神の国? ― 2012年01月13日 10時54分36秒
連日練習に付き合っていると、どうしても、《ロ短調ミサ曲》の話題になってしまいます。
精魂込めた練習が眼前に繰り広げられ、聴衆は事実上私ひとり、というのは、なかなかの気分。何度も聴き、作品が隅々まで、身体に入って来ました。すごい作品だなあ、の一念です。
バッハはもともと理想主義的なところがありますが、この作品も、とくに後半において、演奏者の都合をあまり考えていない。「ミサ曲」という偉大な歴史をもつジャンルに規範となる曲を遺そうという意識から、とりわけ自信のある曲を、努めて多様な形で集成することに全力を注いでいて、演奏者はじつに負担を強いられます。作品の起点を外部からの委嘱に求めるのか内的な構想に求めるのかという論争がありますが、回を重ねるごとに後者に傾いてくるというのが実感です。
通し演奏まで死後100年もかかったのは、ケタ違いの難しさに加えて、通して演奏するべき曲なのかどうかという躊躇もあったのではないかと想像します。それを大学の先輩たちが、昭和6年に初演したとは。こうした苦労の結果、曲がいま世界中で取り上げられるようになっていることを、バッハに教えてあげたいですね。
自分の人生の1ピークになるようなイベントですから、当日どんな思いにかられるか、見当がつきません。基本的に私は感激家なので、過度に感激を舞台上で示してしまってはまずいと、警戒しています。いざその時になれば案外クールなのかなとも思いますが、どうでしょうね。
バッハ時代の音楽論では、音楽は天国の幸せの、この世におけるVorschmack(あらかじめ味わうこと)であると言われていました。でもVorschmackそれ自体が人の考える天国の幸せなのだと、考えることもできそうです。なぜなら、イエスの唱えた「神の国」はどこか未来にあるのではなく、そのメッセージに接した者が喜びをもって信じるとすれば、そこにすでにあるのだ、という解釈を読んだことがあるからです。
そうなると、練習のひとつひとつがすでに神の国の始まりなのかな、と思えてきました。今日が最終リハーサル、明日が公開リハーサルです。
精魂込めた練習が眼前に繰り広げられ、聴衆は事実上私ひとり、というのは、なかなかの気分。何度も聴き、作品が隅々まで、身体に入って来ました。すごい作品だなあ、の一念です。
バッハはもともと理想主義的なところがありますが、この作品も、とくに後半において、演奏者の都合をあまり考えていない。「ミサ曲」という偉大な歴史をもつジャンルに規範となる曲を遺そうという意識から、とりわけ自信のある曲を、努めて多様な形で集成することに全力を注いでいて、演奏者はじつに負担を強いられます。作品の起点を外部からの委嘱に求めるのか内的な構想に求めるのかという論争がありますが、回を重ねるごとに後者に傾いてくるというのが実感です。
通し演奏まで死後100年もかかったのは、ケタ違いの難しさに加えて、通して演奏するべき曲なのかどうかという躊躇もあったのではないかと想像します。それを大学の先輩たちが、昭和6年に初演したとは。こうした苦労の結果、曲がいま世界中で取り上げられるようになっていることを、バッハに教えてあげたいですね。
自分の人生の1ピークになるようなイベントですから、当日どんな思いにかられるか、見当がつきません。基本的に私は感激家なので、過度に感激を舞台上で示してしまってはまずいと、警戒しています。いざその時になれば案外クールなのかなとも思いますが、どうでしょうね。
バッハ時代の音楽論では、音楽は天国の幸せの、この世におけるVorschmack(あらかじめ味わうこと)であると言われていました。でもVorschmackそれ自体が人の考える天国の幸せなのだと、考えることもできそうです。なぜなら、イエスの唱えた「神の国」はどこか未来にあるのではなく、そのメッセージに接した者が喜びをもって信じるとすれば、そこにすでにあるのだ、という解釈を読んだことがあるからです。
そうなると、練習のひとつひとつがすでに神の国の始まりなのかな、と思えてきました。今日が最終リハーサル、明日が公開リハーサルです。
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