史実は大切2010年09月03日 23時48分50秒

職業柄、本当には知り得ないことをいかにも見てきたように書いてある本には不信感を抱きます。「これは推測だが」とでも断りがあれば、もちろんOK。後世の創作なのに同時代の証言を騙るなどというのは、まったく賛成できません。

念頭にあるのは、『アンナ・マクダレーナ・バッハの思い出』という本。学生の頃感激して読み、だまされました。「小説」とでも銘打ってくれていれば何でもないのですが、訳者からも、何の断りもありませんでした。じつに不誠実(当時)。今はもう、そんなことはないのでしょうが。

あらためてこのことを書くのは、マリーア・ヒューブナー編『アンナ・マグダレーナ・バッハ 資料が語る生涯』(春秋社)という本を手に入れて、喜んでいるからです。この本には、資料の上から本当はどこまでのことがわかるかが、最新の研究に基づいて、正確に、精密に書いてある。伊藤はに子さんの訳も第一級のものです。

当然、内容は地味です。脚色してあった方が面白い、という見方もあるかもしれません。しかし、わかることを基礎に書けることだけを書き、推測を推測として加え、あとは読者の想像力に委ねるH-J.シュルツェのエッセイは、まことにみごと。これが学問というものです。

【付記】『思い出』(1925)の作者はエスタ-・メイネルという英国女流作家だそうです(本著より)。