美徳 ― 2008年07月21日 22時46分38秒
私が22年間続けている音楽同好会に長いこと通われていた方が、最近、天寿を全うされました。人生を楽しむ自由人、という趣の方でしたが、息子さんが会に寄せてくれたメッセージを聞いて、驚きました。この息子さんは、お父さんが人の悪口を言うのを聞いたことがなかった、というのです。
人の悪口を言う人と言わない人がいる、ということは、私も意識していました。以前テレビである評論家が、小泉元首相は人の悪口を言わない、と述べていたのでその後気をつけていましたが、本当にそう。根強い小泉人気の背景には、絶対これがあると思います。レトリックを総動員して特定人を批判する、というタイプの人は、それがたとえ正当でも、感じがよくありません。
そう思って身の回りを考えてみると、言わない方がやはり何人か、いらっしゃるのですね。まねのできないことで、尊敬します。もちろん、「人間は人の悪口を言いたい動物である」(三島由紀夫)というのは真理だと思いますし、正当な批判だったり、罪のない座興だったりすることもありますから、ある程度は許されると思う。私もこの快楽からは逃れられないわけですが、節度として大事なのは、「自分を棚に上げない」ということではないでしょうか。自分を振り返る痛みなしに出てくる一方的なそれは、どんな局面でも感じが悪く、言う人の損になると思います。
私が常時見に行っているブログは少数ですが、主宰者のちょっとした過失(謝罪されている)に対して傘にかかるような批判コメントが発信されている状況に接し、心が痛みました。励ましのコメントの中にいくつか一方的なものが混じるだけで、献身的な努力で情報発信されてきたブログが、読むに耐えない場となってしまう。荒らしにも効果があると、思わざるを得ません。
集中力 ― 2008年07月23日 22時46分17秒
将棋名人戦の激闘をまとめたテレビ番組の中で、レポーターが森内俊之前名人に、自身の集中力について尋ねました。森内さんは永世名人の資格をもつ強豪で、立派な人格を感じさせる方です。
森内さんがおっしゃるには、自分は音が気になるので、棋士の中では集中力が高い方とは言えないかも知れない、とのこと。なるほど、音なんか気にならない、というほど高い集中力のレベルがある、ということですね。
音が気になるのは、私も同じです。音楽大学では校庭で金管楽器の練習をしますから、聞こえてくると、思考が妨げられます。ですから私は、授業中、暑くても窓を閉めさせることが多い。静かになると、さあやっと集中できる、というわけです。でもそれが自分の集中力の乏しさだ、とは気づきませんでした。
そこで思うのですが、「ながら」と集中力の関係は、どうでしょう。なにかと「ながら」でやる人は、集中力が乏しいのか。あるいは、集中力が高いからこそ、「ながら」が可能になるのか。集中力がたいへん高ければ、集中の対象をスイッチのように切り替えることもできるのか。集中力の高さと、ものに熱中しやすいこととは関係があるのかどうか。
いろいろな疑問が湧いてきます。
合宿にて ― 2008年07月25日 23時16分53秒
大学の合宿で、河口湖に行きました。
私は夕食から合流し、食後の卓球大会で、準優勝。身体を動かしたのは久しぶりで、疲れました。続いてコンサート。学生のコンサートにはけっして寛大でない私ですが、今年はたいへん良かった。津軽三味線の名手が入学したことが、ものを言っています。音楽学の先生方がグレゴリオ聖歌から初期の多声が派生するさまをほとんど即興で実演したのには、驚嘆しました。さすが。
2年生幹事のみごとな仕切りで進んだ合宿は、飲み会の部へ。ここで、ウルトラCのアイデアが出ました。学年で固まるのを避けるために、血液型ごとにテーブルを分けることにしたのです。
音楽学の特殊性のゆえに、私のテーブルは最大派閥。それからはどのテーブルでも、血液型談義に花が咲いたようです。1時間経っても2時間経ってもその話をしているのだから、皆さん、関心があるのですね。私の同類がこれほど多いのも不思議で、やはり何か、集中する理由がありそうです。次回は、少数派の人たちに「血液型税」を課そう、という話になりました。こういう発想自体が、ある型を指向しています。
友竹さんの思い出 ― 2008年07月27日 23時17分43秒
今日は、東京室内歌劇場40周年記念公演《夜長姫と耳男》(間宮芳生作曲)を、第一生命ホールに観に行きました。一瞬のゆるみもなく見入ってしまう迫真の公演で、すばらしかった。演奏も舞台もことごとく良かったと思いますが、そう思うのは何より、作品の良さがあったからだと思います。指揮:寺嶋陸也、演出:中村敬一、出演:大貫裕子、太田直樹、吉田伸昭、多田康芳、松本薫。
坂口安吾原作のこのオペラを脚色したのは、バリトン歌手の友竹正則さんだそうです。併せて演奏された《おいぼれ神様》(間宮芳生)の初演を歌ったのも、友竹さんだとか。それを知り、昔のことを思い出しました。友竹さんはだいぶ前に亡くなりましたが、才能と愛嬌のあるキャラクターで、茶の間の人気者だった方です。
私が中学3年生のとき、友竹さんが三浦洋一さんの伴奏で、学校に演奏に来てくれることになりました。松本でのことです。そのとき、プログラムをもらいに行くという大役を、私がおおせつかった。私(少年)はガチガチに緊張して、ホテル(だったかな)に出向きました。
プログラムは、歌曲だの日本の歌だの、何部かに分かれていました。でもちょっと、盛りだくさんすぎた。そこで三浦さんが「オペラ、カットしちゃったら?」とおっしゃり、いくつかのアリアがカットされました。当時すでにオペラ・ファンだった私は、内心、え~とがっかりしたことを覚えています。
コンサートで覚えているのは、三浦さんがリストの《水の上を歩むパオラの聖フランシス》を華々しく独奏された様子です。友竹さんも進むにつれて調子が上がり、私はめったに触れる機会のなかった生演奏に、興奮していました。アンコールが1曲入り、盛り上がりが最高潮に達したところで、なぜかPTAの会長が登場し、お礼の言葉。え~、もっと聴きたかったのに!と、心底がっかりしました。あとで聞いたところでは、友竹さんは「さあ、次何いきましょうか」と乗っていたのに、PTA会長が「お疲れではないか」と心配して、挨拶に移ったとのことです。残念だったなあ。その友竹さんが、今日のオペラの台本を書かれていたことを知り、感慨を新たにしました。
一足お先に ― 2008年07月30日 00時06分41秒
携帯を変えました。ひひひ。
買い換えるごとに機能がぐっと上がる、という楽しさは、昔ワープロ専用機やパソコンでいつも味わって、最近忘れかかっていたものでした。しかし値段も上がっていますね。電車の中などで見ると、若い人たちが使っているのは新鋭機種ばかりです。みんな相当投資しているんですね。
今回初めて、シャープの機種を買いました。頭にSHがつくのがそれです。私は携帯電話をパソコンの代用として使うことが多いので、液晶が90°回転するところにホレました。ネットを見るとき、全然違います。さあ、迷惑メールの削除、がんばろう。
今日はパリ・オペラの公演で、バルトークとヤナーチェクを観てきました。感想は新聞に書きます。今週は、なんと5つのコンサートを覗く予定です。明日はいずみホールで、東京カルテットのベートーヴェンです。
振り子状態 ― 2008年07月31日 22時50分58秒
すばらしい音楽に触れた興奮と、その反対の落胆と。今週はその両極を行ったり来たりしています。コンサートは、本当にさまざま。なにもそこまで、というほど磨きをかけられた演奏もあれば、この程度でいいだろうと見切りをつけているとしか思えない演奏もある。要は良識の差で、受け手の印象は、何倍にも違ってきます。
悪い目が出たときに批評に当たると、やっかい。とても辛い思いをします。でも読む方はどうやら、酷評に興味を持たれるのですね。すばらしかった、批評に書きます、と言うと話はそこで終わるのに、ひどかった、でも書かなくちゃ、と言うと、ぜひ読ませてください、となりますから(笑)。
思うにそれは、辛口の批評が少ないからかもしれません。切り捨て御免の批評の弊害はつねに指摘されますが、迎合的な批評の弊害も、長い目で見ると、大きいのではないでしょうか。とくに、宣伝が行き届き、大金が動いているようなイベントに対して甘口で対応するのは、批評の自殺行為です。もちろん批評するこちらが正しいとは限らないわけですが、私は自分なりに極力吟味した上で、理由を明示し、書くべきことは書くようにしています。いずれにせよ、上述した「良識の差」は、知名度、メジャー度と関係がない、というのが、繰り返し抱く実感です。
めったに来ない都市に今日はいますので、コンサート後、町をぶらぶらしました。でも演奏の記憶が残り、楽しくありません。昨夜の東京カルテットの演奏が、すばらしすぎたためでしょうか。
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