11日は、「あいちトリエンナーレ2013」の初日。愛知県芸術劇場には大勢の人が出ているので、いっそう暑く感じます。

覗いたものの中で感動したのは、ままごと『日本の大人』という演劇。柴幸男さんという若い劇作家の作・演出で、子どもが時間の推移の中で大人になるとはどういうことか、何を得て、何を失って、何が変質するのかを、子どもと一緒に見られるような形で、わかりやすく、明るく、楽しく(しかししだいに悲しく)扱ったものでした。

正直なところ、演劇にあまり関心のなかった私ですが、4人の若い俳優が机をどんどん動かしながら作ってゆく(=過去と現在を往復してゆく)スピード感あふれるステージに魅了されました。誇張や押しつけがましさがなく、ひたすら軽妙でユーモラスなのが、何より。演技もとてもよかったです。つい涙が出てしまいました。

演劇に触れることで、オペラの見方が少し変わってゆくといいな、と思っています。

ドイツで勉強するならこの本を!2013年08月09日 22時32分43秒

6月の旅行の、ツアー最終日。ライプツィヒのホテルから空港行きのバスに乗り込んだ一行を、とても親切な日本人が、ガイドとしてサポートしてくれました。私のこともよくご存じということで、一行を見送ってからもしばらく、話が弾みました。

この方は市川克明さんとおっしゃり、ハレに滞在して、ホルンの演奏と音楽の研究をなさっているとか。そのさい話に伺っていたご著作『音楽のためのドイツ語事典』(オンキョウパブリッシュ)を送っていただき、拝見したところとてもいい本なので、ここでご紹介します。

音楽の勉強にドイツに行くとき、語学学校で会話を勉強することは、ほとんどの人がやると思います。しかし、日常会話には音楽用語が出てきませんから、それを覚えるまでがたいへんですよね。聞いてわからず、言うに言えず、という状態が、当分続くことになります。

そんな経験をご自分もされた市川さんが、楽典、楽器、音楽史に及ぶさまざまな項目に対して、ドイツ語と日本語の相互対照表を作ったのが、この本です。楽器や楽譜には図解があり、カタカナとアクセントの読み方も載っていて、じつにわかりやすく編集されています。アドバイスの文章、もったいないほど豊富な写真にも、市川さんのお人柄と熱意がよく感じられます。

たいへんな労力を費やした本だと思います。あまり知られていないのはもったいないので、ご推薦申し上げます。この内容で2,000円は、安いと思いますよ。

輝き渡るイエス2013年08月08日 07時53分36秒

さて、十字架が立ったことを告げる聖書場面(第58曲)に続くアルトⅠのレチタティーヴォ〈ああ、ゴルゴタ〉(第59曲)は、作品の流れの中で、重要な分岐点に位置しています。ここで、ヴィオローネ+オルガンとチェロのピチカートにより、時満ちたことを告げる鐘の音が響いているからです。それは弔鐘であると同時に救いへの希望の鐘であることが、テキストから理解されます。

その響きがきわめて印象的なのは、この楽曲が変イ長調を基礎としながらもたえず♭、♭♭の臨時記号を内に孕み、♭圏に深く傾斜して、♯満載の群衆の合唱と、鋭い対照をなしているからです。♯圏への傾斜を強める聖書場面の中にト短調のアルトII・アリア、ニ短調のバス・アリアが置かれているため、悲劇と省察の間にはしばらく乖離が生じているのですが、ユニゾンの「私は神の子だIch bin Gottessohn」がホ短調(主調)に歴然と終止したあとに〈ああ、ゴルゴタ〉が響くと、音楽はもう♯調には戻らず、非♯調の楽曲を連ねて、フィナーレへと至ります。以後の30分ほどを「救いと鎮めのゾーン」と呼びたい。ここでどのぐらい「変われる」かが、演奏の感動を左右します。

この偉大なる転換点、戦略上の要衝で、変ホ長調のアリア〈見よ、イエスが私たちを抱こうとして両手を広げているのをSehet, Jesus hat die Hand, uns zu fassen, ausgespannt 〉(第60曲)が登場するわけです。

スタッカートを指定された通奏低音は、十字架が高く伸び上がるような音型を繰り返したあと、鐘の音を鳴らし続けます。アルトは、十字架につけられたイエスの姿に対する、視点の転換を要求する。それは、第2合唱に呼びかける形で行われます。Sehet・・・Kommt(来たれ)!Wohin(どこへ)?のやりとりは、Kommt・・・Sehet! Wen?(後にSeht! Wohin?)という冒頭合唱のそれを、ほうふつとさせます。冒頭合唱における対話が、ここで再現するわけです。

しかし、十字架が実現した今、状況は変わっている。アルトは「イエスの御腕に救済を求めよ」と述べ、ここで初めて、「救済Erlösung」の概念を明示します。それは、生きること、死ぬこと、憩うことが同義となる世界の開かれであることが、中間部で明らかになる。lebet(2回提示)、sterbet、ruhetの3つの動詞は絵画的な音型として対比的に造形されていますが、それらが「ここhier」ではもはや1つものである、さらに言えば「生きる」ことにおいて1つのものであることを、音楽の流れが、力強く物語っています。

この偉大なパッセージは2回繰り返されますが、そこにはオーボエ・ダ・カッチャのモチーフを敷衍した「あなた方、見捨てられた雛たちよ(Ihr, verlassnen Küchlein)の呼びかけが、慎ましく一度限り寄り添っています。感動的なポイントだと思います。

そう思って見ていくと、このアリアを通じて、十字架上のイエスという一種悲惨な対象が、崇高なものとして輝き渡ってくるような印象にとらわれます。「変容アリア」と呼びたい、と申し上げたゆえんです。見直せば見直すほど、その重要性に心を奪われてしまいます。

《マタイ受難曲》の「変容アリア」2013年08月05日 18時12分01秒

朝日カルチャー新宿校で牛歩のごとく進めて来た《マタイ受難曲》講座、先週ようやく、第60曲のアルト・アリアに到達しました。第59曲の〈ああ、ゴルゴタ〉を受ける、2本のオーボエ・ダ・カッチャのついたアリアです。

名曲揃いのアルト・アリアの中でもこれが一番好き、ということはかつても書いたかと思いますが、研究を重ねるにつれてその思いが募り、準備の段階で、これを「変容アリアVerklärungsarie」と呼びたい、というアイデアが浮かびました。

シュトラウスの交響詩に、《死と変容》というのがありますね。昔は、《死と浄化》と訳されていました。この変容・浄化がVerklärungで、動詞がverklären。シェーンベルクの《浄められた夜》はその過去分詞を使っています(verklärte Nacht)。他動詞ですが、再帰動詞としても使われます。

ルター訳の聖書では、この言葉が、マタイ17.2と、マルコ9.2に、印象深く登場します。新共同訳でマタイの方を引用しますと、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」という部分です。

「イエスの姿が目の前で変わり」という部分を、ルターは"Und er ward verklärt vor ihnen"と訳しました。ギリシャ語を受けてmetamorphosieren、ラテン語を受けてtransformierenとする手もあったかもしれませんが、ルターはドイツ語化(Verteutschung)にこだわり、verkrärenとしました。「変容を受ける」「浄化される」イメージがどのようなものであるかは、続く描写から明らかです。ちなみに、『ヨハネ福音書』では「栄光を受ける」という系列の言葉にやはりverkrärenを当てているのですが、これは考察から省きます。

リュッケルト詩によるシューマンの《献呈》に、この言葉が出てきますね。明らかに、聖書を踏まえた用法です。「君のまなざしは、僕を僕から浄化してくれた Dein Blick hat mich vor mir verklärt)の部分で、異名同音によるすばらしい転調の準備されるところです。(続く)

今月の「古楽の楽しみ」2013年08月04日 09時56分50秒

お盆の週になりますが、いかにもバロック、という、器楽曲の特集です。種々の編成を揃えて、「アンサンブルさまざま」と題しました。

12日(月)は2声部特集で、バッハのヴァイオリン・ソナタ(BWV1021、1014)、テレマンのオーボエ・ソナタ、マッテゾンのフルート・ソナタ、グラウプナーのヴァイオリン・ソナタ。マッテゾン(←かつての研究対象)の作品を出すのは初めてです。

13日(火)は3声部特集。フィーアダンクのイ長調組曲を手初めに、ローゼンミュラー、クリーガー、テレマン、ファッシュの種々の編成によるトリオ・ソナタを集めました。クリーガーの作品が珍しく、かつ面白いと思います。残った時間で、ゴルトベルクを少し。

14日(水)は4声部。ブクステフーデのソナタ、パッヘルベルのアリア、フックスのソナタ、シュテルツェルのクワドロ、テレマンのクワドロ。シュテルツェルのクワドロが結構面白かったので、4声部特集を思いつきました。

15日(木)は、ご推察通り、5声部またはそれ以上。こうなると、ウィーンのシュメルツァー、ザルツブルクのビーバーの出番となります。彼らの多声ソナタに、ヨハン・クリスティアン・バッハの五重奏曲、六重奏曲を組み合わせました。

17世紀のシュメルツァー、ビーバー対18世紀後半のJ.C.バッハとなると、まったく別の世界。音楽が、ものすごく人間に近づいてきています。この変化、発展を古楽好きの方々がどう思われるか、少なからず興味があります。

8月のイベント2013年08月03日 07時28分08秒

気がつくと8月。恒例のご案内です。今月は、朝日カルチャーの新宿校を休みにしましたので、わずかです。

今日、3日(土)は朝日カルチャー横浜校の超入門講座(13:00~15:00)で、チャイコフスキーの〈アンダンテ・カンタービレ〉を取り上げます。この曲の旋律は皆様ご存じのはずですが、楽譜に書くとどうなるでしょうか。チャイコフスキーの書いた通りを耳から再現することは、きっとむずかしいでしょう。理由は2つで、変拍子が「それらしくなく」入ることと、常識からすれば意外なアーティキュレーションが指示されていることです。これらが味わいに貢献していることは確かだと思うので、楽式の基礎論を手始めに、考えてゆきます。

11日(日)14:00~16:30は「すざかバッハの会」。今年は《ヨハネ受難曲》の連続講義ですが、話がふくらみ、来年まで時間がいただけることになりました。ですのであせらず、第1部の終わりに取り組みます。ペテロの否認とテノール・アリアのあるところ。慣行の稿と第2稿が大きく異なる部分です。

17日(土)10:00~12:00は、立川楽しいクラシックの会のワーグナー・プロジェクト。今回は《ワルキューレ》の第3幕です。若い頃圧倒的な感動を受けて聴き込んだ〈ヴォータンの告別〉が対象となります。

毎年夏にやってくる合唱コンクールの審査、今年は、山梨県と埼玉県です。それとは関係ありませんが合唱団Cantus Aminaeと進めている《ロ短調ミサ曲》メイキング、充実のうちにAgnus Dei到達しました。これは21日(水)の予定です。

ところで、私の著作で唯一廃本となっていた『モーツァルト 二つの顔』(旧選書メチエ)を、筑摩書房が文庫化してくださることになりました。8月は、その作業に多くの時間を費やすことになりそうです。

やっぱりいい!モンテヴェルディ2013年07月31日 23時59分16秒

「モンテヴェルディ~愛の二態」にご来場の皆様、ご出演の皆様、また種々ご協力いただいた方々、ありがとうございました。私のプロデュースするコンサートはごくささやかなものから広がりをもつものまでさまざまですが、今回のコンサートは、クォリティの高さという点では自分史のなかで指折りのものではなかったかと思っています。皆様のおかげです。

今回の会場は、昨年の《聖母マリアの夕べの祈り》の継続という意味でも、絶対にサントリーホール(ブルーローズ)でなければ、と思っていました。結果は本当にそれでよかったのですが、背伸びをした分、しわ寄せがいった部分があります。それは、私の責任範囲である、字幕。高価なレンタルをあきらめ、「たのくら」所蔵のホームユース(!)のプロジェクターを、立川から運びました。

私は、適切な字幕とともに鑑賞すれば、音楽の感銘は3割増しになる、と確信しています。ですから、モンテヴェルディのマドリガーレのような高度に文学的な作品には字幕が必須と考え、自分で準備しました。ただその設備に手抜きをしたので、字幕を客席から見えるように投射できるかどうかが、最大の不安であったわけです。

当初想定した幕に映してみると、ほとんど読めないことが判明(泣)。その後さまざまな努力を費やして改善しましたが(担当の方々、まさお君、お世話になりました)、結果は、ある程度の範囲でまあまあ読めた、というところだったでしょうか。芸大生が献身的にオペレーターを務めてくれたのは、《ヨハネ受難曲》ゼミの副産物です。

 櫻田亮さんが発揮された世界的レベルのカリスマ性は、これまで私がプロデュースしたコンサートにはなかったもの。彼が上杉清仁さん、谷口洋介さん、小笠原美敬さんと組む男声アンサンブルの音程の良さとスピリットはプロの妙技と言うほかなく、脱帽です。阿部雅子、渡邊有希子の女声お二人も大健闘で、《マニフィカト》のエコーでは鳥肌が立ちました。器楽は、天野寿彦、渡邊慶子(ヴァイオリン)、平尾雅子(ガンバ)、渡邊順生(オルガン、チェンバロ)という実力型の布陣。初めてご一緒する天野さんの様式感はたいしたものでした。

 休憩時間に打ち上げの予約に走るようなプロデューサーでしたが、次を早くやりましょうという言葉を一流の方々からいただいて、モンテヴェルディに対する演奏者たちの強い思いを実感。個人的には、重唱マドリガーレのすばらしさを何倍にも感じるようになったことが収穫でした。はまると抜けられないのが、モンテヴェルディです。

最後になりましたが、とくにご案内しなかった旧知の方々にたくさんお出ましいただいたのが嬉しい驚きでした。ありがとうございました。

ドイツにお供した3冊2013年07月30日 09時28分27秒

成田空港の本屋さんで文庫本を3冊買って、飛行機に乗りました。マキアベリの『君主論』、ドストエフスキーの『貧しき人々』、猪瀬直樹さんの『唱歌誕生』です。『君主論』を読むのは初めてでたいへん興味深かったですが、猪瀬さんの本にもとても感心したので、ひとこと。

都知事の猪瀬さんに明治の音楽史に触れあう本があるとは、知りませんでした。過去にNHK出版と文春から出て、今回、中公文庫で新装発売になったもののようです。読んでみると多くの文献を用い、現地取材も行われている力作で、びっくりしました。

詩人高野辰之、音楽家岡野貞一の2人に焦点を当て、島崎藤村などもさかんに登場させながら、時代の中で唱歌がいかに生み出されたかを描いてゆく。豊富な語彙といい潤いのある文章といい、また卓越した構想力といい、作家の筆力を随所に感じさせます。個々の論点に関してはおそらく専門的な異論もあることでしょうが、その議論は学会の若い方々におまかせするとして、私はテレビの画面ではわからない猪瀬さんの奥の深さ、とりわけ感受性の豊かさに感心しました。

刺激的な世界2013年07月28日 09時41分49秒

若い人に申し上げているのは、困難な課題に挑戦しろ、ということです。論文を書くような場合、自分の現状や力量に見合ったテーマを設定することも重要ではありますが、研究を通じて自分の能力を高めることも若いうちはとくに目標となることなので、つねに、上を見ている必要があります。外国語が苦手だから使わずに済むテーマを選びたい、という方にときどき出会うのは残念。本当にやりたいことがあれば、その外国語を習得するぐらいの気概はもつべきです。それができるのが、若さの特権なのですから。

というようなお説教は、自分もそれなりに挑戦していなければ、説得力がありませんよね。30日のモンテヴェルディ・コンサートの研究まわりを引き受け、対訳・解説・字幕を担当するというのは、私にとって困難な課題そのものでした。しばしば力不足を感じましたし、時間もかけました。

しかしなんとか到達点に来ると、一定のパースペクティブが自分うちに形成されていることに気がつきます。何より思うのは、初期バロックの宗教曲やマドリガーレが、テキストにしろ音楽にしろ、並びないインテリジェンスの所産であるということです。知るにつれ、近づくにつれて面白くなるわくわくするほど刺激的な世界が、大きく広がっています。その喜びを客席と共有するのが、今回のコンサートの目標。ステージでは解説と字幕を通じて、少しでもわかりやすくなるように務めます。

27日(土)は、横浜の渡邊城でリハーサル。研究情報を演奏者の方々にお伝えし、解釈の方向を議論しました。歌い手にはバッハ・コレギウム・ジャパンの中心メンバーが加わっていますし、渡邊順生、平尾雅子の通奏低音を初め、器楽もレベルが高いと思います。火曜日のサントリーホール・ブルーローズに、少しでも多くの方が足をお運びくださるようお願いします。