初体験 ― 2008年11月07日 20時44分59秒
笠原潔さんのお通夜で、弔辞を頼まれました。故人の意思だそうです。お受けしましたが、正式に弔辞を読むのは、初めて。まさか、後輩の葬儀で体験しようとは思いませんでした。
内容を考え始めてしばらく、葬儀はキリスト教式であることが判明。失礼があってはいけないので、ネットで心得を調べてみました。すると驚くことに(よく考えればなるほどなのですが)、「ご愁傷様です」や「お悔やみ申し上げます」は、禁句であるとのこと。普通使いそうな言葉や表現がいくつもリストアップされており、どうやって書いたらいいやら、途方に暮れてしまいました。
もうひとつの違いとして書かれていたのは、普通の葬儀では祭壇の遺影に向かって語りかけるが、キリスト教式の場合には(遺霊に対する考えの違いから)客席に向かって語りかける形になる、ということです。そこでこの方式を採ることにし、筆ペンと式辞用紙を用意して書き始めました。しかし、疑問が次々と浮かんできます。名前は言うのか、言うとしたらいつどのように言うのか。式辞の封筒には名前を書くのか書かないのか、書くとしたら表か裏か内封筒か、等々。むずかしいものですね。
細部は会場で確認しましたが、当日の牧師さんの方針では、遺影に向かって朗読する形になる、とのこと。まずいなあ。ともあれ、「笠原潔さんの安らかなお眠りをお祈り申し上げます」で始まり、「笠原さん、どうぞゆっくりお休みください」で終わる文章を、複数回の中断(←涙)を克服して、心を込めて読み上げました。途中に、バッハのカンタータ第106番の一節を引用。気の付かない失礼もあったかも知れませんが、気持ちを込めて読めば、多少の慣例違反は許してもらえるのではないかと思いました。息子さんの挨拶が洗練されていてすばらしく、男の子がいる家庭もいいものだなあ、と感じた次第です。
コメント
_ chu-intermezzo ― 2008年11月07日 21時59分46秒
_ I教授 ― 2008年11月08日 22時01分05秒
_ 秦 喜人 ― 2009年05月02日 15時12分52秒
ピアニストのポゴレリッチ氏の初来日の名古屋公演に一緒に行き、興奮のあまり、二人でお酒を飲み、当時は奥様が妊娠中でご実家に帰っておられたので、先生のお宅に泊めて頂きました。夜中に私が先生に足を掛けて寝ていたらしく、ちょっと恥ずかしかったことを鮮明に覚えています。今は、コンピュータのシステム開発の会社を経営しており、音楽とは掛け離れた人生を送ってはいますが、私のこれからの人生は亡くなられた笠原先生のリベンジだと思っています。訃報を知ってから本当に涙が止まりません。出来ればご遺族の所在を教えて頂ければ幸甚です。奥様にもお会いした経緯があります。笠原先生29歳、小生19歳の出会いでした。
_ I教授 ― 2009年05月02日 22時12分11秒
_ 秦 喜人 ― 2009年05月03日 04時35分33秒
息子さんがお生まれになったときお名前を考えたり(僕の意見は不採用)、好きな人が出来たときに相談に乗ってもらったり、コンピュータ関係の会社に就職したとき、君の選択は最先端のリクルートかもというご返信を頂いたり、小林道夫さんのお宅に下宿しておられた頃のお話を聞かせて頂いたり・・・誰にも知れず一人で男泣きに泣いたのは、ミケランジェリが亡くなったとき以来です。
本当に笠原先生は、僕の良き兄貴であり、人生の一つの指針であり、ある意味ファンタジーでした。奥様の穏やかなお顔も、笠原先生が当時付けておられたフレグランスの香りも鮮明に覚えています。
_ 秦 喜人 ― 2009年05月03日 04時38分07秒
_ I教授 ― 2009年05月03日 12時51分57秒
_ 秦 喜人 ― 2009年05月04日 07時25分52秒
_ 秦 喜人 ― 2009年05月04日 07時38分06秒
あと、今道友信先生、波多野精一先生を神のように尊敬されていました。礒山先生については、憧れの人だという意味のことを時々口にされていましたよ。
_ chu-intermezzo ― 2009年05月04日 12時39分36秒
せめて、自分の師には長生きしていただきたいです。笠原先生のぶんも・・・
さみだれの一人でお恥ずかしいかぎりですが、1桁目が2桁目の半分はもう来ないなんてどうかおっしゃらず、ずっと誕生日の話題で楽しみたいです。
_ 秦 喜人 ― 2009年05月04日 13時24分16秒
笠原潔は、私の心の中で確実に生きています!
人生は、輪廻転生。礒山先生にお会いしたことはありませんが、先生のブログに笠原先生の記事を見つけたのもプロヴィデンスの仕業。礒山先生のような優秀な方に老け込んでもらっては困ります!みんなで明るく前を向いて歩きましょう。
_ 佐藤正之 ― 2010年02月02日 11時28分07秒
私は医者で、神経内科を専門としてます。なかでもヒトの高次脳機能障害を扱う神経心理学が専門です。私は大阪の相愛大学の音楽学部を卒業してから、三重大学の医学部に入り直して医者になった経緯があり、臨床の傍ら、音楽の脳内認知機構を主たる研究テーマにしています。
私が笠原先生とお会いしたのは、先生が名古屋芸術大学におられたときでした。当時先生は週1回三重大学に非常勤講師でこられ「音楽美学」の講義をされておられました。私も受講し、講義終了後「実は相愛の・・・」というお話をしたのが最初で、以後、お付き合いさせていただいておりました。
先生が関東に戻られ、私が医者になってからは、お会いする機会はめっきり少なくなりましたが、それでも私の「音楽認知」の論文を先生にみてもらい、ご意見を伺ったりしていました。数年間のブランクの後、2008年春に、音楽美の脳内機構について、美学的観点からの意見を伺いにご連絡した際にご病気のことを知りました。それからメールを通じて、先生は美学の視点から、私は脳科学の視点から、音楽美の成り立ちについてディスカッションをしてきました。いつかバルテュスとゼキによる視覚芸術の美を扱った「芸術と脳科学の対話」の、音楽版ができないかと思って。
医者である私は、病気になられてから直接お会いしたことはありませんでしたが、病状が楽観を許さないことは承知していました。しかし、終わりは余りにも突然でした。亡くなられる1カ月前にもメールのやり取りをして、ちょうど私が転勤前だったので、「続きは新しい職場から」とお伝えし、11月に新アドレスをお送りしても何の返事もないことから、もしやとネットで調べて・・・
私の手元には先生と意見交換した未解決の問題がそのまま宿題として残っています。
このたび、偶然に先生のホームページで笠原先生についての書き込みを拝見し、私も書かせていただきました。これからも笠原先生からの宿題を少しずつでも解いていければと思っています。
長文失礼いたしました。
_ I教授 ― 2010年02月02日 22時21分06秒
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9月末に、生まれた娘の写真を見て、「優しい顔をしていますね!」とメールを下さり、それが最後になってしまいました。いまだに信じられません。もっとたくさんお話したかったと切に思います。