敬語の衰退2015年05月09日 11時04分35秒

最近は皆さんツィッターをなさるようで、その流行は年齢や職業を超えているようです。私に勧めてくださる方もおられます。

テレビの番組にも、随時ツィッターの流れるものが増えてきました。リアルタイムでレスポンスできるのが売りであるようで、「視聴者参加」を実践される方には、魅力があるのだと思います。

しかし私はどうも、それを楽しむ気持ちになれません。その理由として自分的に大きいのは、字数制限が厳しいツィッターでは、敬語が省略されがちであることではないかと思われます。ツィッターのみならず、概してネットの発信では速さ、短さが重んじられるため、敬語を使わない傾向がありますよね。私は、知らない人同士のコミュニケーションにはやはり敬語の効用が大きく、ささくれだったやりとりや言いっ放しの批判にならないためにも、敬語は必要ではないかという意見です。

来週の放送でも言いましたが、外国語の簡潔さに比べると日本語の敬語は音節の過剰を招いて、まだるっこしい面があります。Komm, Jesu, kommは4音節で、音符が4つあれば処理できますが、これを「来てください、イエスよ、来てください」と訳すと16音節になってしまい、音符に当てはめて歌うことは、できない相談です。

でもそれが、日本語の良さでもあるわけですよね。美しい日本語が、敬語込みで受け継がれていくことを願っています。

コメント

_ ダヴィデヒデ ― 2015年05月09日 23時36分15秒

120%賛同致します! 敬語は最も苦手では在りますが、ツイッターだけは手を出せずにおります!

_ 縄文 雅use ― 2015年05月10日 04時17分10秒

 私も200%同感です。アカウントは持っていますが、通信費がもったいないのでデーター通信はwifi専用で常時接続はしていません。そもそも、ツイッターやLINEでなんで他人と繋がっている必要があるのでしょうか。神仏と繋がっているだけで十分です。

_ 裸族の人 ― 2015年05月10日 13時24分17秒

論点ずれますが、礒山先生の文章は、ですます調であってもテンポがよく芸術的で尊敬しきりです。ですます調で文章を書こうと思うと、どうしても語尾がワンパターンになったりして、難しいと感じます。

_ 青春23きっぷ ― 2015年05月15日 15時37分32秒

裸族の人さん、全く同感です。裸族の人さんが言われていることを常々感じていました。先生の文章はとてもわかり易いのです。的と言うよりか的の中心を外さないからだと思ったことがあります。

もう一つ。言葉を如何に音楽化するかを探求してきたと見ることが出来る西洋音楽の歴史。その流れで中で育まれた音楽の修辞法や表現が、語彙豊かな日本語の文章に宿っているのでは、などと勝手に思ったりしています。

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