好きな番組2015年05月13日 10時17分10秒

前ほどテレビを見なくなりましたが、在宅していると必ず見てしまうのが、NHK日曜日夜の「ダーウィンが来た!」です。美麗な映像で展開される自然界のドラマに毎度引き込まれ、驚嘆しきり。たいへんな手間をかけて作成しているにちがいありません。

珍しい動物の珍しい生態が次々に紹介されますが、子孫を残すために動物に与えられている知恵は、すごいものですね。複雑にして高度なプログラムが、遺伝子に刷り込まれているというわけですね。

感想としてあるのは、自然界の生存競争はまったく厳しいものだなあ、ということ。その中で子孫を残していくためには、一定量の犠牲を織り込む繁殖プランが必要のようです。生存競争は基本的に、異なった動物との間で行われる。天敵というのもあります。同種のオス同士が縄張りやボスの座をめぐって争う光景もよく出てきますが、それにも生存競争のためという合理性があるようです。

番組がしばしば感動的に思えるのは、動物の生き方の中に、人間にとって学ぶべきものがあるからでしょう。動物は、みんな必死で生きている。動物は、連携して命をつないでいこうとしている。動物は、同種間で殺し合いをしない--そうした動物たちが激しい生存競争の中に投げ込まれている世界とは、何なのでしょうか。

コメント

_ 縄文 雅use ― 2015年05月14日 21時22分20秒

 私も日曜日は、ニュース、ダーウイン、大河ドラマ、スペシャルとだらだらと観ています。ダーウインは視点が面白い事と,ひげジイのだじゃれが気に入っています。ジイ繋がりで、BS7火曜日8時の「空から日本を見てみよう」のくもジイも,こだわりがあって好きです。

 動物たちが激しい生存競争の中に投げ込まれている世界とは、・・・・
 食物連鎖に繰り込まれた、自己犠牲の愛と慈悲の世界だと思います。

_ I招聘教授 ― 2015年05月14日 23時49分37秒

愛と慈悲とはまったく理解できませんが、誰の誰に対する愛であり、慈悲なのでしょうか。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月17日 07時26分52秒

 一見,食物連鎖は弱肉強食の残酷な世界に見えますが、太陽の光のエネルギーを蓄えたプランクトンや植物を小魚や草食動物が食べ、それを大きな肉食性物が補食する事で種族が維持されます。これには、太陽のエネルギーを効率よく配分する役割があり、草食性物は放っておけば幾らでも繁殖してしまうので、肉食性物がその数をコントロールしています。でも肉食生物は、狩りが上手くできない事が多く、常に飢餓と繁殖の危機に見舞われています。

 それによって自然界の個体数が上手に保たれていて、何億年と言う地球の歴史が維持されています。それは創造主が意図した循環であって、その循環の中に愛と慈悲が織り込まれているのではないでしょうか?

_ 縄文 雅use ― 2015年05月19日 22時00分49秒

子孫を残すために動物に与えられている知恵は、すごいものですね。複雑にして高度なプログラムが、遺伝子に刷り込まれているというわけですね。 ・・・

 とよく言われていますが、私は高度なプログラムが遺伝子に刷り込まれているとは思えません。
 行動のプログラムが遺伝子に刷り込まれているためには,遺伝子の情報量が圧倒的に少なく行動を制御できる程プログラムが組めないことと、もし遺伝子により行動のプログラムななされているとすると、同じ遺伝子を持つ種族の中に明らかに性格の異なる個体が(行動パターン)存在する事が説明できないからです。

_ I招聘教授 ― 2015年05月20日 01時10分26秒

縄文さん、レスポンスが遅くなり失礼しました。個体数の制御に創造主の愛と慈悲があるというのはわからなくもないですが、人間との関係はどうなるのでしょうか。それから、遺伝子がそこまでは規定していないとすると、学習していないのに行動できるのはなぜでしょうね。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月24日 06時40分33秒

 他の生物と人間との違いについて言えば、他の生物は自然にコントロールされているけれども、人間には自我があり物を作り出す事ができる事です。
 動物は本能によって行動し本能が満たされるかされないかだけで、本当の喜びを知りません。人間には自我があり物を作り出す事ができるので自然をコントロールする事ができるようになりました。自我があるので悩みや苦しみを体験し、それを喜びに変える事ができるのです。これが、人間と生物の大きな違いです。
 では何故こうなっているかと言うと、それは創世記に、
「人を創ろう。我々の姿形に似せて、そしてそれをして、海の魚、空の鳥,地の獣たちの全てを、統べさせよう。
 こうして神は自らに似せて人を創った。」ドレの旧約聖書
とあるように、人間に地球のコントロールを任せられたからです。
 ですから、人間は万物の霊長として食物連鎖の頂点に立ち、その代わり地球を調和する責任があるのでした。

 2つ目のご質問につきましては先生の苦手な分野に関わりますので、今暫く御待ち下さい。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月05日 04時14分15秒

 コメントが大分遅れて申し訳ありません。

>遺伝子がそこまでは規定していないとすると、学習していないのに行動できるのはなぜでしょうね。

 について簡単に申し上げれば、それは生き物全てが地球上の元素から創られていて、魂を持っているからと言えます。
 もし仮に、極楽鳥?が作る派手な巣を作るためのプログラムをコンピューターのコードで書くとすると莫大な量になり、30億の塩基対の配列による22,000の遺伝子の情報量(ヒトゲノムの値)ではとても納まらないと思います。さらに、他の一つ一つの行動をあらかじめDNAで決めておく事など更に不可能でしょう。また前にも書きましたが、同じ遺伝子を持つ種族の中に明らかに性格の異なる個体が(行動パターン)存在する事が説明できないからです。

 ですから、DNAはあくまでも物質からなる入れ物を作るための情報であり、行動は別のソース(魂)からの働きかけとすれば納得できるはずです。私も小さい頃,小鳥屋で買ってきた十姉妹の子供が誰も教えもしないのに、卵を産んで子育てをするのが不思議でしたが、それが魂の中の本能の領域だと聞いて納得できました。性・食・眠の3大本能は肉体を維持するための大切な本能で、これらがあるから,個体を維持して種族が保存されるのです。

 旧約聖書にあるように、
「ところで、人(アダム)は,このように神によって、大地の泥から形作られ、顔に命の息を吹きかけられる事で、魂を持ち生きる者となった。」
ので、全ての生物は,大地の泥(元素)と命の息(魂)とから成り立っている事が判ります。そして,人間だけが意志を持ち地球を調和する役割を持たされたのでした。

_ I招聘教授 ― 2015年06月05日 22時40分09秒

苦手な分野を御講釈いただき、ありがとうございます。科学で解明されていることはいずれにしろわずかだ、と理解してよろしいですか。しかし「地球を調和する役割」を、人間は果たしていませんよね。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月08日 22時52分45秒

 そうですね、台風や地震、医学に渡るまで科学で解明されている事は僅かでしかありません。それを人間は,全て解明できたつもりで行動するので失敗ばかりしています。それは、目で見える物質ばかりに気を取られ、目では見えない魂とか心の領域を無視しているからに他ありません。
 心が脳にあって人間の意識が脳の電気信号に過ぎないと言っているから、まだ役割が果たせないでいるのです。
 ルドルフ・シュタイナーが100年前に言っているように人間が、
物質体・肉体(leib) ー神的言語から生じる
(太古に無意識に自我が働きかけて意識魂を作る。魄(陰))
<精神>
魂(seele)体・アストラル体(陽)ー神的な光から生じる
(無意識に感覚魂を組み入れる)
霊(geist)
  自我 (Selbst)(思考[知性、理性、感情]、本能、意志)
 である事が解明され、一人一人の魂を浄化する事ができれば地球を調和する事も可能ではないでせうか。その希望が、40年前になされたこの講演です。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月08日 22時55分34秒

youtube.com/watch?v=S3wonCm1F0A

_ 縄文 雅use ― 2015年06月13日 22時03分56秒

 大分引っ張っていますが、もっと大切な事を忘れていました。

 それはバッハのカンタータです。250年以上前の曲がこれほど現代人に好まれ、歌い継がれている事が、神の愛と慈悲を我々に示しその役割を果たさんが為ではないでしょうか?

_ 青春23きっぷ ― 2015年06月14日 23時58分34秒

先生と縄文 雅useさんの対話を読んでいて、色々と思うところがあったり、コメントに気になることがありましたので、自分が見聞きしたことや考えていることを、少し長くなりますが記してみます。

「地球上の元素から」と言うよりか・・・
人間の血液一滴を分析すると78種もの元素が含まれているとのことです(最初に出会ったバッハのカンタータが78番だったので、この数はすぐに覚えました(笑))。
それらを含め、生命体を含む太陽系のすべての元素は、137億年前に起こったとされるビックバン以来の星の生成や超新星爆発など、宇宙の進化の過程で生成されたと、西欧キリスト教文明の中から発展し続けてきた現今の科学は解き明かしています。


「自我」と言うよりか「自己」と言うよりか・・・
「魂」と言うよりか・・・
自我は1歳半頃から2歳頃までに「芽生える」と言う言葉を使ってよく言われます。「芽生える」と言うことは、その元があると考えるのが自然です。その元とは、心のように思われます。
心は、程度の差は大きいものの、人だけでなくチンパンジーにも、おそらく哺乳類の犬猫にもあると思います。魚類や両生類のカエルはどうでしょう。心と言えないまでも心の様なものがあるようにも思われます。

地球に生命が誕生(37億年前と考えられている)して以来、生物の多様な進化の過程で中枢神経系が発達し、その網の目の中に記憶と呼べるような機能(仕組み)がその生物に宿ったとき、原初的な心が誕生した、心の働きの原点は記憶と思っています。哺乳類が出現する遥か以前のことでしょう。

その記憶機能自体も進化・発達するに伴い、時空を捉え判断が備わり感情が芽生え意識が生まれたのではないでしょうか。
記憶を持たない生き物は、瞬間に現在が消え去るだけで、時間の流れはなく、たぶん今すらない世界で生きていると観ることが出来るでしょう。記憶が成立するとどうでしょう。過去が現われ積み重なっていくと、そこに時間が立ち現れ時が流れるていくと言う感覚が備わり、それが時間の認識をもたらした。と同時に、それは空間の認識に繋がったと思われます。こうしたことは意識の一端が現われたとも言えるのではないでしょうか。

心とは、
他者と縁した際に、他者との関係性から得られたものが蓄積された記憶の集合体とその振る舞いと捉え、その在り処は脳と考えます。また、その個体のDNAに刻まれている記憶(遺伝情報)も、心の形成に何らかの関わりがあるように思えます。
生あるものは、縁が途絶えることはない(外界との関わりが常にある)ので、心は絶えず刻々と変化する。
ヒトの心は、猿人→原人→旧人→新人(ホモサピエンス)を辿り、他者との関係性から心を育みつつ脳を発達させて精神世界を持つようになったと考えます。他者とのよき関係性により、心が育まれ豊かな精神がもたらされるのでしょう。

ここでの縁するとは、ヒトであれば五感を(それを超える例えば気配なども)通じて、無意識レベルも含め、あらゆる外部の事物・情報に接し関わり影響を受けること。
また、他者とは、内界に対する外界のすべて。家族・他人はもとより、あらゆる事物・情報、また自然、社会、芸術等々、自己以外のすべて。ですので鏡に映った自分の表情も、さらには絶対的他者≒唯一絶対神の神も他者と考えます。


最後に、先生が言われた、
『「地球を調和する役割」を人間は果たしていませんよね。』についてですが、果たそうとしているが追いつけないでいる、と言う認識をしています。
ヒトの心(精神)の振る舞いは、自由意思の原理が働きつつも(勝手気ままに振る舞いつつも)、自己回帰の原理も働いているので、特に有史以来、複雑化する環境・社会に対応するため、意志をもって知性や理性を磨き社会性を高めてきています。地球も他者と捉える意識が現われ「かけがえのない地球」の潮流も生まれ、秩序と調和を成そうとする方向にもある様に思われるからです。最も、地球を脱出して宇宙に進出しようとする流れも見て取れますが、立つ鳥跡を汚さずであって欲しいものです。

全く音楽に無関係な長文失礼しました。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月16日 06時17分40秒

>青春23きっぷさん

長いコメント有り難うございます。

もう一つお伺いしたいのですが、カンタータ78番の3曲目のレツィタティーフにある、

確かに霊は語る。「ああ!誰が私を救ってくれるのだろう?」

の霊とはどうお考えですか?

_ 青春23きっぷ ― 2015年06月17日 18時46分13秒

霊と魂って、その違いを私はしっかり認識できていません。。

まず、手持ちのレコード、カンタータ78番は「わたしの魂であるイエスよ」となっていて、その解説文にも歌詞対訳(服部幸三)にも、霊と言う言葉は一つも現れていません。また、先生の著書「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」では《イエスよ、あなたは私の魂を》とあり、『魂の救いという、より本質的な癒しを追及するこの作品は・・・』との記述があり、やはり一切、霊と言う言葉は使われていません。

さて、『確かに霊は語る』はレツィタティーフに付いているタイトルなのでしょうか。『霊は語る』と言う表現は、霊は外界にあるようなイメージがあるので、このレツィタティーフやこのカンタータにはしっくりしない言葉だと思います。「わたしの霊であるイエスよ」ではねぇ。ご質問の意味がこういう事でないのであれば、お門違いになりますが。

さて、「霊」を明鏡国語辞典を見てみますと、
 一、肉体に宿ってその行為を支配し、肉体を離れても存在する考えられる心の本体。
 二、死んだ人のたましい。みたま。
 三、目には見えず、人知では計り知れない不思議な働きをするもの。
「魂」は、
 一、人の体に宿り、精神活動をつかさどると考えられているもの、不滅のものと信じられ、
   死後は肉体を離れて心霊になるとされている。
 二、自然界の万物に宿り、霊的な働きをすると考えられているもの。
 三、精神、心
とあり、ちなみに、
「霊魂」は、
 一、肉体に宿ってその生命と精神活動を支配し、肉体が滅んでもなお存在すると
   考えられているもの。たましい。霊。
とあります。

"霊は外界にあるようなイメージ"と記しましたが、「肉体を離れても」とか「死後は肉体を離れて」とか「自然界の万物に宿り」とあるように、生命体内部にあると言うより、どちらかと言えば、外界にあると考えるのがよさそうですよね。なので、先日の私見「心」には、霊は含まれない、他者の一つと捉えていることになります。

最後に、
「魂」とか「霊」を他の辞書(広辞苑、日本国語大辞典)も引いてみると、「肉体を離れても存在する考えられる」と「考えられる」と言う言葉が現れていますが、青春23きっぷがその立場に立っていないことを察して頂けるとものと思います。かといって、そう考えている方に、それは違うと言うつもりはありません。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月17日 22時33分32秒

>> 青春23きっぷさん

私が引用した訳は、J.S.バッハ声楽全集(若林敦盛)でネットでは
bach-kreis-kobe.music.coocan.jp/text/78.html

Jesu, der du meine Seele
イエスよ、あなたはわたしの魂を

Der Geist zwar spricht: ach! wer wird mich erlosen?
わが魂は叫ぶ ああ!この者を救ってくださるのは誰か?

と言うのがありました。ただ前にコメントしたように、Geistとは霊の事であり、日本語の辞典の著者もその違いがよく解っていないと思います。

 中世の人たちは、魂と霊と聖霊と精霊の違いを良く心得ており生活の中に活かしていた事が「ドイツ音楽歳時記」樋口隆一を読めばよく判ります。

 私が先生の苦手なと言ったのは実はこのことで、普段の会話と御著書のマタイ受難曲63aのP407に、

そこで眠っていた聖徒たちの多くの体がよみがえった
そしてイエスの復活のあと墓からでて
聖なる都に入り,多くの人の前にあらわれた

の所の解説を,全くスルーされている事からも伺えました。

いずれにせよ、ヒントを示すにとどめておきます

_ 縄文 雅use ― 2015年06月17日 22時34分31秒

>> 青春23きっぷさん

私が引用した訳は、J.S.バッハ声楽全集(若林敦盛)でネットでは
bach-kreis-kobe.music.coocan.jp/text/78.html

Jesu, der du meine Seele
イエスよ、あなたはわたしの魂を

Der Geist zwar spricht: ach! wer wird mich erlosen?
わが魂は叫ぶ ああ!この者を救ってくださるのは誰か?

と言うのがありました。ただ前にコメントしたように、Geistとは霊の事であり、日本語の辞典の著者もその違いがよく解っていないと思います。

 中世の人たちは、魂と霊と聖霊と精霊の違いを良く心得ており生活の中に活かしていた事が「ドイツ音楽歳時記」樋口隆一を読めばよく判ります。

 私が先生の苦手なと言ったのは実はこのことで、普段の会話と御著書のマタイ受難曲63aのP407に、

そこで眠っていた聖徒たちの多くの体がよみがえった
そしてイエスの復活のあと墓からでて
聖なる都に入り,多くの人の前にあらわれた

の所の解説を,全くスルーされている事からも伺えました。

いずれにせよ、ヒントを示すにとどめておきます

_ I招聘教授 ― 2015年06月18日 02時07分37秒

霊(Geist, spiritus)は魂(Seele, anima)の上位にあるもので、神を知る働きです。《マニフィカト》の冒頭に典型的な使い分けが見られ、ルターもそのように説明しています。以前から私があちこちに書いていることで、苦手だとは思っておりません。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月18日 05時11分59秒

ヨーロッパからコメント有り難うございます。
あまり美味しいものを食べ過ぎて、
「本当に、マタイ受難曲の写真の先生ですか?」
と更に言われないように、ご自愛下さい。

ところで、好きな番組がこんなに深いいい話になって喜んでいます。
日曜日に放送されたNHKの超常現象で、「神智学」創始者のプロバッキーが出ていました。録画したつもりだったのに、録画されていなくて内容を思い出せません。ただ追求が不十分でした。28日に再放送されます。

_ 縄文 雅use ― 2015年06月18日 05時18分50秒

後、マニフィカトは、いまBETで練習しています。来年の1月10日に富山県民会館で歌う予定です。

_ (未記入) ― 2015年06月27日 19時44分07秒

06月18日に先生が記されたコメント、
『霊(Geist, spiritus)は魂(Seele, anima)の上位にあるもので、神を知る働きです』について、何とか理解しようとしています。聖書を読んだこともなく、ましてや神学に縁してきていない私には難問です。

まず、マニフィカトの冒頭のテキストのラテン語とドイツ語と日本語を並べてみました。
--------------------------
 Magnificat anima mea Dominum,
 et exsultavit spiritus meus in Deo salvatore meo,(wikipediaより引用)

 Meine Seele erhebt den Herrn,
 und mein Geist in Gott, meinen Retter gefreut,(上記のgoogle翻訳)

 わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます。(先生の著書より引用)
--------------------------
手元にドイツ語辞典がないので、
----------------------------------------
Geist google翻訳→日本語:精神、御霊、霊、スプリット、心
Geist google翻訳→英語 :spirit
spirit 新英和大辞典より↓(<ドイツ語>、[日本国語大辞典より]付加)
 -n. 1 (生命の)息、生気、精神《神によって吹き込まれる息の中
    にあると考えられた生命力の根源》
   2a 人間の霊的 部分、霊、心(soul)<Seele>
    b (死体から離れた)霊魂
    c (神の)霊,神霊[神のみたま]
    d the S- 聖霊(the Holy spirit)<Heiliger Geist>
           [三位一体の第三位。人間に宿り、神意の
            啓示を感じ、精神活動を起こさせるもの]
   3a~省略
------------------------------
最初にある、1 の《神によって吹き込まれる息の中にあると考えられた生命力の根源》を読んで、天地創造の6日目が思い起こされました。「神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった」(正確でないかも)のくだりです。つくられる際に、神によって吹き込まれた息、それが人に宿った霊と言うことなのでしょう。
だから、その霊を宿している"わたし"は「神を喜び讃える」のは、ごく自然なこと、信仰者にとってこのテキストは、神との関係を命で感じ取り、喜び感謝する感情が溢れることになるのでしょう。
これが『神を知る働きです』の意味合いなのかなぁー、と自分なりに思った次第です。

d の聖霊<Heiliger Geist>と霊の関係は、また考えたいと思います。

_ 青春23きっぷ ― 2015年06月27日 19時48分18秒

おっと、上記コメント者、 (未記入) は青春23きっぷです。

_ I招聘教授 ― 2015年06月27日 22時34分39秒

ちゃんとした議論はコメントではむずかしいので、文献を紹介します。ルターの《マニフィカト》は2種類の訳で出ており、該当箇所でまさにその問題を論じています。参考になると思います。

_ I招聘教授 ― 2015年06月28日 08時12分56秒

青春きっぷさん、本質探究の姿勢に心から敬意を表しますが、取り組まれているテーマの解明は、手元の辞書では無理で、やはり原典に向かわなくてはなりません。ですので、ご提案の文献を読んでいただくとして、一応ひと区切りにしませんか。続きは、お会いした時にでも。

_ 青春24きっぷ ― 2016年01月20日 21時55分11秒

青春24きっぷ、に変わってしまいましたが・・・
先日、バッハのオルガン演奏会の前に近くの図書館を訪れ、先生に昨年紹介して頂いたルター文献「マグニフィカート(マリヤの賛歌)の訳と講解」(ルター著作集第1集4巻 内海季秋訳 聖文舎)の一部をメモ転記【】してきました。
先生がおっしゃった『霊(Geist,spiritus)は魂(Seele,anima)の上位にあるもので、神を知る働きです』について(霊と魂の関係)とマニフィカートの意味を勉強したく、メモ転記したものをコメント書き込みして(35行余り)、よろしいでしょうか。

_ I招聘教授 ― 2016年01月22日 00時33分11秒

35行だと、読んでもらえませんよ。10行にまとめませんか。

_ 青春14きっぷ ― 2016年01月22日 18時14分18秒

Magnificat anima mea Dominum, Et exsultavit spiritus meus in Deo salutari meo.【この言葉は、強い情熱と溢れる喜びから発せられたもので、彼女の全精神と生活とは、聖霊によって内的に高揚されるのである。それは、神の甘美さと神の霊を注がれた全人類の人々に生じることであり、喜びをもって神を賛美すると言うことは、人間の行為ではなく、それは喜ばしい受動であり、ただ神の働きである。言葉をもって教えられる事ではなく、ただ自身の経験によってのみ知りうる事である。】

【第一の霊は、人間の最高、最深、かつ最も尊い部分である。これによって人は理解しがたい、見えない永遠なるものを把握する。言わば、信仰と神の言葉の住まいである。】

【第二の魂は、その本性について言えばこの霊であるが、その働きは体に生命を与え、体を通して働くものと考えられ、しばしば聖書において生命と置き換えられている。その作用は理性が認識し判断しうることを把握することである。理性はこの家の光である。そして霊がより輝かしい光に照らされて、理性の光を支配しないかぎり,理性は決して誤謬なしにはありえない。というのは理性は神的な事がらに関与するには、あまりに弱いからである。聖書はこれらの二つの部分に、多くのものを帰している。霊に対しての知恵や魂に対しての知識、更には憎悪、愛・・・である。】

【第三に肢体を備えた体である。その働きは魂が知り霊が信じる所を実行し適用する】

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック