年頭のご挨拶2009年01月01日 21時54分59秒

皆様、あけましておめでとうございます。どなたも、よい新年をお迎えのことと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。

年末フルタイムの仕事が続いていたので、新年への心の備えがまったくないまま、年が明けてしまいました。年賀状の葉書さえ買っていないのが、その証明です。

ともあれ、ブログを見てくださっている方々のために、年頭所感を。昨年はとても体調が良かったのですが、いつまでも続くものではなかろう、と思っています。年齢相応に、余裕をもって物事を進めたいという気持ちがあります。

運動だの、禁酒だのというのは、余裕をもって迎えた新年に考えること。急に違う生き方をしようというのは、必要ではあるとしても、現実には無理なようです。高望みはいたしません。

今年の最大のイベントは、6月にやってきます。親友ジョシュア・リフキンを招いての、《マタイ受難曲》の公演です。昨年からその準備に、相当時間を神経を使ってきました。これを成功させることが、今年の第一目標です。

著作は、1月中に、『カンタータの森を歩む』シリーズの新刊が出ます。今回は「ザクセン選帝侯家のための祝賀・葬送カンタータ」です。次に出るのは、バッハやドイツ音楽史に関する論文集です。春のうちに出せればと思っています。遅れているDVDの本も進めるつもりです。ブログも極力更新しますので、よろしくお願いします。

進まない整理2009年01月03日 23時38分57秒

多くの方々がそうでしょうが、部屋の片付けが、悩みの種です。お正月はもちろん、整理のチャンス。そこで抜本的に片付けようと思い、始めてみました。

本、楽譜、CD/LD/DVDの置き場は、中心が、私の部屋。一部が玄関や寝室にも進出しており、副次的なものは、階下の物置に入れてあります。私の部屋に置かれるものが着々と増え、混乱が刻々と増し、ついに整理に立つ、というサイクルを、ずっと繰り返しているわけです。

整理の絶対的な目的は、自分の部屋に置いてあるものを減らし、効率的な活用を図ることにある。ひんぱんに使うものもありますが、長期間一度も使われていない本や楽譜もたくさんあります。そうしたものは空間を占拠して運用の邪魔をしているわけですから、取り除かなくてはならない。そこを思い切って断行するのが、整理のコツです。

と、頭ではわかるのですが、やってみるとむずかしい。使っていない洋書や研究書を追放せんとして手にとってみると、使われていないのは本が悪いのではなく、私が不勉強で使ってあげていないだけだ、ということがわかるのです。何かの折りに眼を通すべき本がたくさんあり、そうした本は、そばに置いておかなくてはならない。この一点でまず、立ち往生(←好きな言葉)が起こります。

もうひとつ思うのは、読んで面白い本と、取っておくべき本、参照するためにそばに置いておくべき本は違うなあ、ということです。軽い娯楽的な本は、たとえむさぼるように読んでも捨ててしまいます。しかし、通読するほど面白くはなくとも、信頼のおける情報がたくさん入っている本は、手放せない。長い目で見れば、こうした本を書かなくてはいけないのだと思います。

一時の恥、一生の恥2009年01月04日 23時41分51秒

漢字をいくつも読み間違えたことで、麻生さんがさんざんな言われようです。私はこういうとき、いつも、『ヨハネ福音書』第8章にある、「姦通の女」の話を思い出さずにいられません。女を罰しようとしているファリサイ派の人々に、イエスが「あなたたちの中で罪のない者が最初に石を投げなさい」と述べた、という話です。

多かれ少なかれ誰もが、間違いを犯しています。気がつかないだけ。私も、かなり長いこと、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んでいました。職業が職業ですから、自分でなくて良かった、と胸をなで下ろしています。お互い、教え合いましょうよ。そうしないと、一生、恥をかき続けます。

自分で気がついた間違いの告白。よく年末の挨拶で、「それではよいお年を云々」と言いますね。私は知人から来たメールに「よいお年をお迎えください」とあるのを読んで、あっとのけぞりました。なぜなら私は、ずっと「よいお年をお送りください」と書き続けたきたからです。考えてみれば、よい年を送ってしまったら、あわれな新年が来てしまいます(汗)。どなたも言ってくださらないと、こういうことが起こるわけです。

駅伝2009年01月05日 23時17分53秒

皆さんのお正月の楽しみは、何ですか。私は断然、テレビで見る駅伝です。駅伝がなかったら、三が日はさぞ寂しいだろうな、と思います。

1日に全日本実業団駅伝、2日と3日に箱根駅伝がありますね。質の高さでは実業団で、今年のデッドヒートはすばらしいものでしたが、迫力と感動においては、なんといっても箱根駅伝です。箱根駅伝で覚えた選手に実業団駅伝で再会するのも、楽しいものです。

箱根がドラマティックなのは、山登りがあるからですよね。あんな天下の険を走って上るなどということは信じられませんが(きっぱり)、無理をする分だけ差が生まれ、大逆転が起こる。「山の神」今井選手よりはるかに速く走る選手が出てこようとは、夢にも思いませんでした。

そんなわけで往路こそ箱根、と思っていたのですが、テレビの視聴率は復路の方が上なのですね。スター選手はだいたい往路に出るようなので、これには驚きました。

駅伝は日本的な競技で、外国人は違和感を感じるそうです。団体精神の極致だからでしょう。全体への責任を必死に背負いながら襷をつなぐ姿、私は大好きです。美しいと思います。

注目すべきモーツァルト論2009年01月06日 23時37分24秒

初対面の方から、あるいは見ず知らずの方から論文をいただくことがよくあります。本当はすぐに読んで感想を差し上げるのがいいのだろうと思うのですが、ついつい目先の仕事を優先して、そのまま積んで(あるいはファイル保存して)おきます。そしてそのまま忘れてしまうのがいつものパターンで、よほど時間が経ってから発見しては、後悔しております。

という性癖の犠牲になっていた後藤丹さん(上越教育大学)の論文「《フィガロの結婚》のカリカチュアとしての《ドン・ジョヴァンニ》--オペラのスコアに盛り込まれたモーツァルトの機知」(『音楽表現学』Vol.4、2006所収)を思い出し、読んでみました。9月にいただいていたものです(汗)。

このように紹介しているぐらいですから、じつに面白い論文でした。後藤さんは、《フィガロの結婚》における伯爵夫人のカヴァティーナ(第2幕)と《ドン・ジョヴァンニ》におけるドンナ・エルヴィーラの登場のアリア(第1幕)が、密接な音楽的関連をもちながらまったく対照的な表現になっていることに注目し、後者を前者の「カリカチュア」と見なしました(卓見です)。そして同様の対応関係が、フィガロの最初のカヴァティーナ(第1幕)とマゼットのアリア、スザンナのアリア(第4幕)とツェルリーナのアリア(第1幕)にも見られることを、豊富な譜例で論証しています。

批判的に読んでも、この関係の指摘には説得力があります。後藤さんがそこから引き出す考察については論文を読んでいただくとして、私が思うのは、次のようなことです。

モーツァルトは《フィガロの結婚》におけるいくつかの音楽の骨組みを《ドン・ジョヴァンニ》でも再利用し、それを裏返してまったく別の音楽を作り出す楽しみを味わったのかも知れません。あるいは、モーツァルトはこういう音楽の作り方を日頃からよくする人で、われわれが気づかずにいるのでしょうか。面白い切り口を与えていただき、感謝です。

野口方式に挑戦2009年01月07日 23時42分57秒

野口悠紀雄さんの「超」シリーズ、流行ということもあり、ついつい手にとってしまいます。今回は、『超英語法』(講談社文庫)。今年はアメリカの演奏家たちをお招きしている手前、交流できなくては話にならないので、英語という積年の苦手を克服するべく、読んでみました。

すると、私が自分なりに形成していた外国語勉強法とは、逆のことが書いてあります。すなわち、徹底してヒアリングを訓練せよ、聞けるようになればしゃべれるようになる、と。私はすべて暗記するという主義で、暗記によりいい文章をたくさん覚え、話す能力を向上させれば、それが聞く力の向上につながる、と考えていました。こういう方法、野口さんはまったくお認めにならないでしょうね。

そこで野口方式を試してみることにし、オリンパスのICレコーダーを買ってきました。ネットから音源を録音し、移動中に聞いて勉強しよう、というのです。まだ始めたばかりですが、わかったことがあります。それは、東京の環境はじつにうるさいなあ、ということ。駅に近づいたり、商店街に入ったりするときの雑音の高まりは、急角度です。眼で見ていると自然に感じますが、耳だけで聞くとすごいです。当然、ヒアリングの絶望度も増してゆきます(笑)。

世の光2009年01月08日 23時38分48秒

メニューまさお君からご推奨いただいた『村上式シンプル英語勉強法』、さっそく買って読んでみました。これがまた、全然違う(笑)。「読む」「単語を覚える」「聴く」「書く」「話す」の五位一体が推奨されています。「単語を覚える」には否定的な考えも多いので珍しいように思いますが、なんと1万語を、毎日「眺める」という壮大な方法論です。いろいろなやり方があるものですね。

徹底的な多読の勧めは、メニューまさお君が指摘する通りです。そのさい、絶対に逆方向をとらず、語順のまま日本語に置き換えずに読み続ける、というのは、おそらく王道でしょう。語学にはそれぞれの経済原則があり、語順は、情報伝達の有効な回路になっている。後ろから訳したのではダメ、というのは確かにそうだと思います。私の場合はまだまだ不徹底で、通訳も可能なドイツ語でさえ、急速度でドイツ語と日本語を往復しているように思うのですが・・。

英語が自由自在に使えれば、世の中どれほど明るいだろうなあ、と思うことしきりです。

見事な訳業2009年01月12日 21時44分47秒

大学時代からの親友、篠田勝英さん(白百合女子大教授)が、ミシェル・パストゥロー著『ヨーロッパ中世象徴史』という訳本を出しました(白水社)。中世の古典『薔薇物語』を継承する見事な訳業で、専門的な研究者のみのなしうる良心的なお仕事です。

タイトルからすると解釈学かなと思って読み始めたのですが、ベースになっているのは、実証性を重んじた歴史学です。認識の枠組みを変えるような問題提起が次々となされていて、読者の時代を見る視点が次々と広がり、豊かになってゆく。とくに、色彩が中世においてどのような意味をもっていたかの考察は卓抜であると思いました。他に動物、木や花、紋章やチェス、種々の図像に関する考察が展開されています。

哲学、神学、文学、絵画その他種々の領域を踏まえて展開される碩学の研究を翻訳することは、さぞ時間と労力を費やすことでしょう。それを的確に行って後に残してゆく作業こそ、研究者の本分であると思います。やさしい本ではありませんが、読み進めるにつれて友人への敬意に満たされる喜びがありました。

1月のイベント2009年01月13日 23時18分30秒

忙しい活動を再開した、今週です。恒例のお知らせをご覧ください。

仕事始めは10日(土)の朝日カルチャー新宿校「新・魂のエヴァンゲリスト」でしたが、これはもう終わってしまいました。ケーテン時代に入り、旧著への修正が必要になっている無伴奏曲について、主としてお話ししました。「ヴァイオリンが先、チェロが後」という考えが、ますます強まっています。

17日(土)の「たのくら」は、「年頭もバッハで--カンタータ第140番とコーヒー・カンタータ」です。24日(土)は朝日カルチャー新宿(10:00~)と横浜(13:00~)の掛け持ちで、新宿が西洋音楽史のロマン派第2回「風土の発見~ドイツ・ロマン派から国民楽派へ」。横浜のバロック講座は「イタリアの協奏曲いろいろ」です。

29日(木)の19:00からは相模原の『バッハの宇宙』シリーズ第2回で、「独奏するバッハ~チェンバロ協奏曲の楽しみ」と題し、渡邊順生さんの独奏を中心にお送りします(19:00、相模大野グリーンホール)。曲目はト短調BWV1058、ホ長調BWV1053、イ長調BWV1055、ニ短調BWV1052。すばらしい演奏になると思います。前売り券3000円は私のところにもありますのでどうぞよろしく。

私は出演しませんが、31日(土)のいずみホール『日本の響き』でもお目にかかりたいと思います。今藤政太郎プロデュース「和の音を紡ぐ」第3回で、トリは国宝級キャストによる《勧進帳》です(16:00から)。

話すことと書くこと2009年01月14日 22時31分01秒

学生に対して、発表する場合は原稿を作れ、と指導している大学って、どのぐらいあるのでしょう。私の学生時代は、必ず作れ、と指導されましたから、作るのを当たり前と考えるようになりました。教員になってからは、すべての機会に対して作らせることは遠慮していますが、主要なゼミや学会の場合は作らせるようにしています。

発表は時間が限られていますから、原稿を作っておいて、決まった時間に最大限の情報量を伝達することが必要です。そうでないと雑談風になったり、無駄や繰り返しが多くなる。しばらく前、学会でそういう発表になってしまった発表者をある先生が厳しく叱責したことがあります。何もそこまで、という人もいましたが、私は当然の叱責、と受け止めていました。

原稿を作ることにも、欠点があります。それは原稿が書き言葉になってしまい、硬いわかりにくいものになることです。美学の頃はみんな、やたらにむずかしい硬い原稿をフルスピードで読んでいて、まあ理解の訓練にはなりましたが、とりつくしまがないものが結構ありました。

原稿を書くと、いかにですます調で書いても、かならず書き言葉になります。それをどのぐらい話し言葉に近づけられるかが、技術です。私は放送を大分やりましたので、いつもそのことに苦心していました。完全に話し言葉にしようと思ったら、書かないのが一番。しかしそれでは、短い時間に効率のよい情報伝達はできません。話す文章と書く文章をなるべく近づけること、学生さんたちにとっても、これは大切な技術です。(続く)