土俵の神 ― 2009年02月02日 21時46分20秒
長年大相撲中継をしてこられた杉山邦博さんという方が、「土俵には神様がいるのだから、相撲には礼の心が必要なのだ」という趣旨のことをおっしゃっていますね。これを聞いて、何を言っているんだ、神様なんかいるはずないじゃないか、と思う人は多いだろうと思います。とくに、若い人に。しかし私は、杉山さんの意見に心から賛同します。次のような体験が、それを裏付けました。
土曜日(1月31日)にいずみホールで、今藤政太郎プロデュース「和の音を紡ぐ」というコンサートがありました。プログラムの2番目に、昔同僚としてお世話になった竹内道敬さんの台本、今藤さんの作曲による《天の鼓》という曲が演奏されたのですが、私はこれにたいへん感動してしまったのです。父と子(故人)が地と天で鼓を打ち合う、という内容の、能を下敷きにした幽玄な作品です。聴いていて、この世とあの世の霊的交流がいま舞台上に作り出されているという感にとらわれ、まこと、芸術はひとつの神事なのだなあという実感を抱きました。
そういうスタンスを得て聴いた後半の《勧進帳》は、人間国宝、東音宮田哲男さんの至芸をからめて、圧巻の迫力。今日初めて、自分は邦楽を本当に理解できたのかな、と思いました。僭越かもしれませんが、掛け値なしの実感です。
地と天で鼓を打ち合うなどということがあるはずはないじゃないか、と考えたら、幽玄の境地は理解できません。人間の境涯を超えて霊的存在をとらえたいという願いが、こうした芸術には宿っている。神がそこに下る、と昔の人が考えたのももっともで、達人の域にある人たちは、みんなそうした確信を抱いて、芸に取り組んでいるのではないだろうか。そしてそれは、邦楽でも洋楽でも同じではないだろうか・・・。
まさにそういう精神が、いま音楽から、また音楽の研究から、失われつつあるのではないでしょうか。それを失わないためにも、このような公演が続いていかなくてはいけないと思います。人間が人間のためにやるものだと考えたのでは、音楽のすばらしさはとらえられない。その先への、尊敬の心が必要なのです。
話を戻しましょう。相撲も、土俵に神が宿るということを信じる人たちが努力を積み重ねて、いうところの「文化」を形成してきたわけです。単なる格闘技と考えたのでは、髷だの四股だの手刀だの、さまざまな様式が無意味になってしまう。今回のことは、そうしたことをあらためて思い返すチャンスだったのかもしれません。そのあたりはテレビ観戦では伝わりにくく、どうしても、勝った負けたの話になってしまいます。
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