パラグラフの衰退2012年12月07日 10時39分16秒

先日、会話が延々と連なる小説は冗長でちょっと、というお話をしました(もちろん谷崎潤一郎の《細雪》などは別格です)。その理由を考えていて思い当たったのは、会話が連なるとパラグラフの縛りがなくなる、ということです。パラグラフごとに定着する趣旨をとらえ、積み重ねて追ってゆくことでメリハリの利いた読解が可能になるわけですから、その区切りがあいまいになると、冗長になる可能性は高いと思われます。

先日亡くなった作家の方が、今の書き手はワープロを使うので文章が粗雑になる、という趣旨のことを述べておられました。私は逆の考えなので意外だったのですが、よく考えてみると、上のことと関係があるのかもしれません。アイデアを単文で打ち込み、文章へと仕上げていくアウトライン・プロセッサーのような文章作法。単文が自立する、ツィッターの世界。コマを並列する、マンガの感覚。単行本でも、文ごとに行を改める印刷をよく見かけます。電子化の時代が、パラグラフへの意識の希薄化、パラグラフの短縮化に、拍車をかけているようです。

古いかもしれませんが、私の感覚は違うのですね。パラグラフを一定の長さにすることで緊張感をもたせ、パラグラフ相互の関係を調整することで文章に流れと勢いをもたせることが、文章のコツであると、私は思ってきました。少なくとも論理的な文章はそうあるべきではないかと、今でも思います。そのために、パソコンで文章を書くことはとてもいい、と思うのです。広い範囲に目を通しながら、細部をいくらでも推敲できるからです。原稿用紙を使っているころは、その作業をある程度で打ち切らざるを得ませんでした。

というような感覚なので、パラグラフの衰退が、気がかりです。

コメント

_ 優@1&6&14&22&25 ― 2012年12月09日 23時27分54秒

パラグラフ論、興味深く拝読しました。そういえば、最近、学生の書いたレポートや答案を読んでいて、意味不明の文章に出会うことが少なくありません。最近の学生が、パラグラフのしっかりした文章、いわゆる優れた文学作品を読まなくなってきているのが原因の1つではないかと思います。そのため、論理的な文章を読むのが苦手で、従ってそういう文章を組み立てることができなくなってきているのではと思っています。実は、最近の新聞記事にも、パラグラフ構造の希薄な、ゆえに中身の薄い記事が増えてきているような気がします。

_ I招聘教授 ― 2012年12月11日 00時03分02秒

そう思いますよね。世代の問題のみにはしたくないのですけれど。

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