続・アクセントの話 ― 2010年08月10日 22時07分18秒
最近は、須坂の方々とお話しする機会が多くあります。そこで気がつくのは、須坂の方々に、かつて「長野県」と思っていたアクセントが、ほとんど見あたらないことです。これは中信と北信の違いなのでしょうか、それとも、時代による変化が加わっているのでしょうか。はたまた、公の場でみなさんが標準語を話しておられるからでしょうか。
昔の松本と今の須坂を比較するにあたり、話を地元の地名に限りましょう。「長野」はどう発音するでしょうか。カタカナを高い部分、ひらがなをが低い部分とすると、松本が「なガの」(!)であるのに対し、須坂は「ナがの」です。「松本」は、たとえば「松本へ行く」という場合に松本は「まツモトへ〔ひらがな〕いく」となるのに対し、須坂は「まツモトヘ〔カタカナ〕イク」となり、東京と同じです。などなど、今の須坂ではほとんど、言葉の違和感を感じないのです。
この話題でコメントをくださったClaraさんは、どうやら私より少々年上の方でおありのようです。いつも精彩のあるコメントをくださいますので、年長、というイメージは浮かびませんでした。
昔は国語の時間のアクセント指導が厳しかったとのこと、たしかにそうですね。私も、ドイツ語のアクセントの誤りは厳しく指導しますが、日本語の場合はかえって注意しないことに気がつきます。方言にも価値を認めなくては、という心理があるのと、自分でも自信のない場合が多いからかもしれません。国語の入学試験問題で、アクセントの問題ってありますか?中学の国語の時間で「おやおや」をアクセントづけする問題が出たことを、鮮明に記憶しています。私は「おヤオヤ」と回答したのですが、正解は「オやオや」でした。これは両方ありますね(笑)。
力士の日本語 ― 2010年08月06日 18時32分26秒
それにしても、相撲界の外国人は、みな立派な日本語を話しますね。このことは、どんなに外国人が増えても相撲はやはり日本のものだと感じさせる上で、大きな働きをしていると思います。野球の選手なんか、何年いても通訳なしでは話せませんものね。
要するに、どんな人でも環境が導けば、外国語をしっかりマスターできるのです。誰も母国語では助けてくれず、日本語に必死にならざるを得ない、という環境が必須条件。通訳付きを売りにする部屋が出てきたりすれば、このレベルはたちまち瓦解してしまうでしょう。
日本に移住して何年も経たないうちにむずかしい日本語を完全にマスターして生活できるなんて、たいしたものですね。尊敬に値します。このことを含め、相撲の世界に数々の美風があることも、考えてあげたいと思います。
アツい? ― 2010年07月31日 23時25分27秒
「アツい思い」、「アツい言葉」っていいますよね。「アツい男」というのもあるか。皆さん、言ってみていただけますか。
「アツい言葉」を例にしましょう。「つ」から「ば」までを、高低アクセントの高い方で発音された方は、どのぐらいおられるでしょうか。また、「ツ」のみをとりわけ高くされた方、どのぐらいおられるでしょう。
私は、後者です。後者がこそ「熱い言葉」であり、前者は「厚い言葉」であると確信している。ところが最近は、このきわめてよく使われる言葉を、前者のように発音する人がほとんどなのです。ニュースを読むアナウンサーさえ、そう。聞くたびに切歯扼腕なのですが、これは変化なのか、誤用なのか、流行なのか、それとも何らかの根拠があるのか、どうなのでしょうか。
続・言葉のズレ ― 2010年05月08日 00時17分01秒
その中に、先生は意外におしゃれのようですが、いったいクローゼットの中に何本のネクタイがあるのでしょうか、という問題があったのです。私は、「クローゼット」などという言葉を使うのは女性に違いない、と断定。その上で推理を展開したのですが、じつは男性の出題だったとわかり、仰天。え~、男がクローゼットなんていう言葉、使うの?と叫ぶ私。すかさず、それは世代によるのだ、という女性からのフォローもありましたけど。
割り切れぬ気持ちを引きずったまま、今日もその話をしていました。すると相手の方の曰く、クローゼットと言わないとしたら、先生は何とおっしゃるんですか、と。もちろん洋服ダンスだ、と言って、はっとしましたね。箪笥という言葉、最近聞いた記憶がない。しかも「洋服」というのは・・・(「言葉のズレ」参照)。
ネクタイが数百本、という私の解答は、皆さんに驚きを与えたようです。でも、1年に10本入手したとしても、40年締めていれば、400本です。不思議はありません。
言葉のズレ ― 2010年04月26日 23時57分27秒
今日はっとしたこと。「洋服」という言葉、私はまったく自然に使っていましたが、今はもう、使いませんか?私が「洋服」といい、相手の方が単に「服」と言っていることに気づいて、愕然としました。「洋服」は「着物」との対語で使われていましたから、着物がすたれた今は、「服」で十分だと言われれば、そんな気がします。皆さん、いかがでしょう。
・・・と書いてよく考えたら、「洋服」の対概念は「和服」ですね。「和服」はすでに死語、ということはないでしょうか。そう言えば、「呉服」という言葉もありました。今調べたら、三国の「呉」から日本に伝わったから呉服だそうです。ご存じでしたか。
敬語の使いどころ ― 2010年03月22日 23時31分55秒
でも私、内輪以外のところでは、必ず敬語を使っているのですよ。ていねいに、感じよく、をモットーにしています。まあいつもそう受け取ってもらえているわけではないでしょうが、そのようにして、けっして損はないと感じます。
そういう原則を立てている自分からすると、敬語を使わない人に対して違和感を覚えることがよくあります。次のような場合です。買い物や食事のとき、店員に対して。病院で、看護婦さんに対して。窓口で、係員に対して。雑用をしてくれている職員に対して。マッサージをしてくれている指圧師さんに対して、等々。オレは客だ、というスタンスで威張っている人って、案外いるものですね。
ネットの投書も、敬語であるべきではないでしょうか。私がときどき見ている趣味関連の掲示板には、敬語なしで書き込む人が何人かおり、どうも偉そうで、感じが良くありません。そんなところで威張ってどうするんだと、ここでも感じます。
リスクヘッジかどうか存じ上げておりませんが(←誤用)、若者の敬語にも、一定の効用はあるのかもしれませんね。
拝金主義 ― 2010年03月21日 22時35分50秒
しばらく前の新聞で、最近の日本語には敬語が過多になる傾向がある、と書いてありました。たしかにそう思いますが、考えてみれば、これは不思議な現象です。なぜなら、昔の発達した敬語体系が少しずつ簡略化されてきたのが近年の歴史であったと思うからで、女性の会話とか、手紙の時候の挨拶とか、昔はずっと入り組んだ言葉の使い方をしていたんじゃないかと思います。
そうした流れが逆流し始めたというのですから、面白い。典型は、鳩山首相も得意とする、「させていただく」言葉でしょう。たとえば会議で司会者が、「始めさせていただきます」と言う。私が冒頭で、「休養させていただきました」と書く。ごく一般化しているので、疑問を感じながらも、ついこう使ってしまいます。
でも、これ以上の敬語の過剰、いわゆる「馬鹿丁寧」というのは、よろず合理化された現代生活には似合わないのではないでしょうか。私は、礼儀も好きですが、単刀直入な会話がそれ以上に好きなので(=時間が節約できる)、お愛想や丁寧語で会話のかなりが支配されることは好みません。そもそも私は、年少の人に敬語を使うことが、少ない方です。学生には、ほとんど使いません。昔職場のトップだった方で、すべての人に絶対に敬語を外さない方がおられましたが、あまり丁寧な人とは、親密になりにくいものです。
でも、正しく使われていれば、いいのです。きわめて丁寧で、しかも誤用されているのは、気持ちが悪い。比較的よくあるのが、事柄本位の会話で「そうですか」と返答すべきところを、「そうでいらっしゃいますか」と返す場合。また最近進出してきたのが、「存じません」というべきところを、「存じ上げていません」と返す場合です。「政治とカネ」がらみの会話で、お金の授受に対して「存じ上げていない」という言葉を使われると、拝金主義とはこのことか、と思わざるを得ません。複数の方が使っておられました。
卓抜なイメージ ― 2010年01月10日 21時18分40秒
土曜日、クリスティーさんのコンサートを途中で飛び出した私は、紀尾井ホールへ。途中で昼食を摂ったものですから、四ッ谷へは駆け足になりました。やっぱり走ると、あとが疲れます。
紀尾井のコンサートは、尊敬する今藤政太郎先生の邦楽リサイタルでした。リサイタルといっても、2人の人間国宝をはじめ、邦楽界の重鎮がずらりとステージに並ぶ、大コンサートです。これだけの方が共演されること自体が、今藤政太郎先生のぬきんでた力量とご人格を証明しています。演奏内容も第一級のものであったことは、いうまでもありません。
具体的な内容については専門外でもありますので控えますが、「書く」という私の専門にかかわることを、ひとつだけ書かせてください。
後半に、『古事記』の仁徳天皇の章に取材した今藤先生のオリジナル作品が演奏されました。尾上菊之丞さんの原案構成による《舟と琴》です。丈高い木が伐られて速い舟になり、それが焼かれて名器の琴になるというお話で、最後に、天皇の作歌とされる古代歌謡が歌われます。
駒井邦夫さんによるプログラム解説では、このあたりについて、次のように述べられていました。「大君は、大木から舟に、そして今一面の琴にと精霊の魂が移り宿ったと感じたはずです。大君はその琴に歌を贈り称えます。曲の最後は、大君の作った歌が唄われます。その歌の感じは、古墳時代の朗々としたひろがりを聞く者にあたえます。」
「古墳時代の朗々としたひろがり」とは、何というすばらしいイメージなのでしょう。私は古代にそんなイメージを重ねたことなど、一度もありませんでした。深い尊敬を覚え、何度も何度も読み返してしまいました。
流行語大賞には ― 2010年01月08日 23時54分42秒
最近、ものすごくたくさん耳にするようになった言葉があります。それは、「思い」という言葉。鳩山さんが、次から次へと使う。「国民の皆さんの思いに・・・」とか、「・・・という思いはあります」とか。その言葉が引用されますから、「思い」という言葉、あたかも乱舞するがごとき印象があります。
それに違和感を抱くのは、「思い」という言葉を、私は一度も使ったことがないからです。「私の考えは」とはしばしば言いますが、「私の思いは」とは、私は一度も言ったことがない。皆さん、どうでしょう。もちろん、正しいとか間違っているとかいうレベルではありません。立派な日本語で、意味はわかります。しかし、使ったことのない私から見ると、これはあるときある理由から、ある範囲の人たちによって使われるような言葉ではないか、と思うわけです。たとえば翻訳書で「思い」という言葉を見た記憶を、私は思い起こせません。
「思い」という言葉は、あいまいだと思うのです。これはなかなか主観的な言葉で、願望も入っていれば、思い入れも入っている。「考え」であれば理知的に整理できますし、反駁もできる。しかし「思い」となると、人それぞれということになって、反駁はできないと思います。それが政治的なコンテクストで重要なタームになっていいのだろうか、という思いがあるわけです。
いま初めて使ってみました。いつごろから一般化した言葉なのか、知りたいと思います。
自分への非情 ― 2009年11月28日 23時56分15秒
放送にかかわったことで身についたこと、大事なことを忘れていました。話を時間通りにできるようになったことです。そもそも人前で話をする場合、時間は2時間のことも、1時間のことも、10分のことも、1分のこともある。それぞれで、最大の効果を収めなくてはならなりません。とりわけ、短い話に少しでも多くの情報を盛り込むことが重要なのです。
それが顕著なのは、生放送。オーケストラが勢揃いし、音が出るまでの40秒間に、挨拶し、曲目のこと、演奏家のことなどを述べなくてはなりません。こういう場合、一番大事なことを先に言い、二番目に重要なことを次に言う。まだ時間があれば、第三のことを滑り込ませる。もちろん、それぞれのメッセージは、秒単位に凝縮するわけです。
こうした技術には、短歌や俳句に近いところがある。1つのことを言って、10のことを知ってもらうテクニックです。すべて、簡潔であるべき。この課題に取り組むと、一般の会話が、どれほど冗長なものかがわかってきます。何を言うかも重要ですが、何を言わずに済ますか、が重要なのです。
新聞のコンサート批評も、簡潔を旨とする意味では、近いところにあります。学会発表も同じ。昔は、与えられた原稿枚数を超過してしまい、ごめんなさい、ということもありましたが、今は、どんなに少ない枚数でも対応する自信があります。そんな枚数では書けない、という話もよく聞きますが、それは錯覚です。ただしそのためには、自分が書きたいことをどんどん削るという、一種の非情さが必要なのです。自分の思い入れに妥協しているうちは、まだ未熟だと思います。
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