今、作品について思うこと2012年01月16日 15時48分29秒

《ロ短調ミサ曲》の演奏会、無事終わりました。全員一丸となってバッハに向けて燃焼し、ベストを尽くしたことだけは間違いのないコンサートになりました。出演者や裏方の皆さん、足を運ばれた方々、その他応援してくださったすべての方に、心から御礼申し上げます。

今日は会議のため大学に来ていますが、疲労困憊、もぬけの殻です。肩の荷が下りたということもありますが、終了後の打ち上げを4次会まで重ねたことがたたりました。最後残った6人でラーメンを食べたのが、深夜の3時でした(汗)。

感想は何度かに分けて書きたいと思いますが、今日は、《ロ短調ミサ曲》という作品について、当面の結論として得た認識を述べたいと思います。

《ロ短調ミサ曲》の真髄は、やはり後半にあります。前半はまとまっていて勢いがありますが、後半は知れば知るほど深く、奥行きがある。演奏した感銘は1.5倍ぐらい大きいと確信しました。とくに〈ニカイア信条〉は、宇宙的な規模をもって完成された、音による神学絵巻です。

それ以降に並ぶ6声、8声の大合唱曲の偉容もすばらしいものですが、感動はむしろそれらにはさまれた小独唱曲にあり、その配置が絶妙であることも痛感しました。テノール、フルート、通奏低音のトリオによる〈ベネディクトゥス〉と、アルト、ヴァイオリン(ユニゾン)、通奏低音のトリオによる〈アグヌス・デーイ〉は、《ロ短調ミサ曲》の魂とも言うべき部分です。一見寄せ集めに見える後半のそのまた後半部が、寄せ集めどころか、バッハ晩年の叡智の結晶であることがようやく理解できました。

神殿空間をセラフィムが舞うように壮麗な〈ザンクトゥス〉。これは独立曲をそのままミサ曲へと取り入れたわけですが、合唱が歌いっぱなしになる消耗度の高い曲で、演奏者に大きな負担を課します。言い換えれば、そうした曲をここに置くといういことは、演奏者の都合を度外視しているようにも見えるわけです。

練習を重ねることによって私は〈ザンクトゥス〉のすばらしさを痛感するようになりましたが、同時に、《ロ短調ミサ曲》が「実用作品としてではなく、理想とするミサ曲の範例を作って次の世代に遺すという意図から集成された」とする古来の説に、一票を投じたい気持ちにもなってきました。

でもそうした範例が範例に終わらず、演奏を通じて生きたものとして体感できるようになったのが、今、この時代です。そんな時代が来るとは、バッハは想像もできなかったのではないでしょうか。