ドイツ旅行記(5)--教会のコンサート良し悪し2012年06月21日 23時21分23秒

10日(日)、ブルックナーと昼食で満腹した私は、またまた汽車に乗り、ライプツィヒへ。17:00から聖トーマス教会で、マーカス・クリード指揮、ヴォーカル・コンソート・ベルリンによる、モテットの演奏会があるのです。古楽様式による透明な、小編成の合唱です。

プログラムの構成が、卓抜でした。「バロックの埋葬音楽」と題され、聖書から「われらの人生は70年」「死者は幸いである」「涙をもって刈り取る者は」といったテキストが選ばれて進んでいきます。作曲家は、シャイン、シュッツ、ヨハン・ミヒャエル・バッハ、シェレ、そしてバッハ。コンサートが佳境に入ると、「来たれ、イエスよ、来たれ」の歌詞によるシェレとバッハのモテットの、また「イエスよ、わが喜び」の歌詞によるミヒャエル・バッハとバッハのモテットの比較が行われました。このあたりを好きな人間にとっては、たまらないプログラムです。

演奏がまた、じつに良かった。静かで地味な、なんの見栄も張らない淡々とした演奏ですが、曲に込められた思いが、じわじわと伝わってくるのです。そのことは聴衆にしっかり伝わり、バッハのモテットが終わった後には、(もちろんたっぷりした余韻を置いてですが)深いところから湧き上がるような、長い拍手がありました。今回もっとも感動したのが、このコンサートでした。

終了後、献身的にサポートしてくださったバッハ・アルヒーフの高野さん、同僚研究者の富田さん、現地に留学中の越懸澤さんと食事。その後20:00から始まる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートに向かいました。こちらは裁判所の一室を借りて行われるのです。

演奏者はイアリアのチェンバリスト、ルーカ・グリエルミ。大局観に欠け、乱れもある演奏で、あまり感心できませんでした。華やかな演奏効果と数学的な構成の結合がこの作品の本質なので、前者に傾くと、いい結果はまず得られないように思います。

さて、教会でコンサートを聴くことの長所短所について考えたことを書かせてください。バッハの活動していたあの教会で、という付加価値は除いて考えます。

由緒ある教会で聴いて絶対にいいのは、オルガンです。石の壁に幾重にも反射して届くオルガンの響きはとてもやわらかく、コンサートホールで聴くナマなパイプの響きとは大きく異なります。しかし合唱、合奏となりますと、短所も無視できないように思われます。

BCJの《マタイ受難曲》は、バッハの時代そのままに、2階の合唱席で演奏されました。これですと、1階中央の聴き手は祭壇を向いていますから、演奏者を見ることができずに、背後から聴くことになります。これはこれで、宗教音楽を聴くためにはいい形であると思います。私は2階席で聴きましたが、演奏者の全部ないし一部を距離をおかずに見ることができる反面、印象がリアルになり、教会の「ありがたみ」は後退するように思います。

前述したモテットのコンサートは、1階の祭壇側に演奏者が立って行われました。コープマンのカンタータも同様です。これも悪くはないのですが、構造上演奏者を見にくく(前にいるのでつい見たくなります)、音も散りがちて、かならずしも十分な量感で届いてきません。コンサートホールがいかに演奏を「見ながら聴く」ことに便利にできているかが、逆に実感されます。プログラムを見る配慮もおそらくあって、教会は、いつになく明るく照明されています。そうなると、教会特有の神秘感もまた、減退するわけです。というわけで、「教会音楽は教会で聴かなければ」とは、必ずしも言えないように思いました。1日3コンサートの強行軍。ドレスデン帰還はこの日も最終列車になりました。