7月のイベント ― 2008年07月03日 06時37分57秒
7月というのは、1年の後半ですね。今月は、バッハ・プロジェクト(バッハ演奏研究プロジェクトを略して)の「ピアノで弾くバッハ」シリーズ、第1回のレッスンで始まりました。どんな進行になるのか予測できず、一抹の不安を抱いていましたが、渡邊順生さんのご指導が楽譜への深い読みに裏付けられてすばらしく、順調に滑り出したことを喜んでいます。10日(火)は、今井顕先生がバドゥーラ=スコダの『バッハ 演奏法と解釈』(新刊)について講義されますので、ご来場ください。どなたでも、無料で聞いていただけます。18:00から、6号館のスタジオです。
今月の予定は、定例のカルチャーのみです。やっぱり、そういう月もないと。一応ご案内しておきます。
5日(土) 10:00 朝日カルチャーセンター新宿「新・バッハ/魂のエヴァンゲリスト~伝統からの巣立ち2/アルンシュタット時代」
19日(土) 10:00 立川楽しいクラシックの会「夏だからヘンデルを」
26日(土) 13:00 朝日カルチャーセンター横浜「テレマンの愉しみ」
責任能力とは ― 2008年07月03日 22時09分26秒
社会のことは書かない方が楽しいような気がして避けているのですが、たまには。
裁判の話題を見るにつけ、私が疑問に思うことがあります。それは、「責任能力」とは何だろう、ということです。犯行時に異常な精神状態であったと判定されれば、その度合いによって、罪が軽減されたり、無罪になったりしますよね。でもそもそも犯罪って、異常な精神状態で行われるものなのではないでしょうか。あとから、あのときどうしてあんな気持ちになり、あんなことをしてしまったんだろう、と振り返るような。
ですから、凶悪な事件ではあるが、そのときの精神状態を考慮して無罪、という考え方が、よくわかりません。それなら、罪を裁くことがそもそもできなくなるような気がするのです。これからは誰でも裁判にかり出される可能性があるそうですから、このあたりから勉強しないといけないのだろうと思います。
しかし私は、個々の事例への弾力的な対処も大切だが、全体として社会に一定の正義感が充足されていることも大切だと思うのです。悪いことをすれば罰せられる、という原則が生きていることをどこかで実感できるのが、秩序ある社会なのではないでしょうか。
BWV1128 ― 2008年07月05日 21時34分24秒
たのもーさん、ご教示ありがとうございました(←とつぜん尊敬)。衣装だの、楽譜だの忘れる方々。なにやってるんだか(←とつぜん余裕)。
今日は「新・バッハ/魂のエヴァンゲリスト」の第2回。バッハ通の方が大勢来てくださる講座なので、それなりに準備して臨みました。旧著を縮小コピーし、6つの箇所に、新らしい学説をまとめた注釈を付けました。アルンシュタット時代の話ですから、カプリッチョの「最愛の兄」が実兄とは別人(たとえばエールトマン)ではないかとか、有名なニ短調の《トッカータとフーガ》が偽作ではないかとか、その類のことです。
この3月に発見されたばかりのオルガン・コラール《主が私たちの側に立ってくださらなければWo Gott der Herr nicht bei uns hält》の楽譜を昨日入手しましたので、皆さんにお見せしました。ハレ大学図書館の入手したヴィルヘルム・ルスト(旧全集編集主幹)の遺品の中に含まれていた筆写譜が、さっそく出版されたのです(まあ、速いこと)。この作品には1128というBWV番号が振られました。シュミーダーの目録が出て半世紀ちょっとの間に、48曲増えたことになります(目録初版の最後は《フーガの技法》BWV1080)。発見されたのは1705年から10年の間に書かれた85小節のファンタジーで、なかなか立派に作曲されています。
皆さんとても興味深そうにご覧になりましたので、CDをお聴かせしたいところだが、まだありません、と申しました。そうしたら、受講生の中に、先週ライプツィヒで実演を聴いてきた、とおっしゃる方がいらっしゃるではありませんか。向こうではCDも出ていて(ウルリヒ・ベーメ演奏)、買って帰られたとのこと。さっそく次回に聴かせていただくことにしました。こういうやりとりが生じるから、カルチャーは面白いですね。私も気が抜けません。
学問とは何か、を知るために ― 2008年07月07日 23時02分08秒
尊敬する友人、関根清三さん(東大教授)が、すごい本を書きました。『旧約聖書と哲学--現代の問いのなかの一神教』(岩波書店)というものです。
関根さんは、昨今優勢な歴史学的解釈に対して哲学的解釈の復権を唱え、旧約聖書から、今日なお有効なメッセージを救い出そうとしておられます。旧約のマソラ本文や七十人訳、アリストテレスや現代各国語の哲学に及ぶ膨大なテクストの読み込みに圧倒されるのが、まず第一歩。声高な一神教批判とも真摯に向き合いつつ熟慮を重ねる誠実そのものの姿勢に、深いところから心を温められてゆくのが、第二段階。読むにつれ、これにくらべたら私など何も勉強していないなあ、という思いがわき上がってきて、下を向きます(←掛け値ない実感)。でもそう思えることが、不思議なうれしさを伴っているのです。
学問とは何か、哲学とは何か。わからなくなったら、この本を読むのがお勧めです。古今の先学に学びながら、重要な問題を批判的に、良心的に徹底して考えてゆく著者の姿勢が、その答になることでしょう。本物と偽物の違いも、わかるようになるはずです。
ソノシート ― 2008年07月09日 23時52分01秒
自分の若かった頃を、今の若い人が研究している、というシチュエーションに出会うようになりました。若い人は当然文献から入るわけで、実感はもっていない。こちらは実感ありありで、そのギャップが面白いです。
そんなとき、オレはそのとき生きていたんだぞ、と威張りたくなりますが、考えてみると、どこまで時代全体を公平に知っていたか、怪しいもの。狭い環境で、自分の関心を追い求めていたに過ぎないからです。そういう意味では、しっかり研究してもらうことで、かえって時代が公平にわかる、ということがあるのかも知れない。大いに研究していただきたいと思います。
学生の発表の中に、「ソノシート」というアイテムが出てきました。学生は、昔そういうのがあったらしい、というスタンスでやっています。でもわれわれはたちまち、なつかし感覚になってしまう。安価なメディアとして急成長したが、限界も多く、長続きしなかったものです。
雑誌の付録に、よくついていたのではなかったでしょうか。私が強烈な印象にあるのは、小学生の頃、雑誌の付録についていたプレーヤー(!)を組み立てたことです。こんなおもちゃみたいなもので音が出るとは信じられず、半信半疑で鳴らしてみると、「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が」と、歌が聞こえてくるではありませんか。そのメディアが、ソノシートでした。赤いペラペラのディスクで、いかにも安っぽかったのを思い出します。
〔付記〕意外にこれが、のちのレコード熱の第一歩だったのかもしれません。
ほめついでに ― 2008年07月11日 22時47分41秒
ブログの価値はコメントの量ではかられるのだそうです。それだとさびしい、私の家。大江麻理子さん(テレビ東京)のブログなどまことに壮観で、別世界のようです。
でも当家のコメントは、量より質。コメントまで見ない、という方もいらっしゃるでしょうから、コメントにはなるべく、本文でお答えしています。「たのもーさん尊敬」などというのがそれですが、何のことかと首をひねられた方もおられることでしょう。今日は、「四畳半のテノール」という不思議な方から、コメントをいただきました。ハイCの可聴範囲が四畳半とは理解に苦しみますが、多くの読者には、四畳半の説明から始めなくてはならないかもしれません。昔、日本の家屋には・・・(以下略)。
本当にいいものを心から推薦する、という私のポリシーに照らして、ひとつ。今日午前中の「歌曲作品研究」の授業では、ドクターコース在学中の山崎法子さんに、ヴォルフの歌曲の演奏と解説をしていただきました。山崎さんはウィーンに7年間留学し、シェーンベルク合唱団の団員として、アーノンクールの指揮で歌っておられた方です。
ドイツ語がものすごくできる方なのですが、それは7年いたからではなく、言葉への感受性のゆえだと思います。メーリケ歌曲集からの5曲が、なんとすばらしかったことか。シニカルな曲は演劇的に、多彩に歌われ、宗教的な曲は、たちのぼるような雰囲気をこめて。そのすべてに、温かい人間性がゆきわたっているのですね。授業中ですが、思わず涙してしまいました。
やはり私が論文指導しているメゾソプラノの湯川亜也子さんは、最近、日仏歌曲コンクールに優勝。周囲の若い人たちがいい結果を出してくれて、喜んでいます。あ、お二人とも、くにたちiBACHコレギウムのメンバーです。
独学 ― 2008年07月13日 22時54分46秒
花岡千春さんが、清瀬保二(1900-81)のピアノ独奏曲の全曲(!)録音を発表されました。ベルウッドからの2枚組です。
ぽつりぽつりと抒情を語る趣のスケッチ風小品は、どの曲もごくごく簡素、木訥。こうした小品を味わい深く演奏し、どの曲からも独特の光を引き出す花岡さんの見識に脱帽します。
リーフレットの中に、「独学とは、自分が自分の作品の批評家にならなければならないことである」という清瀬の言葉が引用されていました。はっとする言葉でした。
私自身、音楽研究は独学だという意識をもってやってきました。こう書くと、すばらしい先生方の教えを受けながらなんということを言うか、というお叱りを受けそうですが、先生方から貴重な教えを受けたということと、私の独学意識は、抵触しません。むしろ、自分自身の力で進もうと悪戦苦闘するという前提が、尊敬する先生方との出会いを導いたと言えると思っています。独学であるがゆえの弱点も、自分としてはさまざまに意識していました。
なぜこんなことを書くのかというと、今の学生さんが、自分自身の力で徹底して考えることを、あまりしないように思えるからです。多くの大学が手取り足取りの親切な教育を標榜し、マンツーマンの指導を行うようになっている。そうなると、自分自身で極限まで詰める前に、先生のところにもっていって教えてもらおう、というスタンスになってしまうのではないでしょうか。
準備した論文草稿なり、翻訳なりを読んでいて、この人は本当にこれでいいと思って持ってきているのだろうか、と思うことがあります。やはり、自分の価値観で磨けるだけ磨き、その上で先生の判定を乞わないと、本当の力はつかないと思う。演奏でもそうですよね。自分の解釈ができていないうちにレッスンにもっていっても、先生の教えを本当には吸収できないと思います。
ですから私は、自分の弟子たちも、みんな基本的には独学していると思っているのです。心配性の方のために注釈。この項目は清瀬に触発されて書いたものであり、ここしばらくの論文指導への不満から書いたものではありません(笑)。
洞察力を讃える ― 2008年07月15日 23時11分18秒
巨人ファンの方から、最近野球の話題がない、というクレームをいただきました。そこで書くことにしたわけですが、今日書くのが適切かどうかわかりません(中日勝ち)。でも昼間から書くことに決めていましたので、書かせていただきます。
巨人軍、好調ですね。密かに慶賀の気持ちをもって、拝見していました。なぜなら、最近の連勝は、洞察力のたまものだと思うからです。すべては、補強の成功。その補強は、すぐれた洞察力、そして、並外れた経済力に裏付けられています。
これだけのすぐれた補強は、めったにお目にかかりません。グライシンガーが、先発で抑える。ラミレスが打ちまくる。クルーンが出てくると、相手チームはお手上げ。この3人を他チームから取ってくるという思い切った構想、それが成功するという読み(洞察力)、それを実現させる多大の金銭。本当にたいしたものです。
他の選手も活躍しているよ、とおっしゃるあなた。本当にそうでしょうか。BSなどでだいたい試合を見ていますが、ラミレスが逆転打を打ち、クルーンで逃げ切るという試合が、最近も、いくつかあったと思います。この2人、プラス、グライシンガーで勝っているわけです。せっかく原監督がおられるのに、采配を振るう余地がないようで、残念なことです。
昔、巨人が全盛期の頃、外国人を主軸にした横浜(当時大洋)に負けることがありました。そのとき、ファンだった友人は、「外国人の力で勝とうとするのは許せない」と言っていたものです。時代は変わり、ファンの方々の気持ちも、狭い国粋主義から解放されました。皆さん、補強の成功を喜び、「金はいくらでも出す」という親会社の度量をたたえておられるに違いありません。さて、いつまで続くか。
総天然色 ― 2008年07月17日 21時44分07秒
飲み会の季節になりました。半期進行の学期が終わったので、いくつかの単位で、打ち上げが計画されています。飲み会をやっておくと、固さが取れて、後期がスムーズに進むのです。そのためには、体調を整えておかなくてはなりません。
今日は聖路加病院の日。最近結構飲んでいたので数値の悪化を懸念していたのですが、なんと、すべてにわたって、良くなっているではないですか。先生も嬉しそうです。すっかり気をよくした私は、築地の「千秋」で二色丼のランチ。よく寄る店ですが、昨夜のテレビで、著名な声優のやっている店であることが判明しました。まぐろ専門で、おいしいですよ。市場の向かい、がんセンターの側の小路にある、カウンターだけの店です。http://www.3daime.jp/
国立に戻り、久しぶりに中国針の店へ。誠実そうな女性が、「すごいですねえ」(←硬い、の意)を連発しながら治療してくれました。外へ出ると、目がぱっちり開いて世界が総天然色。いい値段のワインを1本奮発して帰宅しました。
テキスト解釈 ― 2008年07月20日 16時23分25秒
研究では、さまざまな状況で、テキストの解釈を行うことになります。手紙とか、上申書とか、推薦文とか。やっかいなのは、文章の表面と、書き手の意図にしばしば食い違いがあることです。「おめでとう」という手紙が残っているとしても、書き手が本当に祝っているのか、単なる外交辞令なのか、それとも皮肉でさえあるのか、さまざまに考えられます。
なぜこう言うのかといいますと。私は前々回、「洞察力を讃える」というブログを書きました。巨人軍の補強の成功に関するものです。そうしたらある方から、「巨人ファンなのですね」という感想をいただき、考え込んでしまったのですね。そう思って読まれた方、どのくらいおられるのでしょうか。
ホームページの頃からご覧の方、また、このブログを最初から読んでおられる方は、私が筋金入りのアンチ巨人であることをご存じのはずです。巨人さえ負ければどこが勝ってもいい、という明瞭なポリシーで、日々どん欲に、野球とかかわっております。
その私が、息を吹き返した巨人軍の快進撃に直面し、その原点にかき集め補強があることに切歯扼腕の思いを抱きながら、言葉遣いに細心の注意を払いつつまとめたのが、「洞察力を讃える」という文章です。もちろん、善意ではありません。「せっかく原監督がおられるのに」というくだりなどは、その後起こったピンチでの上原起用のような采配を、どんどんやってほしい、という意味を込めて書いているのです。
まあ、あの文章は、二通りに読めると思います。私がアンチ巨人であることを知っていて読まれるのと、知らずに読まれるのとでは、受け取る意味も、読む面白さも、全然違ってしまうことでしょう。これって、ほとんど教材ですよね(笑)。
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