ドイツ2016淡々(5)~《マタイ》の演奏者たち2016年06月21日 16時22分31秒

音楽的に見ると、ガーディナーの指揮は、大局的な視点に立ちつつ、演奏に一貫した流れを確保する方向に向かっていました。歌い手が前奏、後奏を利用して移動することにより、ほとんどの楽曲がアタッカで進行してゆきます。こうすると、絵巻物のように物語を体験できるのですね。できれば、こうしたいものです。

コンチェルティストの割り振りは、バッハの指定通りではありませんでした。どうやら準備の段階を経て、割り振りが定まったようです。女声の中に巨漢の黒人歌手が交じっていて驚きましたが、レジナルド・モブリーというカウンターテナー。艶のある美声でアリアの先陣を切り、会場を沸かせました。

若手のソリストには指導的な棒さばきを見せたガーディナーですが、ハナ・モリソンのように彼のフレージングを熟知している人は自由に歌って、あたかも化身のよう。どの歌い手にも、器楽とのコラボをしっかり取るという古楽の基本が徹底されていました。

しかし歌い手の殊勲賞は、なんといってもジェイムズ・ギルクリスト(エヴァンゲリスト)でしょう。美声で語りかけるような唱法にますます柔軟性と起伏が加わり、大演奏の聖書場面を堂々と牽引。当代随一の、少なくとも一人ではあると思います。

ヴィオラ・ダ・ガンバは日本人女性でした。見慣れた後ろ姿と思ったら、やはり市瀬礼子さん。〈忍耐〉のテノール・アリアから入りましたが、ラド・シミを歌わせ、紡ぎ出し部分をすごい付点にする解釈で、音楽性も十分。器楽奏者の最初に起立して拍手を受けました。舞台袖で立ち話をしていると、ガーディナーが花束を届けに。このところしばしば共演しているそうです。たいしたものですね。

長くなりますが、細部の話を少し。最後のバス・アリアの中間部終わりに、「世よ出ていけ、イエスにお入りいただくのだ」という部分があります。この世ときっぱり決別し、イエスをこの身に埋葬しよう、というくだりです。

私はこの箇所が大好きなのでいつも待っているのですが、多くの演奏が、ここを素通りしてしまいます。しかしガーディナーは間奏をしだいに白熱させてここを迎え、次の器楽合奏に喜び踊るような表情を加えて、主部の再現を導きました。雑念が一掃された心の軽みをあらわしたのだと思いますが、こういう演奏は初めて聴きました。言葉への収斂の、1つの形だと思います。終曲の大団円には、感慨を込めたひときわ大きなリタルダンドが置かれて、コンサートが閉じられました。

身体の不調は曲ごとに良くなり、ついには解消。悪いことがあればいいことがある、という「ツキは一定」の理論は、やはり正しいようです。忘れがたい一日。天の声様のおかげです。

最後に、一愛好家さんがコメントで触れておられる、《ロ短調ミサ曲》新盤との関係について。私は間近でその凄みを実感しましたから、その心配から解放されました。しかし同行した方の中にお一人、13年の《ヨハネ受難曲》に比べるとやや老いを感じる、と指摘した方がおられました。言われてみると、その意見を否定することもできないように感じています。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック