圧巻のBach Digital2013年04月01日 22時41分57秒

情報がタダになるのは弊害も大きいと事あるごとに言っている私ですが、やはり、探す、注文する、買う、足を運ぶ、といった面倒なしに、いながらに情報を手にできる便利感は絶大。わがGoogle Chromeのブックマーク・バーには、Choral Wiki、IMSLP/Petrucci Music Library、Bach Digitalの3つのブックマークがあり、常時クリックされています。第1のサイトから声楽曲の楽譜や歌詞、第2のサイトから種々の楽譜、第3のサイトからバッハのオリジナル資料を参照するのです。

中でも、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒとベルリン国立図書館、ライプツィヒ大学、ザクセン州立図書館が共同して行っている「バッハ・デジタルBach Digital」プロジェクトのすばらしさには、目を見張るばかり。バッハ作品の自筆譜や筆写譜が、カラーの鮮明かつ美麗な画像で閲覧できるのです。たとえば《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ロ短調ミサ曲》といった主要作品の自筆総譜はもちろん、パート譜までもが、すべて公開されています。今年に入ってから、急速度で公開が進んだという印象です。

ベルリン国立図書館の所有するバッハのオリジナル資料は、従来マイクロフィルムで市販されていました。私が大学の図書館長をしているときにそれを買うか買わないかという話になり、100万円を超える価格では手が出ないと、泣く泣くあきらめた記憶があります。

以来、必要があると芸大の図書館に見に行っていましたが、白黒のマイクロフィルムは不鮮明で、目を皿のようにしても、細部は判別できません。それがカラーの大画像を自宅で見られるようになるとは、なんというありがたい変化でしょう。高価なファクシミリだって、買わなくてもよくなります。バッハのオリジナル資料の保存には大金が投じられているので、そのあたりの収支が心配にはなるのですが・・・。

Bach Digitalで検索し、サーチ画面を出せば、あとはBWV番号を入れるだけです。お試しください。2つ閲覧ソフトがあり、下の方を使うとダウンロードも可能です。

尽きない発見2013年04月03日 11時25分26秒

私がゲスト音楽監督を務めている合唱団CANTUS ANIMAEの《ロ短調ミサ曲》、準備が進んできました。バッハの実践にならってコンチェルティスト方式を採ることにし、コンチェルティストには、いっしょに勉強してくれる人ということで、くにたちiBACHコレギウムのメンバーを選んでいただきました。コンサートミストレスの大西律子さんのもと、ピリオド楽器のメンバーもあらかた揃い、合唱団は早くも盛り上がっています(公演は来年3月29日)。

3月末日の日曜日は、〈グローリア〉に関して私が講演し、そのあとテスト演奏、解釈に関するディスカッションを行いました。野球で言えばGMと監督(指揮者の雨森文也さん)が綿密に意見交換するようなもので、なんともありがたい信頼関係です。

このために、私は、かなり時間をかけて準備しました。プレゼンテーションに凝ったからばかりではありません。ヴォルフ先生の訳書(おかげさまで増刷になりました)を作るさい、またiBACH公演に向けて、相当勉強したつもりでしたが、今になって気づくことが次々と出てくるのです。

それは主として、「この曲はなぜこうなっているのか」を説明しようとするときに、見えてきます。実践家を対象にお話しするさいには、演奏の指針を示す必要がありますから、音楽学的な知識の切り売りで済ませるわけにはいきません。だからこそ、自分にとってたいへん勉強になることだと感じています。

ひとつ実例を挙げたいと思いますが、長くなりますので、明日更新します。

実例:〈グローリア〉冒頭曲2013年04月04日 23時42分37秒

〈グローリア〉の最初の曲を例にとってみましょう。第4曲〈グローリア〉、第5曲〈エト・イン・テッラー・パークス〉は、通して演奏され、実際には一体をなしています。《ロ短調ミサ曲》前半部における名曲のひとつです。

〈グローリア〉は、ニ長調、3/8拍子で展開される神の栄光の讃美。トランペットが輝かしく鳴り渡ります。しかしト長調、4/4拍子の部分に入ると音楽は突然静まり、「ため息」のモチーフとともに、地上にうごめく人の姿が見えてくる。そこからやがてフーガが起こり、盛り上がるうちにトランペット群が回帰して、曲はクライマックスを迎えます。

以上は、よくある解説。資料や分析に関する情報はまだたくさん盛り込めますが、その記述はいずれにしろ、客観的な観察の成果になります。研究の役割はそこまで、という考えもありうるでしょう。

しかし私は、曲がなぜそうなっているのか、作曲者はどんなメッセージをそこに託したのかを考察するのも研究の範囲で、それには曲の内側に入っていかなくてはならない、という考え方です。すなわち、分析の先にある解釈の段階に、研究者は踏み込みべきだと思うのです。解釈に必要な客観的な知識を、研究者はアドバンテージとしてもっているはずだからです。

〈グローリア〉冒頭曲でまず押さえるべきことは、そのテキストが先行する3曲のような典礼文としての祈りではなく、聖書の引用であることです。出典は、ルカ福音書第2章のクリスマスの場面。野宿している羊飼いに天使があらわれ、救い主の降誕を告げる。すると天の大軍がこれに加わって、神を讃美した。その言葉が典礼テキストとなり、ここで合唱されます。それは、「いと高きところには栄光神にあれ、そして地には平和、善き志の人々にあれ」(ラテン語からの試訳)というものです。

バッハは前半と後半を時間差で対比的に作曲していますが、メッセージ自体は、1つのものです。絵を見てみましょう。「天使の顕現」を描いた絵として、フリンク(オランダ)の《キリストの誕生を羊飼いに告げる天使たち》(1639年、ルーヴル)という作品を、ネットで検索できます。地上界への聖の顕現が、光と影の効果によって、1枚の絵の中に描き込まれた絵です。

天と地をひとつの空間の中にとらえるのはバロック絵画お得意のモチーフで、エル・グレコの《オルガス伯の埋葬》(プレ・バロックですが)では、下半分に現世で逝去した伯と遺骸を囲む人々が、上半分に来世でキリストと聖母にまみえる伯の姿が、上昇する運動感をもって描き出されています。こうした異次元の共存する空間という時代好みの発想を頭に入れて、バッハの音楽を見ることにします。(続く。長くなって恐縮です。)

「善き志」の発見、秩序の建設2013年04月05日 23時56分36秒

〈グローリア〉部分は、すでにして統一されています。それは、中世の絵画にあるような、天使がラッパを吹き鳴らす光景です。3/8拍子は〈グローリア〉で唯一のもの。軽やかに演奏しないと、天使が地上に落下してしまいます。

バッハの時代の3拍子は3/8、3/4、3/2の3種があり、それが同時に、テンポを指示していました。速く軽快なテンポを、3/8は要求します。これを1拍子に取って、弱拍を抜くのが、古楽の感覚。弱拍を等価に、克明に演奏すると(それがモダンの感覚なのですが)、音楽の推進力が失われてしまうのです。

さて、100小節が過ぎたところで、〈エト・イン・テッラー〉の部分に入ります。バスにある唐突な下降音型は、地上の情景への、強引な切り替え。神の3拍子は人(地)の4拍子になり、音域は低く、楽器は休止して、すべてが別世界に入りこみます。

ため息モチーフの突然の氾濫は、あたかも地上の人々が救いを求めてあえぐかのよう。音楽はしばらく、方向性を失います。歌詞も「そして地上では平和あれ、人々にEt in terra pax hominibus」で行き止まりになる。罪深い人間たちに、そのまま平和が恵まれるはずはないのです。

12小節目に至って、先を模索していた諸声部は、ようやく停滞を打開し、「善き志のbonae voluntatis」という言葉にたどりつきます。不安定だった音楽は、ここでホ短調のカデンツを構成し、安堵する。平和の前提として人々のもつべき「善き志」が、ここで発見されるわけです。

すると7小節の間奏をはさんで、フーガ(フガート)が起こってきます。フーガ主題は、「善き志の」を含めた、すべてのテキストを歌い込んだものです。これは、善き志の人々が、地上に「秩序」を建設しはじめたことを示すものではないか。秩序の建設は進み、フーガは盛り上がってきます。するとこの段階で、トランペット群が加わってくる。ここで地上と天は奏楽において一体化し、異次元を包み込む、壮大な絵が完成するわけです。

生家探訪2013年04月08日 22時06分55秒

7日(日)、東京春祭の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。キャストの人選が完璧と言いたいほどみごとでしたが、私がつくづく感心したのは、ベックメッサーに扮したアドリアン・エレート。2幕のセレナードでこれほど感動したのは初めてです。詳しくは、新聞批評に書きます。

帰宅したら疲れていて何もできず、今朝は早起きをして、授業準備。聖心女子大の初授業でした。今年は音楽室を使わせてもらえることになり、収容力の関係で、学生は抽選。阿弥陀ではなかったですが、こういうときは、神様にまかせるに限ります。学生の把握も行き届き、本当にやりやすくなりました。今日はモーツァルトの誕生、天才神話の形成について講義しました。

午後2時から目黒区の大岡山で予定があり(あらためてご案内します)、1時間、空白が生まれました。大岡山は私鉄がクロスするところですが、大井町線に乗ると3つ目に、荏原町という駅があります。そこに行ってみようと思い立ちました。なぜなら私は、そこで生まれたからです。もう50年は行っていないので、その場所が見つかるかどうかわかりませんが、身体に染みついているかもしれない記憶に、賭けることにしました。あ、私は4歳までそこに住んでいたのです。少年時代に、あと数回訪れたと思います。

荏原町は、鈍行だけが停まる小さな駅。右(南東)の方向に行くという感覚はあったので、商店街をずっと進んでいきました。半信半疑のままかなり歩いたところで、環七との立体交差に遭遇。そこを降りる古びた石段に記憶がありました。、降りて右へ。

幼時の記憶では、家のそばで国道が下りになり、そこから登りに転じて、遙か彼方に続いていた。気がついてみると、少し進んだところが、まさに下りになっているのです。しかし下りも登りも短い間で、遙か彼方どころではない。すると右に妙に急な石段があり、引き入れられるように登ってみました。昔は石垣の間の道で、蛇が出たりしたものですが、今は整備されて、穏やかな住宅街になっています。

ここが正しければ、生家は左側にあるはず。少し進んだところで、母の旧姓と同じ家を発見。当然立て直されていますが、おそらく私の生家だと思います。門を叩くことはせず、大岡山に戻りました。父が転勤となり、一家で、長野県の上山田(現・千曲市)に移住したのです。以上、日記代わりに。

今月の「古楽の楽しみ」2013年04月09日 23時14分24秒

「古楽の楽しみ」、今月は22日(月)からの出演になります。チェンバロ協奏曲、平均律で行ったバッハのリレー演奏がとても好評だったものですから、ご要望の多かった無伴奏ヴァイオリン曲特集を、ついに実現しました。

とはいえ、同じように聴き比べ、というわけにはいきません。なぜなら、無伴奏ヴァイオリンは曲が長く、2曲丸ごと出せば、時間がいっぱいになってしまうからです。かといって、曲の途中で演奏者を変えるわけにはいきませんよね。

そこで、6曲を全部違う奏者とし、時間の余るときに、若干の比較を行うことにしました。6曲はソナタ3曲、パルティータ3曲ですが、ソナタをモダン・ヴァイオリン、パルティータをバロック・ヴァイオリンに振り分けました。舞曲の連なるパルティータの方が、古楽の様式にふさわしいと思われたからです。たくさんの録音がありますが、基本的に、新しい演奏を中心に選びました。

22日(月)。ソナタとパルティータの各第1番。じつはこのプログラムで一度放送したことがありますが、演奏者を変えて、繰り返しました。奏者はソナタがイザベル・ファウスト、パルティータがアマンディーヌ・ベイエールです。空いた時間で、ソナタ第1番のフーガを、ヨーゼフ・シゲティと聴き比べました。ファウストとは、絵に描いたような両極端になりました。

23日(火)。ソナタとパルティータの、各第2番です。ソナタに選んだのは、メニューイン19歳の、1936年のSP録音。じつはこの演奏しか時間枠に収まるものがなかったからなのですが、演奏はなかなかよく、20年後のシゲティと比べても、ずっと新しく感じられます。

この企画を立てるときから、〈シャコンヌ〉を含む第2パルティータはシギスヴァルト・クイケンの1999/2000の演奏で、と決めていました。画期的な名演奏と認識していたからです。放送室で聴き直すと、〈シャコンヌ〉は鳥肌の立つすごさで感動してしまい、コメントが、思わず涙声に。言い間違いはもちろん、言いよどみも許されない放送ですので、録り直すつもりで準備していました。

放送が終わるとアシスタントがやってきて、「声が揺れていたのは感極まったからですか」と尋ねます。「そうです」と答えたら、「じゃ、このままいきます」ですって。みっともない放送、ご容赦ください。

24日(水)は第3番-第3番で、ソナタは、ヒラリー・ハーン。17歳の、恐るべき演奏です。パルティータは、レイチェル・ポッジャー。少し時間が余ったので、冒頭のプレリュードを、ギドン・クレーメルと比較しました。それじゃクレーメルの圧勝だよ、と思われるでしょう?そうでもないですよ。比べてみてください。

25日(木)は、編曲特集。リュート編曲を2曲、オルガン編曲を1曲のあと、野平一郎さんの4つのヴィオラへの編曲(今井信子さん他演奏)を聴いて、スウィングル・シンガーズ初期の〈ガヴォット〉で締めました。作品のすばらしさを痛感した1週間。次は、無伴奏チェロですね。

ピカンダーの構想2013年04月12日 23時59分41秒

加美町バッハホールが入手したピカンダーの詩集から《マタイ受難曲》の台本部分を眺めていて、いくつかのことに気づきました。

この詩集、出版は1729年で、《マタイ》初演の2年後です。《マタイ》が29年に再演された後、5月のライプツィヒ復活祭見本市に、詩集は出品されました。しかし《マタイ》の台本は、バッハが手にしたであろう手稿から、書き換えられていないとみてよさそうです。バッハの行った変更が、そこに反映されていないからです。

台本に含められているのは、ピカンダーによる自由詩のみです。聖書のテキストはすべて省略され、自由詩をどこで挿入するかの指示のみがあります。コラールでは、自由詩に組み込まれた2曲(冒頭合唱曲と第1部のテノール・レチタティーヴォ)のみが記されています。

さて、台本には、「シオンの娘と信じる者たち」という、役割の注釈があります。これは、バッハの自筆楽譜にはないものです。台本を会話ないし対話の様式で進めるのは、ピカンダーの常套手段とも言えるやり方です。

気がついたのは、「シオンの娘Die Tochter Zion」がつねに単数で扱われ、その主語が「私」であるのに対して、「信じる者たちDie Gläubigen」はつねに複数で扱われ、二人称複数で呼びかけられて、「われわれ」を主語とすることです。両者はつねに、一対多の関係になっている。ということは、台本に従うなら、《マタイ》はソロと合唱で演奏できる。「2つの合唱グループ」という構想は、そこには見られません。

冒頭合唱曲は「アリア」と呼ばれ、その中に、「シオン」と「信じる者たち」の対話があります。最終合唱曲は「アリア・トゥッティ」、かつChorと呼ばれていますが、それは「信じる者たち」がソロに和するからです(ちなみにこのChorは、重唱編成であることを否定するわけではありません)。

ということは、第1合唱、第2合唱の設定、アリアの両者への割り振りは、バッハの構想による、ということです。コラールをどこにどう挿入するかも、バッハの裁量です。バッハは第1幕の最後にコラールを置き、第2稿ではそれを大曲に差し替えましたが、ピカンダーの台本はその前の合唱曲(雷鳴と稲妻は)を第1部の結びとしており、「初め、中、終わりに対話楽曲を置く」という原則が明確です。こうした台本本来の構想は、二重合唱編成の発展とコラールの挿入によって、かえって見えにくくなったようにも思われます。

バッハホールのお宝、見ていると時間の経つのを忘れます。

明暗2013年04月13日 23時55分11秒

古典をなるべく読もうと決心した流れで、夏目漱石の『明暗』を読んでみました。漱石は明治の人、という印象ですが、世代的にはマーラーよりちょっと後ぐらいになるのですね。文豪の誉れ高い漱石。でも私は、若い頃からなんとなく苦手に思っていました。久々の挑戦で自分がどう思うか、興味がありました。

最初は、別世界に触れるようで、とても苦痛。新聞小説のため区切りが短く、それを救いとして読み進めました。慣れるにつれて面白くなり、非凡さを実感。文章は用語法に古さを感じますが、会話はいまとそう変わりませんね。面白さは何より、心理描写、心理分析の徹底にあります。しかし妙に入り組んでインテリじみていて、さして共感は覚えません。このへんは、もちろん好みの問題です。

最後の小説で未完といえば、最前、カフカの『城』を読んだばかり。未完の作品が読まれ続けるというのも、興味深い現象です。音楽には補筆完成という手がありますが、小説ではそれができませんものね。読了後不完全燃焼のまま漱石の生涯をたどってみたら、胃潰瘍で何度も倒れる人生であったことを知りました。ここに至り、ようやく親近感が湧いてきました。もっとも私は十二指腸潰瘍で、現代医学の恩恵を受けられたわけですが。

〔付記〕水村美苗さんという方が続編を書き、賞も取っておられるのですね。知りませんでした。

オーロラ2013年04月14日 23時52分51秒

NHKのBSで、大沢たかおさんがホストになっている「神秘の北極圏」という番組を見ました。オーロラ爆発という現象を訪ねての探索ですが、映像のすばらしさに感嘆しました。

超弩級の天体ショーである、オーロラ。一度は見たいと思いますが、本当に見るためには、大沢さんがなさったように、極北の厳しい風土に身をさらさなくてはいけないですよね。時代が時代ですから、大名旅行のツァーなどもあるのでしょうが、それではオーロラの体験に、ならないような気がする。さいはての地で生活する、あるいは冒険で訪れるわずかの人が計り知れぬ苦労の代償として恵まれるのが、オーロラであるように思います。

となると、自分はもう、見ないで終わるに違いありません。昔の天文少年の血が騒ぐことも確か、Auroraという言葉に寄せるバロック音楽のロマンを、思い起こすことも確かなのですが・・・。

画面には、ものすごい星空が映っていました。こうした星空にも、今後接する機会があるかどうか。文明というのは、ある意味で、視野の自己限定であると思います。明かりをつけてあえて星を見えなくし、「人命は地球より重い」などと言っているわけですから。

おすすめ!安息の地2013年04月15日 23時22分28秒

墓地の話ではありません。指圧の話です。

私が通っていたお店の先生が、新橋から大岡山に移られました。ご夫婦で開いた、新しいお店です。とても気持ちの良いところなので、ぜひお薦めします。大岡山は、渋谷、恵比寿、目黒、五反田、大井町、武蔵小杉のどこから行っても便利なところ。正面口(東京工大側)を出て通りの向こうを見ると、「指圧!」の看板が目に入ります。「あんのん指圧鍼灸」が、お店の名前です(℡03-6425-6787)。


硬直した肉体の持ち主である私は、マッサージ歴がそれなりに長いですが、河本先生(奥様)に出会ってから、絶対この方だ、と思うようになりました。技術が優秀で、私の身体を知悉しておられることももちろんですが、つねに最善を尽くす思いやりが、すばらしいのです。お店のホームページに載っているブログを拝見すると、やはりお人柄なのだなあ、と思います(http://annon.sakura.ne.jp/)。

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