ガッツポーズ ― 2009年02月01日 16時43分21秒
朝青龍のガッツポーズが賛否両論、話題を呼んでいます。皆さんはどう思われますか。結論を先に言いますと、私は土俵でのガッツポーズは絶対にいけない、白鵬の負けて舌を出すのもよくない、という意見で、「品格」を主張する人々に賛成です。ただし、最初からそう思っていたのではなく、一連のプロセスを経て、そう思うようになりました。そのことを説明します。
近年、日本のスポーツ選手は、ものすごく喜怒哀楽を表面に出すようになりました。1つ決まるごとにハイタッチを繰り返すバレーボールや、ゴールのたびに喜びを爆発させるサッカーが、おそらく双璧でしょう。これは明らかに、外国の影響です。観戦のさいにそれで盛り上がりが倍加することは、確かだと思います。
しかし勝負事なのに、喜怒哀楽をまったく出さない分野もある。私の好きな将棋はその典型で、激闘のあとでもお互いなにもなかったかのように、感想戦をやります。新聞に笑顔が載るのは、たくさんのショットから、ごく少数の笑顔を選び出しているわけです。いつぞや中原16世名人に「もう少し顔に出してもいいのでは?」とお尋ねしたところ、「相手がいますからね」とのお答えでした。
聞くところによると、剣道も、ガッツポーズは厳禁だそうですね。概して、日本の伝統を長くひきずっている「~道」と言われるような武術、勝負事は、勝って誇らぬことを礼としているように思われます。
昔、近鉄にオグリビーというメジャーでホームラン王も取った選手がいました。彼は喜怒哀楽を表に出さないタイプで、強打の割に、地味な印象を与える人でした。そのオグリビーがあるときホームランを打って、拳を振り回しながら躍り上がるようにしてベースを一周したのです。珍しいこともあるものだと思いました。そうしたら翌日の新聞に、相手の投手に悪いことをした、という謝罪のコメントが載っていたのですね。こうした選手が昔の大リーグにどのぐらいいたのかはわかりませんが、日本古来の価値観に共通するものを感じて、いたく感心したことを覚えています。
アンチ巨人で、巨人敗戦の翌日には新聞を巨人ファンの方にお届けするような性格である私としては、平素、ガッツポーズには何の違和感も感じません。ではなぜ冒頭のようなことを言うのか。それについては、稿をあらためます。
土俵の神 ― 2009年02月02日 21時46分20秒
長年大相撲中継をしてこられた杉山邦博さんという方が、「土俵には神様がいるのだから、相撲には礼の心が必要なのだ」という趣旨のことをおっしゃっていますね。これを聞いて、何を言っているんだ、神様なんかいるはずないじゃないか、と思う人は多いだろうと思います。とくに、若い人に。しかし私は、杉山さんの意見に心から賛同します。次のような体験が、それを裏付けました。
土曜日(1月31日)にいずみホールで、今藤政太郎プロデュース「和の音を紡ぐ」というコンサートがありました。プログラムの2番目に、昔同僚としてお世話になった竹内道敬さんの台本、今藤さんの作曲による《天の鼓》という曲が演奏されたのですが、私はこれにたいへん感動してしまったのです。父と子(故人)が地と天で鼓を打ち合う、という内容の、能を下敷きにした幽玄な作品です。聴いていて、この世とあの世の霊的交流がいま舞台上に作り出されているという感にとらわれ、まこと、芸術はひとつの神事なのだなあという実感を抱きました。
そういうスタンスを得て聴いた後半の《勧進帳》は、人間国宝、東音宮田哲男さんの至芸をからめて、圧巻の迫力。今日初めて、自分は邦楽を本当に理解できたのかな、と思いました。僭越かもしれませんが、掛け値なしの実感です。
地と天で鼓を打ち合うなどということがあるはずはないじゃないか、と考えたら、幽玄の境地は理解できません。人間の境涯を超えて霊的存在をとらえたいという願いが、こうした芸術には宿っている。神がそこに下る、と昔の人が考えたのももっともで、達人の域にある人たちは、みんなそうした確信を抱いて、芸に取り組んでいるのではないだろうか。そしてそれは、邦楽でも洋楽でも同じではないだろうか・・・。
まさにそういう精神が、いま音楽から、また音楽の研究から、失われつつあるのではないでしょうか。それを失わないためにも、このような公演が続いていかなくてはいけないと思います。人間が人間のためにやるものだと考えたのでは、音楽のすばらしさはとらえられない。その先への、尊敬の心が必要なのです。
話を戻しましょう。相撲も、土俵に神が宿るということを信じる人たちが努力を積み重ねて、いうところの「文化」を形成してきたわけです。単なる格闘技と考えたのでは、髷だの四股だの手刀だの、さまざまな様式が無意味になってしまう。今回のことは、そうしたことをあらためて思い返すチャンスだったのかもしれません。そのあたりはテレビ観戦では伝わりにくく、どうしても、勝った負けたの話になってしまいます。
2月のイベント ― 2009年02月04日 21時24分40秒
そういえば、もう2月ですね。恒例の、イベントのお知らせを。
7日(土)は、朝日カルチャー新宿校の「新・バッハ/魂のエヴァンゲリスト」の2008年度最終回で、ケーテン時代の2回目。「家庭と教育」の章を扱います。これが10:00からですが、その日は同じ新宿校に13:00からも出演し、「時間と音楽」という話をします。時間論の哲学講座の一部ですが、こういうタイトルで立派なクラスができるというのですから、たいしたものですね。私のあとの回は、哲学関係の先生方の登場です。
8日(日)は「すざかバッハの会」(14:00から)。《マタイ受難曲》の講義が第2部に入ります。恒例「この1曲」は《シャコンヌ》で、お薦めの新譜紹介もするつもりです。14日(土)は、いずみホールのバッハ・オルガン作品連続演奏会の5回目。このシリーズ、ライプツィヒ・バッハ・アルヒーフとの提携により圧巻のコンサートが続いていますが、今回はリューベックのオルガニスト、アルヴィート・ガストが来日し、「バッハと北ドイツのオルガン音楽」というテーマで、ブクステフーデ、ブルーンス、ベームを含めたプログラムを披露します。これは結構注目かな、と思っています。
22日(日)は「たのくら」で(今回のみ日曜日)、「優雅の国、フランスで息抜きを」というテーマでやります(10:00から)。当然、ラモーまで話を進めます。28日(土)は朝日カルチャー横浜校のバロック講座。こちらも「フランスの新世紀」であることに、いま気づきました。今月は入学試験も続くので、案外多忙です。
深夜のコマーシャル ― 2009年02月05日 22時22分48秒
コマーシャルというのは本当に千差万別ですね。専門の会社が依頼されて腕を競っているわけですから、商品の実態を反映していない場合も多いことでしょう。私が最近のコマーシャルで傑作だと思うのは、greeの携帯ゲームを扱うものです。
映るのは、グリークラブ(グリー違いだけど)が《アイネ・クライネ》を歌っている情景。歌詞はゲームの宣伝です。居並ぶ若者たちはみな素朴な3枚目で、いかにも人がよさそう。その彼らが大きな口を開け、一生懸命に、楽しそうに歌っている。そこに男声合唱特有の、ほのぼのとしたぬくもりが感じられるのです。
これって、どこかのグリーなんでしょうか。それとも、上記のイメージに合う若者を、いろいろな合唱団から集めたのでしょうか。興味があります。
このコマーシャル、夜が更けるにつれて増え、深夜には、じつに多くなります。一度ご覧ください(笑)。
神の御座 ― 2009年02月08日 23時43分34秒
いつも須坂に行くときは好天です。私は基本的に晴れ男ではないか、というのが同行したまさお(メニューまさお)君の見立てですが、それにしても今日の天気はすばらしかった。大宮を出てしばらくしたころ見えてきた浅間山の真っ白に輝く姿。長野から須坂への列車から見える妙高の、ほとんど崇高な山容。北アルプスは1日中見えていて、鹿島槍を中心に連なる後立山の連峰が、暗くなるまで、シルエットで連なっていました。ほとんどが登った山ですから、思い出は、いろいろ。もう山からかなり離れてしまっているので、さあ登りたい、という気持ちまでは出てきませんが、「神の御座Gottesthron」という言葉を使いたくなる、今日の山々でありました。
私の理論では好天はツキを使ったことになりますから、毎度いい上に今日また極端にいいというのは、相当な凶兆です。しかし講座は受講生に恵まれてうまくゆき、家にも無事たどり着きました。感謝の心をもって、厄払いに代えることにします。
風邪の予防 ― 2009年02月10日 23時12分36秒
いい仕事をするためには、コンディション作りが大切です。とくに、身体が楽器である声楽の方は、飲むのを好きな方でもお酒を控えるとか、いろいろな努力をされているようです。中でも、風邪は大敵です。
ところが、私の見るところ、声楽の方にかぎって、とても風邪をおひきになる。大きなマスクをつけておられる方が多いのは、あながち予防だけではないようです。
のどを平素鍛えているわけですから、風邪に強くなっても不思議はないのに、どうして風邪をひく方が多いのだろうというが、かねてからの謎でした。そうしたら、昨夜の飲み会で卓抜な見解に接し、感心。その方のお説では、声楽の人は人前で口を開いている時間が長いので、その分ウィルスにさらされるのだ、というのです。なるほど!と思われませんか?
私は、ほとんど風邪をひかない人間です。そういえば口を開けることが少ない。皆さん、風邪の予防には、口を閉じるといいようですよ。
言葉は大切 ― 2009年02月11日 22時21分29秒
いつぞや、首相の読み間違いをきっかけにした一文を書きました。間違いはたしかにみっともないが、鬼の首を取ったように嘲笑するのはどんなものだろうか、誰でも間違いはしているのだから、という気持ちを込めた一文でした。私はマスコミのいわゆる言葉狩りにも批判的で、多少の失言をしたからと言って、その人を追及しようと思ったことはありません。
そんな私でも、郵政民営化をめぐる首相の一連の発言には、首をかしげてしまいます。郵政民営化の是非について私は本当のところはよくわかりませんし、結局は一長一短、運営の問題なのではないかと想像もしています。しかし、首相の発言にとかく感じられる「言葉を大切にしない」傾向に、強い抵抗を覚えるのです。
本音を言えない場合、逃げざるを得ない場合、やむなく嘘をつく場合。それらは日常にもありますから、政治の世界ともなれば、必須の技術かもしれません。しかし、人間同士の絆が言葉の信頼性に立脚していることは、そうした状況を前提にしてさえ、言えるのではないかと思います。私はものを書き、話すことが仕事ですから、言葉の信頼性には自分なりに気持ちを込めていますし、他の方々との交際でも、信頼できる言葉を交換できる関係をめざしています。伝えられる支持率の低下とこのことは、密接に関係していると思うのですがいかがでしょう。三島由紀夫の「男の価値は発言の一貫性である」という言葉までは持ち出さないとしても、です。
よく言ってくれました ― 2009年02月12日 22時31分28秒
麻生首相の発言のことを書いたばかりのところへ、小泉元首相の発言が報道されました。個人的には、よく言った、本当にそうだと思い、ほとんど感動しています(笑)。
この発言に関してもいろいろなことが言われるのでしょうが、ひとつあると思うのは、組織に属している人間が組織に不利になることを言っていいのか、という問題です。守秘義務、箝口令、といった言葉が併せて浮かんできます。こういう方向で考える人も多いですが、私は率直な発言を潔しとする、という価値観で、どうしても物事を考えてしまいます。組織も変わってゆくものですから、組織を壊すようなに思える発言が長い目で見ると組織を蘇生させる、ということもあるのではないでしょうか。
政界、面白くなってきましたね。
バレンタインデー ― 2009年02月15日 22時58分48秒
バレンタインデーについて13日に書くつもりでした。しかし時間が取れず、今日になりました。ちょっとさしさわりが出てきているのですが、構想通りに書きます。失礼の段はお許しを。
私、大人になってからというもの、チョコレートという食べ物に、ほとんど関心がありません。したがって、少なくとも食べ物としては、いただいて嬉しい、ということはないわけです。いただく機会はある程度あるのですが、それは御礼の代わりや挨拶代わりといったところで、本命だの義理だのという分類とは、まったく関係のない世界です。食べませんから、自宅の書斎や研究室には、チョコレートが豊富にあります(笑)。
というわけで、あまり関心のもてない、バレンタインデー。「なぜチョコレート会社の戦略に乗るような風俗が広まるのか!」と飲み席で気勢を上げていましたら、同席者いわく、チョコレートにはかならずお返しが必要なのである、と。女性が上司にプレゼントするときなどは、懐具合に対応する値打ちのあるお返しを期待しているのであり、それをしないのはルール違反である。よろず物知りのメニューまさお君にそう言われては、返す言葉がありません。
本当ですかね・・・。困るなあ。なぜなら私は、ホワイトデーにお返しするということを、生まれてこの方、ただの一度もやったことがないからです。ということは、ずいぶん失礼を重ねてきた、ということなのでしょうか。これだけ習慣が広まると、女性も職場などで配らざるを得ないでしょうから、経費もばかになりませんよね。お返しがなくてはやってられない、と言えば、確かにそうだろうと思います。
でも、だからお返しを、というのは、やっぱりチョコレート会社の戦略にはまることじゃないかなあ。どうも腑に落ちない、この習慣です。
〔追記〕書いてはみたものの、私にチョコレートをくださった方はいい気持ちがしないだろうと気になります。でも上記は本心ですので、習慣に一石を投じる意味でも、このままにさせてください。善意は、つねにありがたくいただいています。
続・バレンタインデー ― 2009年02月16日 22時22分36秒
書いてみるものですね。皆さんのご意見をいただき、そうだよなあと、すっかり納得しました。読み応えのある(今のところ)5つのご意見、皆さん、ぜひご覧ください。
やっぱり、贈るのがチョコレートに決まっているところに、そもそも問題があるのだと思います。女性はほとんどチョコレート好きでしょうから、やりとりに意義を感じやすいのだと思いますが、男性のチョコレート好きはおそらく少数派なので、対応に違和感を覚えてしまう、ということでしょう。まあ、だから遊びの感覚でできるんだ、ということも、あるかもしれませんが。
バレンタインデー関連に限らず、お返しって、むずかしいですね。厳格な人とそうでない人がいますし、考え始めると、きりがない。私はプレゼントは自由にし合い、お返しはお互いに期待しない、という方が気楽でいいのではないかと思いますが、そこはきちんとすべきだ、という方もいらっしゃることでしょう。当家では妻がその傾向で、何かをいただくたびに、お返ししなくては、と言っております。
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