現代への警鐘2016年03月09日 06時37分26秒

最近勉強した外国の聖書研究書のうち、内容も翻訳もよく、とてもためになったものが2冊あります。ひとつはG.タイセン著、大貫隆訳の『新約聖書』(教文館)、もうひとつはJ.D.クロッサン/M.J.ボーグ著、浅野淳博訳の『イエス最後の一週間~マルコ福音書による受難物語』(同)です。このうち、一般向けにわかりやすく書かれた後者(原著2006、翻訳2008)について、一言ご紹介します。

この本は、イエス最後の一週間を、1日ずつ区切って記述しています。両著者は、「第三の探究」というイエス研究の流れに属する人たちだそうです。よく考えられた丁寧な記述ですが、心から「なるほど」と思ったことがひとつありました。

イエスの十字架は人間たちの罪を身に受けての「贖罪死」であるとする一般的な見方を、著者は否定するのですね。『マルコ福音書』は、そう述べていないと言う。「贖罪」というと罪をイエスだけが代理で引き受け、人間たちはありがたくその恩恵に預かればいいと思われがちだが、そうではない、というのです。イエスは十字架から死に向かう行動に人々が倣うことを求めているのだ、と。

概念規定はともかくとして、この指摘には膝を打ちました。それは、たとえば《マタイ受難曲》の中に、イエスに倣って苦い杯を飲もうとか、甘い十字架を背負おうとかいうアリアが出てくるゆえんを説明してくれます。バッハのテキストに出てくるルター派神学は厭世観の強さにおいて独特ですが、その意味では正道に連なっているとも言えそうです。

《パルジファル》における「共苦」の勧めにも、それはしっかりつながる。神を人間に都合よく考えてはいけないという、現代にありがちな傾向への警鐘であると思いました。