古楽の楽しみ今月 ― 2011年05月21日 21時34分41秒
「古楽の楽しみ」今月は来週(23~27日)が出番ですが、待望のモンテヴェルディ特集を出すことにしました。
4人で回している、案内役。私は基本的に独墺系の担当で、バッハという切り札をいただいています。しかし2年目に入り、少しお互いに越境を認めようということで、モンテヴェルディを取り上げることを認めてもらいました。そこでまず録音したのが来週分です。月曜日、火曜日が《ウリッセの帰還》、水曜日、木曜日が《ポッペアの戴冠》、金曜日がマドリガーレとカンツォネッタです。気づかれた方もいらっしゃるでしょうが、木曜日(26日)は、西国分寺における私の《ポッペア》プロダクションの上演日です(チラシをご覧ください)。ちょうど放送と上演が、重なることになりました。あちこちで《ポッペア》の話をしていますが、作品への感嘆と熱狂は、とどまるところを知りません。
放送には、ラ・ヴェネシアーナの新録音を使いました。ものすごくテンポの速い、勢いのある演奏で、多少粗っぽい部分や癖のある解釈もあるのですが、スピーカーから生命力が飛び出てきそうです。朝、元気をもらってください。ちなみに《ウリッセ》には、定評のあるヤーコプス盤を選びました。
26日の実演にもぜひお運びください。お待ち申し上げております。
4人で回している、案内役。私は基本的に独墺系の担当で、バッハという切り札をいただいています。しかし2年目に入り、少しお互いに越境を認めようということで、モンテヴェルディを取り上げることを認めてもらいました。そこでまず録音したのが来週分です。月曜日、火曜日が《ウリッセの帰還》、水曜日、木曜日が《ポッペアの戴冠》、金曜日がマドリガーレとカンツォネッタです。気づかれた方もいらっしゃるでしょうが、木曜日(26日)は、西国分寺における私の《ポッペア》プロダクションの上演日です(チラシをご覧ください)。ちょうど放送と上演が、重なることになりました。あちこちで《ポッペア》の話をしていますが、作品への感嘆と熱狂は、とどまるところを知りません。
放送には、ラ・ヴェネシアーナの新録音を使いました。ものすごくテンポの速い、勢いのある演奏で、多少粗っぽい部分や癖のある解釈もあるのですが、スピーカーから生命力が飛び出てきそうです。朝、元気をもらってください。ちなみに《ウリッセ》には、定評のあるヤーコプス盤を選びました。
26日の実演にもぜひお運びください。お待ち申し上げております。
リハーサル再開 ― 2011年05月22日 11時42分12秒
連休以来中断されていた《ポッペアの戴冠》リハーサルが再開されました。そこで今日は一日を、桜木町の渡邊邸で過ごしました。
今回はとにかく、器楽が強力。ヴァイオリンの伊左治道生さん、リュートの金子浩さんの加入が大きく、表現の幅もバラエティも、格段に充実しています。声楽の若い人たちも歌いこんできていますので、渡邊順生さんも上機嫌のうちに、リハーサルが進みました。あと3日練習し、本番を迎えます。
今回はとにかく、器楽が強力。ヴァイオリンの伊左治道生さん、リュートの金子浩さんの加入が大きく、表現の幅もバラエティも、格段に充実しています。声楽の若い人たちも歌いこんできていますので、渡邊順生さんも上機嫌のうちに、リハーサルが進みました。あと3日練習し、本番を迎えます。
今月のCD/DVD ― 2011年05月23日 23時58分05秒
新聞の連載、紙面の都合で4月は休みになり、5月にまとめて処理しました。今月の1位にしたのは、「カール・ライスター・プレイズ・西村朗」です(カメラータ)。肉体を離れた魂(五重奏)、睡蓮(ソロ)、天界の鳥
(協奏曲)といった西村さんならではの作品が集められていますが、ライスターの奏でるクラリネットの、玄妙な響きに魅了されます。東洋の世界観を基礎とした日本人の作品をドイツの奏者が見事に演奏していることに、音楽が国境を超えることの新しい証明を見る思いがします。
2位には、ブラームス ピアノ協奏曲第2番/ドヴォルザーク 交響曲第7番のDVD(ドリームライフ)を選びました。クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の1978年のコンサートに、当時36歳のバレンボイムが出演しています。両者ががっちり噛み合ったブラームスもいいですが、地味な第7交響曲の、愛を込めた演奏の美しさは格別です。
3位には、カントロフと上田晴子さんによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番~第8番を入れました(ALM)。お二人のていねいなコラボレーションで爽やかな流れが作り出されていて、心地良さにひたることができます。こういう交流のある二重奏が好きです。
(協奏曲)といった西村さんならではの作品が集められていますが、ライスターの奏でるクラリネットの、玄妙な響きに魅了されます。東洋の世界観を基礎とした日本人の作品をドイツの奏者が見事に演奏していることに、音楽が国境を超えることの新しい証明を見る思いがします。
2位には、ブラームス ピアノ協奏曲第2番/ドヴォルザーク 交響曲第7番のDVD(ドリームライフ)を選びました。クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の1978年のコンサートに、当時36歳のバレンボイムが出演しています。両者ががっちり噛み合ったブラームスもいいですが、地味な第7交響曲の、愛を込めた演奏の美しさは格別です。
3位には、カントロフと上田晴子さんによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番~第8番を入れました(ALM)。お二人のていねいなコラボレーションで爽やかな流れが作り出されていて、心地良さにひたることができます。こういう交流のある二重奏が好きです。
公演迫る ― 2011年05月26日 09時55分24秒
月日の経つのは着実で、ずっと先だと思っていた《ポッペアの戴冠》の東京公演が、今夕になりました。これから、字幕の調整をするところです。
日曜日から横浜の渡邊邸で練習が再開され、月・火曜日は大森の「山王オーディアム」で継続。私も火曜日に行きましたが、大森は今を去る65年前に私が生まれたところで、なつかしい思いをしました(4歳まで居住)。大森駅で下車したのは、本当に久しぶり。山王オーディアムに進む分岐点のところに、極めつけのお蕎麦屋さんを発見したのがよき副産物でした。
昨日の水曜日は、上演地の西国分寺・いずみホールでゲネプロ。リュート金子、ガンバ平尾の両先生が徹底した細部の調整を続けられ、この姿勢こそ一流の証だなあと思うことしきりでした。だいたい合わせておいて、あとは本番、ということではないのです。貧乏公演ですがその割に立派なのは、衣装です(きっぱり)。平尾さんが集めてくださったものを中心に、みんななかなか豪華な衣装を来て出演しますので、ご注目ください。コンセプトは、「プロローグはモンテヴェルディ時代、開幕したらローマ風」(平尾さん)です。
名曲と取り組むということは、練習のプロセスに大きな喜びを得ることだとわかりました。内部的には大きく盛り上がっていますが、終わったら、いっぺんに気が抜けてしまいそうです。では夕方、ご来場の皆様にお目にかかります。
日曜日から横浜の渡邊邸で練習が再開され、月・火曜日は大森の「山王オーディアム」で継続。私も火曜日に行きましたが、大森は今を去る65年前に私が生まれたところで、なつかしい思いをしました(4歳まで居住)。大森駅で下車したのは、本当に久しぶり。山王オーディアムに進む分岐点のところに、極めつけのお蕎麦屋さんを発見したのがよき副産物でした。
昨日の水曜日は、上演地の西国分寺・いずみホールでゲネプロ。リュート金子、ガンバ平尾の両先生が徹底した細部の調整を続けられ、この姿勢こそ一流の証だなあと思うことしきりでした。だいたい合わせておいて、あとは本番、ということではないのです。貧乏公演ですがその割に立派なのは、衣装です(きっぱり)。平尾さんが集めてくださったものを中心に、みんななかなか豪華な衣装を来て出演しますので、ご注目ください。コンセプトは、「プロローグはモンテヴェルディ時代、開幕したらローマ風」(平尾さん)です。
名曲と取り組むということは、練習のプロセスに大きな喜びを得ることだとわかりました。内部的には大きく盛り上がっていますが、終わったら、いっぺんに気が抜けてしまいそうです。では夕方、ご来場の皆様にお目にかかります。
まだピンと来ませんが ― 2011年05月27日 22時55分47秒
《ポッペアの戴冠》の公演、無事終了しました。主催してくださった「楽しいクラシックの会」の方々、ご出演とお手伝いの皆様、そしてご来場いただいたお客様たち、本当にありがとうございました。
大好きなこの作品の、私自身のプロダクションを東京で公演できる日がくるとは、まったく思っていませんでした。人生の夢がひとつ果たされ、過ぎてゆきました。来てくださる方などそうそうあるものではないと思っていましたが、信じがたいことに、超満員の盛況。あの方も、この方も来てくださっている、という感謝の中で、出演者がそれぞれ、自分のベストを更新してくれたと思います。
何かを成し遂げた人が、インタビューで「まだピンと来ません」と言いますね。どういうことかそれこそピンと来ていませんでしたが、昨日の夜、その感じがよくわかりました。嬉しかったのは、打ち上げの挨拶で渡邊順生さんが「礒山さんの存在はたいへん大きかった」とおっしゃってくださったことです。音を出さない私が演奏家とこのような信頼関係を築くまでには、いろいろな失敗もしてきました。そんなことも思い出される、打ち上げの席でした。
たのもーさん、速攻の詳しいご感想、ありがとうございます(→コメント)。よろしければ、皆様もご感想お待ちしています。
〔付記〕前記事「公演迫る」の方にもご感想をいただいています。併せてご覧ください。
大好きなこの作品の、私自身のプロダクションを東京で公演できる日がくるとは、まったく思っていませんでした。人生の夢がひとつ果たされ、過ぎてゆきました。来てくださる方などそうそうあるものではないと思っていましたが、信じがたいことに、超満員の盛況。あの方も、この方も来てくださっている、という感謝の中で、出演者がそれぞれ、自分のベストを更新してくれたと思います。
何かを成し遂げた人が、インタビューで「まだピンと来ません」と言いますね。どういうことかそれこそピンと来ていませんでしたが、昨日の夜、その感じがよくわかりました。嬉しかったのは、打ち上げの挨拶で渡邊順生さんが「礒山さんの存在はたいへん大きかった」とおっしゃってくださったことです。音を出さない私が演奏家とこのような信頼関係を築くまでには、いろいろな失敗もしてきました。そんなことも思い出される、打ち上げの席でした。
たのもーさん、速攻の詳しいご感想、ありがとうございます(→コメント)。よろしければ、皆様もご感想お待ちしています。
〔付記〕前記事「公演迫る」の方にもご感想をいただいています。併せてご覧ください。
呆然自失 ― 2011年05月30日 11時26分33秒
無理して付き合った打ち上げの二次会がいけなかったのか、達成のあとはすべからくこうしたものなのか。何をする気も起きぬまま、週末を過ごしました。
いいことばかりは続きませんから、何か、悪いことがあってほしい。今のところ、それかなと思えるのは、テレビがまったく映らなくなってしまったことです。これは、不便。テレビが生活のリズムを作っているので、つんのめってしまいますが、まあ、テレビに頼る生活を反省するのもいいかな、と思っています。
《ロ短調ミサ曲》へ向けて、気持ちを切り直します。
いいことばかりは続きませんから、何か、悪いことがあってほしい。今のところ、それかなと思えるのは、テレビがまったく映らなくなってしまったことです。これは、不便。テレビが生活のリズムを作っているので、つんのめってしまいますが、まあ、テレビに頼る生活を反省するのもいいかな、と思っています。
《ロ短調ミサ曲》へ向けて、気持ちを切り直します。
字幕苦労話 ― 2011年05月31日 15時57分23秒
《ポッペアの戴冠》の字幕について、はらさんがコメントで提起してくださった点には、興味深い問題が含まれています。そのことをちょっとお話ししましょう。
オッターヴィアの登場でまず発せられる、"disprezzata regina"という言葉。これを私は「侮蔑された王妃」と訳したのですが、なぜ「皇妃」としないのか、というのがいただいたご質問でした。もちろんオッターヴィアは自分の境遇を語っているわけですから、全部「皇妃」と訳してしまったほうがわかりやすい、という考え方は、つねにあり得ます。ちなみに「(ローマ)皇妃」をずばりと示す言葉は、imperatriceです。
imperatrice、すなわちローマ皇妃は世界に1人ですが、regina、すなわち王妃はたくさんいます。彼女たちは、尊敬される存在です。その中で、この私は不当にも侮蔑されている、と彼女は主張するわけなので、ここは「王妃」でなくてはならない。「皇妃」では、始めから自分1人の話になってしまいますから。次の行で「ローマの君主の悩める妻よ」という表現が加わることにより、そうした王妃がオッターヴィアその人であることが定着されます。
その後もオッターヴィアは呪詛にも近い苦悩の独白を続けますが、「皇妃」という言葉は、自分からは一度も使いません。自分がすでに皇妃と呼べない扱いをされているという認識がひそんでいるのでしょうか。だからこそ、独白の終わりに呼びかける乳母の「オッターヴィア様、世の人々にとってただ1人の皇妃様unica imperatrice」という呼びかけが、温かな救いとして響くのだと思います。
ブゼネッロの台本はことほど左様に絢爛たる修辞を駆使していて、随所で、意味のある言葉の使い分けをしています。字幕のように情報量が少ない場合にもそのニュアンスを盛り込めたらと私は願うわけですが、それがかえって煩雑な混乱を招く場合があることは否定できません。大意さえあっさり示せばその方が実用的、ということも確かでしょう。そのバランスをどう取るかの判断が、つねに重要になってくるわけです。
オッターヴィアの登場でまず発せられる、"disprezzata regina"という言葉。これを私は「侮蔑された王妃」と訳したのですが、なぜ「皇妃」としないのか、というのがいただいたご質問でした。もちろんオッターヴィアは自分の境遇を語っているわけですから、全部「皇妃」と訳してしまったほうがわかりやすい、という考え方は、つねにあり得ます。ちなみに「(ローマ)皇妃」をずばりと示す言葉は、imperatriceです。
imperatrice、すなわちローマ皇妃は世界に1人ですが、regina、すなわち王妃はたくさんいます。彼女たちは、尊敬される存在です。その中で、この私は不当にも侮蔑されている、と彼女は主張するわけなので、ここは「王妃」でなくてはならない。「皇妃」では、始めから自分1人の話になってしまいますから。次の行で「ローマの君主の悩める妻よ」という表現が加わることにより、そうした王妃がオッターヴィアその人であることが定着されます。
その後もオッターヴィアは呪詛にも近い苦悩の独白を続けますが、「皇妃」という言葉は、自分からは一度も使いません。自分がすでに皇妃と呼べない扱いをされているという認識がひそんでいるのでしょうか。だからこそ、独白の終わりに呼びかける乳母の「オッターヴィア様、世の人々にとってただ1人の皇妃様unica imperatrice」という呼びかけが、温かな救いとして響くのだと思います。
ブゼネッロの台本はことほど左様に絢爛たる修辞を駆使していて、随所で、意味のある言葉の使い分けをしています。字幕のように情報量が少ない場合にもそのニュアンスを盛り込めたらと私は願うわけですが、それがかえって煩雑な混乱を招く場合があることは否定できません。大意さえあっさり示せばその方が実用的、ということも確かでしょう。そのバランスをどう取るかの判断が、つねに重要になってくるわけです。
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