思わぬ分かれ道2015年04月04日 10時48分45秒

3月29日に東京音大で開かれていた日本ピアノ教育連盟の全国大会で、モーツァルトのピアノ協奏曲に関する講演をしました。この機会にと思ってピアノ協奏曲一連の流れを学び直し、たいへん勉強になりました。

「人のため」の前に「自分のため」があるというのが、仕事に対する私の考えです。できるかぎり、自分が一番勉強になった、という感想をもてるようにと思ってやっています。なぜなら、そうすることで内容を高めることが、結局ひとさまのためにもなると思うからです。欲張りすぎて時間内に消化しきれず、という弊害もよくあり、今回も、若干はそうだったのですけれど。

成果は日本モーツァルト協会でもお話しさせていただきますが、ひとつだけ、面白いエピソードをご紹介します。

着眼点のひとつは、モーツァルト自身が「大協奏曲」と呼んだ管楽器のオブリガートつきコンチェルトがどのように始まり、どう発展したか、ということでした。その頂点に来るのが、第24番ハ短調K.491のコンチェルトです。その第2楽章の全体を考察したいと思い、楽譜を投射するように用意しました。

鳴らす音源は、ベルリン・フィルを弾き振りしたバレンボイムのものが全部まとまっているので便利だと思い、確認のために、家で鳴らしてみました。えーっと思ったのは、楽譜が2/2拍子であるにもかかわらず、バレンボイムが4/4拍子で演奏していることです。次にゼルキンを聴いてみたら、もっとゆっくりの4拍子。もしや旧全集の楽譜が4拍子なのかな(←時々あること)と思って調べてみると、同じく2拍子です。こういうことを平素意識しているピアニストは、ブレンデル。そこで鳴らしてみると、2拍子をはっきりわかるように演奏している。他の演奏では、シフ、アシュケナージが2拍子、ペライアは意外にも4拍子でした。

出かける前だったのでそこで打ち止めとし、ブレンデル盤を用意して、会場に向かいました。でもなぜ、こうしたことが起こるのでしょうかね。習慣の問題でしょうか。

私ははっきり2拍子で演奏すべきだと思いますが、バレンボイムほどの人がそうするのだから、4拍子派にもそれなりの根拠があるのだろうと思います。基本的なところに、思わぬ分かれ道があるものです。

調弦2014年08月19日 10時09分48秒

17日(日)は、神戸愉樹美さんの国立音大退職記念コンサートとパーティに出かけました。36年間この上なく熱心に務められた帰結として、ヴィオラ・ダ・ガンバ教室の卒業生が、こぞって詰めかける盛況。慕ってその道に入られた方が、何人もおられるのです。

コンサートの後半に組まれていた5~7人のコンソート、これが良かったですね。ガット弦たちから生まれるふくいくとした和音が心に染みいるようで、なごみました。誰の曲を何という人が弾いているかといったことを忘れ、響きに身を任せてくつろげるのが、ルネサンス・コンソートの世界です。自由学園のミンミンゼミが加わったのは、ちょっと想定外でしたが。

学んだことがひとつあります。ご承知のように、古楽では、調弦に時間をかけます。ガット弦が狂いやすいということもありますが、純正なピッチで合奏するためには、開放弦の音を入念に合わせておく必要があるからです。今までは、その時間は音楽とは別物と思っていました。

でもこの日は、調弦が、音楽の一部であると感じられたのです。やや長い時間の間に響きの違和感が薄皮をはぐように解消され、一呼吸置いて、澄んだ美しい和音が流れ出す。調弦が、音楽へと向かう貴重な道のりになっていたのですね。これからは調弦も、心して聴こうと思います。

今月のCD~ガーディナーとゲームの接点2014年07月26日 08時15分39秒

今月の特選盤は、ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団とイングリッシュ・バロック・ソロイスツのバッハ《復活祭オラトリオ》+カンタータ第106番。これと拮抗する次点は、イザベル・ファウストがハーディングと入れたバルトークのヴァイオリン協奏曲です。ファウスト、ケラス、メルニコフのベートーヴェン《大公》もあり、ファウスト絶好調。すべてキング・インターナショナルの発売です。

ガーディナーの《復活祭オラトリオ》実演がすごかったことは昨年のライプツィヒ訪問記でお伝えしましたが、そのすぐ後(13年6月)にロンドンで録音したのが、この一枚。現地で接した究極の完成度が記録されており、バッハ・アルヒーフの名誉総裁となったガーディナーが、いよいよバッハ演奏の頂点を極めたという感があります。この名演奏が、合唱のトップがソリストを務めるコンチェルティスト方式によって達成されていることは、ぜひ強調しておきたいと思います。

話は変わりますが、数年前の「キングズ・バウンティ」というRPGを引っ張り出して、このところやっています。コンセプトといいグラフィックといい、本当にすばらしいゲームです。

主人公はいろいろな国に赴いて冒険してゆくのですが、そこにはお姫様や名物女性がいて、妻にすることができる。妻は装備品のスロットをもっていて主人公を強化できますし、ボーナス付きの子供を、4人までもつことができます。離婚結婚を繰り返した方が地域の戦闘には有利になるのですが、別れのやりとりをしなければならず、ちょっと辛いです。

とりわけ美しいのはエルフのお姫様。たいていはこの人で、最後までやってしまいます。この女性がスロットに入ると、射手だのドルイドだのスプライトだのといったエルフの軍勢の士気が劇的に上がり、射程が長くなったり、クリティカルを連発したりする。

ああこれだ、と思いましたね。ガーディナーが指揮をするコンサートがめざましいのは、演奏者、とりわけ合唱の士気がものすごく高いからです。たとえばバスのパートを、ハーヴィーのような名歌手が、闘志満々で牽引している。ガーディナーのバッハがすばらしい最高の要因は、ここにあると思います。上から指導するのでなく、下から生命力を吸い上げているのです。すごいですね。

《マイスタージンガー》で始まった土曜日2014年07月21日 07時38分08秒

第三土曜日(19日)の朝は、恒例の「たのくら」。1幕ずつ進めているワーグナー講座が《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に入りました。内容理解を考えると、鑑賞には日本語字幕が必須。市場を調べると現在はレヴァイン指揮のメトロポリタン盤しかなく、手持ちのそれを使うことにしていました。

ところが前夜チェックしてみると、合唱もオーケストラも、バイロイトとは比較にならない。前奏曲が盛り上がったあと教会のコラール唱があらわれる感動の幕開けが、まずまったく違います。この作品ばかりは、文化の体感が演奏に必要なようです。

そこで古いですがシュタイン指揮、バイロイトのLDを使うことにし、会場でプレーヤーを引っ張り出してもらいました(DVDも購入したのですが、日本語字幕なし)。苦肉の策です。

ところが、持参した1枚が、第3幕!この日は第1幕でしたので使えず、部分比較のために持参したバレンボイム指揮のバイロイト盤(1999年)を、英語でご覧いただく羽目になりました。しかし買ったばかりのこれば、じつにすばらしかった。綱渡りの結果オーライという、私によくあるパターンになりました(汗)。かつては批判されたヴォルフガング・ワーグナーの演出ですが、にじみ出るオーラは本物と受け止めました。

大急ぎで会場の錦学習館を後にし、東大和市のすてきなハーモニーホールへ。うっかり同じ日に入れていたのですが、なんとか移動することができました。このイベント、「アンサンブル・フェア」については、次の更新でご報告します。

絶叫調2014年05月22日 11時03分34秒

いま集中的にテレビに映っている芸能人、絶叫調で歌う方ですよね。この絶叫調というのは、いつごろ始まり、広まったものなのでしょうか。

政治家の演説に、絶叫調という類型がありました。今は、タイプというほど特別なものではなくなっていると思います。私は昔から、絶叫調が好きではありませんでした。主義主張を納得させるには相手に考えてもらう必要があるわけで、そのためには絶叫はむしろ有害であるからです。演劇でも、絶叫調の台詞をよく聞きますね。私はたいていunhappyです。まあ、絶叫調と雄弁、熱弁が紙一重ということはあるでしょうが。

ひるがえって、音楽。クラシック畑の私からすると、絶叫調で歌うと声の美しさが損なわれ、表現も突っ張ったものになると思うのです。いま昔の歌謡曲を調べていますが、昔の歌手は音色を大事にして、やわらかく歌う人がほとんどだった。演歌も繊細に小節が利いていて、誇張された「ド演歌」が出てくるのは、あとからのことです。オペラの世界で、ベルカントが音量主義に置き換えられていくのと同じ傾向が見て取れます。

歌は世に連れですから、流行歌の変遷はあって当然です。でも量より質を尊ぶ立場からしますと、昔をなつかしむ気持ちも生まれてきます。月曜日のコンサート(いずみホール)に、近江俊郎の《南の薔薇》という曲が含まれていますが、You tubeで見る近江さんの歌唱力はすばらしく、脱帽します。最後、「君はやさしの薔薇」という決めのフレーズさえあの美声を張らず、「やさしく」歌うのですから。

アマチュアとプロ2013年10月21日 22時21分31秒

19日(土)は越谷で、合唱団の方々を相手に、《ロ短調ミサ曲》のレクチャーをしました。短い時間に話を集約しきれなかった経験を踏まえて、「演奏で心得るべき十箇条」という形に整理していったのですが、それでもやはり内容が多すぎ、すごい早口でお話ししても何項目かカット、ということになってしまいました。次は「五箇条」にして、実例も減らし、その代わり、ていねいにお話しするようにしなくては。またまた、課題が先送りになってしまいました。

にもかかわらず熱心に聞いていただき、ありがたかったです。最後に、優秀とお見受けする若い指揮者の方から、「こういう難曲にアマチュアが取り組むことについて、エールを送ってください」というお申し出がありました。

私がお話したのは、アマチュアに恵まれているのは時間である。長い時間をかけて、さまざまに勉強しながら、作品に取り組むことができる。それによって名曲のすばらしさにどれほど深く入り込めるか計り知れない、ということでした。演奏をしてみてわかる作品の良さというのは、ひじょうに大きい。多くの方が合唱を通じて《ロ短調ミサ曲》に分け入っているなんて、すばらしいことだと思います。

蛇足ですが、アマチュアの方々には、プロに対する尊敬を忘れないでほしい、とも言わせてください。理由は2つ。1つは言うまでもないことですが、演奏家は高度な技術の修練に一生を費やすわけで、それがあって初めて音楽の世界は回っているのだということ。もう1つは、プロの演奏家はステージに乗ったら逃げの利かない音楽の厳しさを知っており、自己批判を欠かさず音楽に向かっている、ということです。この第2点がきわめて重要であると、私は思っています。

もっと本当なのは、音楽の前にはプロもアマも違いはない、ということではないでしょうか。私がコンサートに行くとき、今日はアマチュアの演奏だから寛容モードに切り替えて聴こう、などということはあり得ないし、できないことです。生み出される音楽を同じように聴き、感動したり、感心したり、失望したり、腹を立てたりします。演奏が寛容モードを求めているのに対応できないときには、自分が冷たいように思われて後味が悪くなります。バッハでは、まま起こることです。

幕を開けないで2012年08月18日 16時45分34秒

今日18日は、「たのくら」例会と、恒例の「ビヤ・パーティ」でした。ワーグナー・プロジェクトが始動したのが4月。今月のテーマは、《妖精》《恋愛禁制》《リエンツィ》の初期3作品におけるワーグナーの発展をたどることでした。このテーマでどこまで興味をもっていただけるか心配でしたが、20代のワーグナーの発展はまことに顕著かつ面白く、充実感をもってお話できました。相当準備しましたが、やはり、準備は嘘をつきませんね。来月の《オランダ人》に向けて、意欲が高まってきました。

《リエンツィ》には、ベルリン・ドイツ・オペラの2010年のライヴDVDが出ています。フィリップ・シュテルツルという人のその演出を私はとうてい受け入れられないのですが、ここでは一般論として、「序曲で幕を開け、演出を始めること」について意見を述べさせてください。

今では流行となり、当然のように行われる「序曲のステージ化」は、基本的には、やってはならないことだというのが、私の意見です。すごくうまくいって効果的な事例がいくつかあることをもちろん知ってはいますが、あらずもがなのもの、音楽を阻害するものも、看過できぬほど多い。ドイツで演奏されている方からお聞きした話があります。ある時指揮者が怒り、どうしてすぐ幕を空けてしまうのか、十分間ぐらい音楽を聴くことがなぜできないのか、と演出家に詰め寄ったとか。私は指揮者の意見にまったく同感です。序曲は、幕が上がる前に音楽を純粋に聴かせ、聴衆の脳裏に豊かなファンタジーを呼び起こすために置かれている。主役は当然、オーケストラです。

しかし最初から幕を開け、パントマイムをあれこれ行うと、聴衆の注意力は削がれ、音楽は自律性を失って「劇伴」になってしまいます。このパントマイムはどういう意味なのだろう、と考え始めることも少なくない。ベルリンの《リエンツィ》の場合、ムッソリーニを思わせる独裁者が登場して、権力への志向を高めたり、目に見えぬ不安に怯えたり、という演技を行います。聴衆の目はその新奇な身振りに吸い寄せられて、序曲はいつのまにか、それへの伴奏としか認識されなくなってしまうわけです。

《リエンツィ》というオペラは、共和制の理念を14世紀のローマに復活させようとした夢想的な革命家が、その理想主義の故に孤立し破綻するドラマを描いている。だからこその「大悲劇」で、独裁を美化したものではありません。ですから、リエンツィの理想主義を提示することが悲劇の必須の前提になるわけで、音楽にまかせておけば、序曲は、おのずからそのことを語る。しかし演出の介入によってそこを否定してしまったら、序曲が無意味になるのみならず、ワーグナー青春の長所も短所もある作品を上演することの意味も、わからなくなってしまいます。作品に敬意を払う演出家であれば、このような舞台は考えるはずがないと私は思うのですが、現実はそうではないのが残念です。

音量への疑問2011年12月12日 23時04分35秒

過去に、ホールの大小の別なくフル・ヴォイスで歌われる声楽家が多いことに、疑問を呈したことがあります。小さな空間では音量を抑え、その分、より繊細な表現を目指す選択肢はないのか、と。

そう思っていたところへ、考えさせられる新しい実例に遭遇しました。私の出かけたイベントは、ビルの小さな一室。蓋を外したスタインウェイが中央に置いてあり、お客様は、その時点で20人ぐらい。全部入っても、4~50人でしょうか。プログラムは現代曲でした。

登場されたピアニストは、上手な方でしたが、たいへんな力演。耳を聾するばかりのフォルテシモを駆使して、演奏されたのです。作曲者が自然に耳を澄まして作曲したはずの曲だということもあり、私は、スタインウェイが発する轟音に接しながら、考えこんでしまいました。小部屋にふさわしい、聴き手の耳にやさしい演奏を求めることはできないのか、と。

いくつかの筋道が考えられます。演奏はスタインウェイのピアノに対してなされるもので、その響きを最大限に発揮するべきものであり、部屋の大きさ、小ささは二次的なことである、ということだろうか。あるいは、ポピュラーのライヴや小部屋でさえマイクを使うような増幅全盛の世の中のしからしむるところとして、大方のお客様に、大音量の違和感はないのであろうか。

私はやっぱり、小さな部屋でも耳を澄まして音楽を聴く体験をもちたいと思います。これって古い感覚なんでしょうか。

つい人気投票2011年06月18日 23時57分27秒

今日は「たのくら」の日。須坂で出した「テノール昔と今」のネタを再使用し、テノール三昧の2時間となりました。

私は、テノールへの熱狂から音楽の道に入ったようなものです。講座では、テノールとは、という基礎論のあと、私が最初に熱中した2人のテノール歌手を扱い、その個性を対比した上で、それ以前のベル・カントの歌い手たちと、その後の有名どころとを比較する流れにしました。最初に熱中した2人というのは、NHKのイタリア歌劇団でセンセーションを巻き起こしていたデル・モナコと、イタリア民謡のレコードで人気を博していたディ・ステーファノです。

あと7人を加えて、「今日の9大テノール」としました。「今日の」というのは、お店のセールと同じで、使える音源なり映像なりが集まっていることなどを優先し、恒久的なランクではない、ということを示す意味があります。残りの7人は誰だ、とお訊きになりますよね。言いたくありません!これはどうした、あれはいないじゃないか、なぜこれが入るのだ、とクレームが殺到することが、眼に見えるからです。あ、がまんしてくださるのですか。それなら申し上げます(笑)。

「以前」からは、カルーソー、ジーリ、スキーパ。「以後」からは、ヴンダーリヒ、パヴァロッティ、ドミンゴ、フローレス。ドイツ系、北欧系のテノールは何人か頭をかすめましたが、イタリア系の人がずらりと並ぶとやはり入れるのに違和感があり、本場の人たちからも一目置かれているヴンダーリヒのみとしました。若手はフローレスを代表としましたが、とくに根拠はありません。

それぞれを2つぐらいの演奏で解説してゆくのですから、本当のところは、もちろんわかりません。それでも、アンコール1曲やりましょう、誰にしましょうか、という人気投票をやってしまうのが、私のダメなところです。選ぶ音源によって有利不利がありますし、私の紹介の仕方も心理的に影響しているはずなので、単なる遊びだと念を押した上で、結果をご紹介します。

須坂では、ディ・ステーファノとヴンダーリヒが同票でトップ。あとは票が分かれ、スキーパとフローレスがゼロ。立川ではジーリがトップ、2位がパヴァロッティで、ゼロはスキーパとデル・モナコ、ドミンゴ(!)でした。(ドミンゴは1981年の《アンドレア・シェニエ》を使いました。これ自体はすばらしいと思います。)

私自身はと言いますと、音量は必要最低限、むしろ音色と味わいを重視する、という最近の価値観から、メザ・ヴォーチェの表現を重んじる歌手に魅力を感じます。その意味で、昔のテノールの良さに目を開かれているわけですが、それには、下降音型に必ずかかるポルタメントに、慣れる必要があるように思います。昔の歌い手もいいけど、古めかしく思えて、と言う方がおられるのは、多分ここに原因があります。

終了後、知人のコンサートを覗き、帰宅後、明日の講演の準備をしました。演奏を楽しんでいただければと思います。

学生の演奏2011年05月08日 08時02分47秒

私は、学生の演奏に感動することが、よくあります。聴き方の基準を変えているのか?と聞かれれば、そうかもしれません。しかし音楽の神様がひそかに喜ぶ瞬間というのは、プロのレベル高い演奏家に占有されているものではなく、勉強中の若い人の演奏にも、相当あるような気がするのです。

それは、技術の問題ではない。条件は、その人が音楽と真摯に向き合い、自分なりに熟慮と工夫を重ねているかどうかです。その過程で、何か重要なものが発見されるという瞬間が訪れる。そうすると、楽譜の音がすみずみまで意味付けられ、音楽に血が通ってきます。こういう瞬間に立ち会う喜びは一種特別なもので、教育の場にいてこそ味わえるものかもしれません。

こういう体験は、往々にして少人数のクラスや個人指導の現場で訪れます。たくさんの人が聴いてくれたらいいのにとも思いますが、なかなかそうはいきません。金曜日には1日に二度こうしたことが起こり、幸福な気持ちになりました。演奏家のキャリアやレベルとは別のところで充実した音楽体験があることを、大切に思うようになっています。