「涙」再考 ― 2012年01月28日 23時49分51秒
もう一度だけ、涙を話題を。仲間も読んでいますので、ご容赦ください。
昨日校庭を歩いていましたら、作曲の先生(女性)に遭遇しました。その先生は《ロ短調ミサ曲》を聴いてくださっていて、本当にすばらしかった、涙が止まらなかった、とおっしゃったのです。その表情がいちだんと輝いて美しく思えたものですから、心から言ってくださっているんだな、と、嬉しく受け止めさせていただきました。
今日カルチャーに行くと、やはり複数の人が、涙が出た、というご感想。隣の人は嗚咽していた、というお話もありました。どうやら、多くの方が涙を流してくださったようなのです。
曲は、《ロ短調ミサ曲》です。オペラでヒロインが病死するといったシチュエーションとは、違いますよね。バッハでも《マタイ》であれば、死を悼むというモチーフがあります。最後の曲は「私たちは涙を流しつつひざまずき」という歌詞になっていますので、涙も自然だと思います。でもより思索的、超越的な作品である《ロ短調ミサ曲》に対する涙というのは、質が違うように感じます。
皆さん涙を流されたところは、同じではないかと思います。最後から2曲目、加納悦子さんが歌われた〈神の小羊〉です。でもそこがあれだけすばらしかったのは、それまで25曲の積み重ねがあったからこそで、〈神の小羊〉から始まったのでは、そうはいかないでしょう。もうひとつ、「コンチェルティスト方式」の効用もあったと思うのですね。加納さんが合唱のパートリーダーとして歌われ、自ら曲の流れを体験した上で、この曲を歌われたということです。全体がここを目指して進んできたという印象は、このような演奏形態を取ったからこそ、明確なものになったのではないでしょうか。
同じことは、バスの小川哲生さんやテノールの藤井雄介さんにも言えると思います。ソリストが座って待っているお客様方式では、なかなかこういかないのではないか。言い換えれば、ソリストの方々が献身的に協力してくださって成り立ったコンサートだったということです。合唱とソロの関係の見直しを、提案したいと思います。
昨日校庭を歩いていましたら、作曲の先生(女性)に遭遇しました。その先生は《ロ短調ミサ曲》を聴いてくださっていて、本当にすばらしかった、涙が止まらなかった、とおっしゃったのです。その表情がいちだんと輝いて美しく思えたものですから、心から言ってくださっているんだな、と、嬉しく受け止めさせていただきました。
今日カルチャーに行くと、やはり複数の人が、涙が出た、というご感想。隣の人は嗚咽していた、というお話もありました。どうやら、多くの方が涙を流してくださったようなのです。
曲は、《ロ短調ミサ曲》です。オペラでヒロインが病死するといったシチュエーションとは、違いますよね。バッハでも《マタイ》であれば、死を悼むというモチーフがあります。最後の曲は「私たちは涙を流しつつひざまずき」という歌詞になっていますので、涙も自然だと思います。でもより思索的、超越的な作品である《ロ短調ミサ曲》に対する涙というのは、質が違うように感じます。
皆さん涙を流されたところは、同じではないかと思います。最後から2曲目、加納悦子さんが歌われた〈神の小羊〉です。でもそこがあれだけすばらしかったのは、それまで25曲の積み重ねがあったからこそで、〈神の小羊〉から始まったのでは、そうはいかないでしょう。もうひとつ、「コンチェルティスト方式」の効用もあったと思うのですね。加納さんが合唱のパートリーダーとして歌われ、自ら曲の流れを体験した上で、この曲を歌われたということです。全体がここを目指して進んできたという印象は、このような演奏形態を取ったからこそ、明確なものになったのではないでしょうか。
同じことは、バスの小川哲生さんやテノールの藤井雄介さんにも言えると思います。ソリストが座って待っているお客様方式では、なかなかこういかないのではないか。言い換えれば、ソリストの方々が献身的に協力してくださって成り立ったコンサートだったということです。合唱とソロの関係の見直しを、提案したいと思います。
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