本質に迫るファウスト2014年06月24日 22時13分42秒

今、イザベル・ファウスト&アレクサンデル・メルニコフのブラームス・ソナタ全曲演奏が終わり、いずみホールからホテルに戻ってきたところです。絶対の自信をもって採ったコンサートですが、満席には至らず。しかし演奏はヴァイオリンの概念を覆すほとんど究極的なもので、満場を驚嘆させたと言って過言ではありません。

ブログで取り上げたかどうか記憶がはっきりしませんが、先般、日本の若いヴァイオリニストたちが大挙して出演するコンサートに接しました。出てくる人、出てくる人ことごとく立派で、すっかり感心。ただその方向は、ソリストとしての堂々とした押し出しを、音でも技巧でも、ステージマナーでも作っていくことに向けられているように見えました。

ファウストは、その正反対なのです。贅肉をすべてそぎ落として、本質そのものに肉薄していく。禁欲的とさえ思える厳しさが解釈を支配していて、効果を狙うところがなく、毅然とした高貴さで、音楽が運ばれてゆきます。徹底した、内方集中。音程がとてもよく、重音が透明に響きます。弱音が徹底して使われるため、聴き手は、ピアノと織りなす繊細な音の綾へと、どこまでも引き込まれる。メルニコフのまろやかなタッチは、ヴァイオリンの心地よい受け皿です。

こういう地道な演奏がお客様の熱烈な支持を獲得するのですから、本物を求める方がいかに多いかということですね。人当たりもよい方で、長いサインの行列にも笑顔を振りまいて対応しておられました。すばらしい芸術家。またぜひ、お呼びしたいと思います。

コメント

_ hajime ― 2014年06月25日 13時30分57秒

 ファウストのヴァイオリン、本当に素晴らしいものでした。
 ただ、後半の2曲には若干の物足りなさも。音量では(私の席では)遥かにヴァイオリンを凌いでいる「メルニコフのピアノ」を聴いたという実感があまりない。それほど見事にヴァイオリンと一体化していたのかもしれませんが、先日の「コパチンスカヤ×リフシッツ」の(場外乱闘気味の)“対決” が、ちょっと懐かしくなったのも事実。
 アンコールの《ロマンツェ》では「二人の共演」を堪能しました。

 別府に十数年通い、アルゲリッチのピアノの魅力(=共演者を、ある時は指揮官のごとく鼓舞し、またある時は母親のごとく優しく包み込む)に、すっかり取り憑かれ、何を聴いても「彼女ならどう弾くだろう」という思いが過ってしまう。困ったものです!

_ fylgia ― 2014年06月26日 17時13分25秒

イザベル・ファウストほんとうに素晴らしい演奏会でした!
とくに後半の3番第2楽章アダージョ、ヴァイオリンの重音と分散和音のピアノの響きが今でも耳に残っています。透明感あふれる美しい弱音!忘れられません。素晴らしいヴァイオリニストですね。是非またいずみホールで聴きたいです。

_ I招聘教授 ― 2014年06月27日 01時39分06秒

ファウストのヴァイオリンは物足りない、とおっしゃる方は、大勢いて不思議はないと思うのです。にもかかわらず客席があれほど盛り上がりましたので、驚いたり、感動したり。アンコールのシューマンは本当にすばらしかったですね。

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