DuとSie2016年04月28日 08時57分37秒

「そんなことをしているのは、先進国では日本だけだ」とよく言われますね。そういう言葉を聞くと反射的に、すべて欧米並みになれば日本はよくなるのだろうか、という思いが湧きます。失ってはならない良さも、いろいろあるはずですから。

たとえば、敬語。多種多様な敬語をきれいに使いこなすのは一生かかってもむずかしいことで、外国人には大きなハードルに違いありません。でも、"I"にも"you"にもたくさんの語彙がある日本語は、すばらしいと思います。

翻訳では、それが難題を投げかけます。敬語らしい敬語のない文章に、敬語や丁寧語を種々盛り込んで、日本人の感覚に合わせていく必要があるからです。こういう状況が、日本人の細やかな感受性を培ってきたことは間違いありません。

ドイツ語には2つの二人称系列(DuとSie)がありますよね。二人称の本筋はDuで、Sieは三人称複数からの代用ですが、初級でDuを教えないやり方もあるようです。でもDuの感覚はきわめて重要ですから、後回しにするのは、本当はよくないはずです。

よく、神様にもDuでいいんですか、と尋ねられます。Duは身内への砕けた言い方、Sieは丁寧な言い方、という風に、どうしても覚えてしまうからです。しかし多くの方がご存じのように、Duは親称。心の近くにいる神様にSieを使ったのでは、祈りになりません。

Sieで話していたドイツ人と親しくなり、Duで話す(duzen)ようチェンジする瞬間が訪れます。これは結構、神経を使うことです。

何年前だったでしょうか、一つの思い出があります。記憶に間違いがなければ大阪のお寿司屋で、クリストフ・ヴォルフ先生とお話ししていました。もちろんSieでです。すると先生が突然居ずまいを正され、「礒山さん、提案があります」と切り出されました。「これからDuで話しましょう」とおっしゃるのです。もちろんありがたいこととお受けし、乾杯しました。その折の先生の高揚した面持ちが、強く印象に残っています。以来、「タダシ」「クリストフ」と呼び合っているわけですが、ああこれがドイツのよき伝統なんだな、と思ったことでした。

3月に福島でアンサンブルコンテストの審査員を務めたことをお話ししましたね。その折りにご一緒したのが、タリス・スコラーズのピーター・フィリップスさんでした。ドイツ語で話せたらありがたいなと思ってもちかけたところ、OK、何でもない、とのこと。さっそくSieモードになった私ですが、意外にもフィリップスさんはDuで話しかけてこられ、大いに面食らいました。

最近は、初めからDuでも当たり前になっているのだと思います。それだけに、ヴォルフ先生の「儀式」に接したのが、ありがたくも貴重な思い出です。