ドイツ2016淡々(4)~すべてが言葉へ2016年06月19日 18時40分58秒

聖トーマス教会の演奏者席は2階後方にあり、1階席からは、演奏者の姿をほとんど見ることができません。聴衆は、豊かな残響と共に舞い降りてくる響きに身を浸すわけで、それが、教会で音楽を聴く伝統的なあり方でもあります。同行の方々はそのように聴かれ、一致して、すばらしかった、感動した、とおっしゃいました。私からは、目撃してわかったことを中心にご報告します。

最大の驚きは、声楽が全員暗譜だったことです。合唱はもとより、エヴァンゲリストもイエス(シュテフェン・ローゲス)も、全員楽譜なし。しかも、アリアを歌うソリスト9名がモンテヴェルディ合唱団と共に、合唱パートを全部歌っている。人数は、彼らを含めて各パート3人(ソプラノのみ5人)×2の、28人です(+少年合唱)。

つまり、コンチェルティスト/リピエニスト方式がみごとに貫徹されていたわけです。これはソリストに大きな負担を課しますから、ソリストに著名な人が少なく若手が多かったのは、そのためかもしれません。しかしその一体感はたいへんなもので、周到に準備された公演、という印象を強くしました。楽譜をすべて自分のものとした2群の合唱から、明晰でスピリットにあふれたすごい響きが湧き上がり、教会空間にこだましてゆくのです。

ガーディナーが何を目指して音楽していたのかは、演奏者側から見ることによってよく理解できました。すべてが、「言葉」に向かっているのです。彼は(声を出していたかどうかはわかりませんが)つねに言葉を口ではっきり示しながら指揮し、表情の動きや高まり、また鎮まりをすべて、言葉の内側から引き出してゆく。言い換えれば、音楽の全体が巨大な言葉として昇華されてゆく。こういう演奏をイギリス人たちがなしうるとは・・・。イングリッシュ・バロック・ソロイスツの奏者たちが簡単な伴奏音型ひとつにも共感をこめ、有機的アンサンブルを作っていたことも印象的でした。(感想続く)

コメント

_ t.h ― 2016年06月20日 05時38分47秒

以前トーマス教会でコンサートをききました。時々演奏席を見上げながら聴いておりました。先生の淡々とした深い文章に何と申せばよいか解らないで読ませて頂いていますがフエイスブックのように「いいね」と押して感銘を伝えられたらと思います。お元気でご旅行を続けてくださいませ。

_ 一愛好家 ― 2016年06月21日 12時47分20秒

今回のガーディナー、マタイは現場に居合わせた訳ではないので、あくまで伝聞、推測による記述です。
ロ短調ミサ新録音CDについては、先生の所感とほぼ同様に感じましたが、今回のマタイとの違いは彼の中でどんな変化があったのか、先生としてはどのように考察されますか?

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