ピカンダーの構想2013年04月12日 23時59分41秒

加美町バッハホールが入手したピカンダーの詩集から《マタイ受難曲》の台本部分を眺めていて、いくつかのことに気づきました。

この詩集、出版は1729年で、《マタイ》初演の2年後です。《マタイ》が29年に再演された後、5月のライプツィヒ復活祭見本市に、詩集は出品されました。しかし《マタイ》の台本は、バッハが手にしたであろう手稿から、書き換えられていないとみてよさそうです。バッハの行った変更が、そこに反映されていないからです。

台本に含められているのは、ピカンダーによる自由詩のみです。聖書のテキストはすべて省略され、自由詩をどこで挿入するかの指示のみがあります。コラールでは、自由詩に組み込まれた2曲(冒頭合唱曲と第1部のテノール・レチタティーヴォ)のみが記されています。

さて、台本には、「シオンの娘と信じる者たち」という、役割の注釈があります。これは、バッハの自筆楽譜にはないものです。台本を会話ないし対話の様式で進めるのは、ピカンダーの常套手段とも言えるやり方です。

気がついたのは、「シオンの娘Die Tochter Zion」がつねに単数で扱われ、その主語が「私」であるのに対して、「信じる者たちDie Gläubigen」はつねに複数で扱われ、二人称複数で呼びかけられて、「われわれ」を主語とすることです。両者はつねに、一対多の関係になっている。ということは、台本に従うなら、《マタイ》はソロと合唱で演奏できる。「2つの合唱グループ」という構想は、そこには見られません。

冒頭合唱曲は「アリア」と呼ばれ、その中に、「シオン」と「信じる者たち」の対話があります。最終合唱曲は「アリア・トゥッティ」、かつChorと呼ばれていますが、それは「信じる者たち」がソロに和するからです(ちなみにこのChorは、重唱編成であることを否定するわけではありません)。

ということは、第1合唱、第2合唱の設定、アリアの両者への割り振りは、バッハの構想による、ということです。コラールをどこにどう挿入するかも、バッハの裁量です。バッハは第1幕の最後にコラールを置き、第2稿ではそれを大曲に差し替えましたが、ピカンダーの台本はその前の合唱曲(雷鳴と稲妻は)を第1部の結びとしており、「初め、中、終わりに対話楽曲を置く」という原則が明確です。こうした台本本来の構想は、二重合唱編成の発展とコラールの挿入によって、かえって見えにくくなったようにも思われます。

バッハホールのお宝、見ていると時間の経つのを忘れます。