芸術家の人格2015年02月19日 23時16分04秒

芸術は接する人に夢や感動を与えますから、人はつい、芸術家を理想的な人物、時には神に近いもののように考えてしまいます。私生活がそれとかけ離れていたりすると、裏切られたように感じる。でも、それは違います。

神様は、芸術を必要としません。芸術は、問題を抱え、渇きを覚えた足らざる人間が、高みをめざして生み出すものなのです。この「高みをめざす」というところが重要です。身の丈に安住しているのでは、創造はおぼつきません。

その原動力を、芸術家は、内面を見つめるまなざしから生み出します。問題意識に富む芸術は、深い内省から生み出される。自分を省みず他人をあげつらう姿勢から生まれるものは、少なくとも芸術ではないでしょう。

ワーグナーは、強い自省の一面をもっていました。そう思われにくいかもしれませんが、私はそう確信しています。彼の作品の主人公たちが苦悩の人、罪の人であり、救済を求めていることが、そのことを示唆しています。彼らはみな、ワーグナーの分身なのです。

ワーグナーが自己中心的であったのは、間違いないことでしょう。しかし大きな仕事をする人が自己中心的であることは、許容されるべきだと思います。まさにその成果が、作品群であるからです。ワーグナーが遠慮深く人に道を譲る人であったなら、われわれにバイロイト祝祭劇場が遺されることはなかったでしょうし、作品の初演さえ、おぼつかなかったかもしれません。

ワーグナーは、たくさんの敵を生み出しました。しかし、みんなに嫌われていたというのは言い過ぎで、味方もたくさんいたのです。彼が女性関係に乱脈のきらいがあったことは否定できませんが、それは、彼の周囲に、心酔する熱烈な女性たちが、とぎれずに存在したことを物語っています。

ワーグナーがもし周辺にいたら、自分が許容できるかどうか、自信がありません。しかし上記のように考えるものですから、伝記に基づいて芸術家を裁くことは、したくないと思っています。

コメント

_ 久美 ― 2015年02月21日 14時56分00秒

感動しました…おっしゃる通りだと思います。先生はご著書でも罪と救いを深く考えた音楽家がバッハとワーグナーだと述べておられました。そのときには「礒山先生がそう言うならそうなんだろう」ぐらいにしか気にとめませんでしたが 今朝この記事拝読し その確信の根拠を知り とてもすごく心に沁みて 午後もこうして仕事がはかどりません。
『問題を抱え、渇きを覚えた足らざる人間が高みをめざして生み出す』って 泣きそうです。
先生、いつもなんだか盲信的なコメントででごめんなさい。
冷静になりたいものです。
昨日 ラジオで“パルシファル”前奏曲を聴いたばかりでした。きれいでした。 もう終わりっ? と思いましたが前奏曲だからしかたないですね。

_ レーズンサンド ― 2015年02月23日 01時29分41秒

私も大きく肯きながら読ませていただきました。
自己という小さな枠に収まりきれず、いろいろな形を取ってあふれ出したものの一部が、私たちには自己中心的と見えるのかも知れないと思いました。もちろんその大部分は、作品となって届けられたのでしょう。

_ I招聘教授 ― 2015年02月24日 23時28分01秒

どうも、なんとコメントしていいかわからずにおりますが、ありがたく拝読しております。

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