ヘンデルが大事!2016年07月25日 00時03分15秒

23日(土)、東京タワーの真下にある機械振興会館という会場で、「モーツァルトはヘンデルから何を学んだか」という講演をしました。

主催は、日本モーツァルト愛好会。大きな団体で、熱心な聴講者がたくさん集まってくださいました。ヴォルフ先生の『モーツァルト 最後の4年』には、モーツァルトにとってのヘンデルの重要性が、縷々語られていますよね。そこで、そのことを特化して考えてみようと、このテーマを選びました。バッハとの関係はよく耳にするが、ヘンデルとの関係についてはあまり聞く機会がない、というご要望があり、私も関心がありましたので、思い切って取り組んでみました。

相当慎重に、準備しました。書簡の中でヘンデルにどんな言及があるか。フーガとモーツァルトの初期的なかかわりは。ヴァン・スヴィーテン邸におけるフーガ体験において、ヘンデルとバッハはどう違ったか。ヘンデルの影響がとくにある作品は。ヘンデルのオラトリオ編曲のもつ意味と、その、モーツァルトの晩年様式との関係は。

といったことを自分なりに整理し、系統立ててお話ししました。本当にやってよかった、というのが実感です。なぜならば、ヘンデルの影響の大きさをバッハと区別してある程度まで理解し、その重要性を認識するとともに、これまでの不明を、大いに恥じているからです。

《レクイエム》の冒頭2楽章がヘンデル作品を下敷きにしているという事実は、単独で聞くとえっと思うようなことです。でも、ヘンデル編曲の実際と、それがモーツァルトに与えた影響をたどってゆくと、当然のことだったと思わざるを得ません。

いい勉強をさせていただいたので気持ちが高まり、二次会まで、会員の方々と盛り上がりました。すばらしい一日でした。

巨大な森の中へ2016年02月18日 08時59分22秒

生活の流れがどこか変わってしまって、「旧暦年頭所感」から6日、更新しませんでした。その間連日仕事が続き、地方に出かけたり、大事な会議に参加したりしているのですが、大きな関心事が直接の目的ともなってその上に座ったためか、時間の流れが速くなってきました。

まず行うべきは、聖書の研究です。福音書のみならず、書簡やキリスト教の成立史にも一定の理解をもちたいと思い、文献と向かい合っています。新約学は日本にもすばらしい先生が何人もおられるので、手引きには困りません。

針の穴をつつくような研究の積み重ねに感嘆しつつ読んでいくわけですが、同時に、絶対に確かなことは誰も言えない世界だ、という実感も生まれてきます。ありとあらゆる仮説が自己主張している。なんとか妥当な基本理解を導き出そうとしても、門外漢にはむずかしいですね。

仮説は、自分はこう考えたい、こう解釈できたらいいなあ、という思い入れから発生するという側面があります。それは、研究対象に対する愛の、いわば負の側面です。対象に比べれば小さなものでしかない自我が、思い入れを生み出します。

しかしそれは、絶対に必要なことでもあるのです。対象に迫っていくためには長期にわたる研鑽と、対象への没入が欠かせません。それを支えるのが、対象への愛というべきものです。普通に言えば、生き生きした関心、知ることの喜び、モチベーションでしょうか。

それは客観的な研究には有害だという意見に出会うことがありますが、最初からそれを言ってはダメです。遠くから、あるいは上から眺めているだけで事柄の真髄に肉薄することは不可能だというのが、私の見解です。

そこで大事になるのは、自分の思い入れに対する自分自身の警戒心、浮かんだアイデアを検証する自己批判力です。それこそが研究者のプロフェッショナルな能力だと思いますが、それは、対象への迫りあってこそ発揮されるものです。それを放棄しかたら客観的、というわけではないのです。

「対象にコミットしてこそ普遍が見えてくる」と私におっしゃったのは小田垣雅也先生ですが、たとえばバッハに普遍性があるとしたら、そのようなもの以外ではあり得ないと思います。

というわけで巨大な森の中に迷い込んでしまっており、時間がかかります(←コメントへのご回答)。

青山で学会2015年11月17日 08時14分51秒

今年の日本音楽学会全国大会は、青山学院大学が会場。下車駅は渋谷です。まず驚嘆したのは、環境がいいこと。チャペルを配した戸外の美しさもさることながら、校舎が立派で、近代的。エスカレーターで上り下りできる大学は、初めて見ました。学生が殺到するわけですね。

研究発表とパネルが5つ並行して進んでいますので、参加できたのはごく一部です。しかし特筆すべきは、中世ルネサンス音楽史研究会の方々による、「グイド・ダレッツォ、その虚像と実像」と題するパネル(14日)。会が長らく翻訳に取り組んでいる11世紀の音楽理論書『ミクロログス』の問題を、皆川達夫先生の発題で、5人のパネリストがテーマを分担し発表されました。

この発表(那須輝彦、宮崎晴代、石川陽一、吉川文、平井真希子)が、連携が取れている上、明晰かつわかりやすいプレゼンテーションで統一されており、みごと。皆さん、皆川先生の学風をしっかり受け継いでおられるのですね。

こういう、歴史的に重要で内容のむずかしい古典の研究を続けている会があり、50年以上を経てなお継続されているというのは、日本の音楽学の誇りと言えると思います。出版にはもう少しかかるとのことですが、楽しみにお待ちしましょう。

15日(日)の午後は、私の司会する、バッハを中心とするセッションがありました。先発はベルファストの富田庸さんで、バッハの自筆譜の新しい読み方を提案する内容でした。司会者に発表材料を期日をたがえずお送りくださったのも富田さんで、すみずみまで克明に準備されたプレゼンテーションは、模範的です。これでこそ、世界の第一線に立てるわけですね。尊敬します。来年も来てくださいね。

若手の村田圭代さん(バッハ研究)、田中伸明君(ベンダ研究)もしっかり持ち場をこなしてくれましたが、途中、発表者があらわれず連絡もない、というコーナーが出現してあわてました。事前連絡を怠った私にも、責任のあることです。そこで皆様に謝罪し、他の発表を聞きたい方はどうぞ、と申し上げた上、15分待って解散しました。

私も持ち場を離れ、隣の教室へ。そこでは、直江学美さんが日本の洋楽受容に貢献したテノール歌手、アドルフォ・サルコリの研究発表をしておられるのです。

直江さんは、私が以前ホームページを開いていた時に、「押し入れ」というページを持っておられました。ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。国音の声楽を卒業後、郷里の金沢で准教授をしておられるのですが、音楽学会にも入会されて、サルコリの研究を進めておられます。

15分ほど覗きましたが、詳しい追跡調査の結果を堂々と発表しておられ、私はすっかり感心。プログラム上は絶対に聞けない時間割でしたから、何が幸いするかわからないものだと思いました。日本音楽学会は若い人たちが元気なのが特徴で、懇親会もにぎやかです。興味のある方に、入会をお勧めします。

【付記】青山学院で音楽を学ばれているお手伝いの学生さんたち、善意にあふれて献身的でした。ありがとう。

秒読み2015年11月11日 00時37分53秒

今年の総括はまだ早いですが、モーツァルトの年だった、という結果になりそうです。角川の雑誌『毎日が発見』の特集記事を済ませ、日本ピアノ教育連盟の紀要が送られてきて、そう感じます。

先週の週末、金曜日から日曜日まで、珍しく予定がありませんでした。そこでやったことは、最前からお話ししているヴォルフ先生の著作『幸運への門出---モーツァルト最後の四年』(暫定タイトル)の、ゲラチェック。フルタイムで済ませ、月曜日に入稿しました。もう少しです。

全部が完成した時点で、まとめた問題点を先生にお尋ねするつもりだったのですが、オリジナルの英文に対するドイツ語版の相違点を吟味することで、ほぼ解決。日本語版の序文をお願いすることになりました。春秋社さんからは、1週間以内、というご注文です(汗)。しかし、英語版、ドイツ語版の序文と日本の読者向けの序文には必要なことが違うので、簡潔な新しい序文をお願いするつもりでした。超多忙な先生がどう対応してくださるか、不安です。ともあれ、急いで出版したいからと、メールでお願いしました。

私のメール発信が、昨夜の22:16。そうしたら0:12に返信が来て、数日中に送るから、と書いてありました。

で、朝起きてみると、なんと7:15にメールがあり、全体を簡略化した、新しい序文が添付されているではありませんか。本当に驚きました。頭に浮かんだのは、「バッハ的勤勉」という言葉です。こういう風にする方だから、あれほどの仕事があれほどの密度でできるのだな、ということです。すごいですね。日本での出版を楽しみにするお気持ちも、あるのだと思います。

というわけで、いよいよ仕上げが秒読みに入ってきました。明日、新幹線の中で「あとがき」を書こうと思います。

短くするコツ2015年07月23日 23時41分30秒

書ける材料が10あり、与えられたスペースが1であるとしましょう。その「1」に理想があるとすれば、それは、読む人が「1を以て10を知る」ことができるように書くことです。そんな理想は誰も実現できませんが、少しでも近づこうとする努力は可能だと思います。

実生活と同じで、無駄を省くことは、思っている以上にできるものです。よくしゃべる人の話を聞きながら、内容の割に話が長い、と思うことってありますよね。しかし用意した下書きには、レトリックを含めて自分の思い入れがありますから、短くすることは困難。短縮は、いわば自分との戦いです。

内容の重複を避けること、形容詞の無駄遣いをしないことは、基本中の基本。「このことを書くのに、どうしたら最短コースで書けるか」を詰めて考えることで、もう相当、短くなります。短くなるということは、内容が薄まることではなく、むしろ密度が高くなるだと考えて取り組むのがいいでしょう。

しかし、結論だけが残る、という骸骨のような短縮はいけません。論証、説明はどうしても必要ですし、個人的な感想の記述も、よき潤いとなる可能性があります。そこにバランスを取るのが、一番むずかしいことかもしれません。

短縮は、一度にはできません。一晩寝かせて翌日取り組むと、その間に「諦念」が生じて、思い入れのある部分を、すっと諦めることができるものです。自分としては書きたいが、読者にとっての必要は二次的、と気がついて観念するからです。短い文章で要点を把握することは読む方にとってのプラスですから、短縮作業は、価値観をもって取り組めるはずのことです。

文章に流れが必要であることは、長い文章でも短い文章でも同じです。箇条書きのようになると、読む楽しさが失われてしまう。よく論文の要旨に、この論文は何々について書いたものである、ということしか書かない人がおられますが、これは大きな間違いです。要旨は、プロセスから結論までを、極力短縮したものでなくてはなりません。字数が少ないからとあきらめずに取り組むことで、短縮技術は向上するはずです。

どう短くするか2015年07月21日 22時24分23秒

原稿を書く仕事でつねに直面するのが、「どう短くするか」という課題です。新聞批評などの場合、あれこれ書こうとするとかならず長くなりますから、それをどう縮約するかに苦心しています。勉強中の若い方も、このコツを会得しておく方がよろしいでしょう。条件を超過して長くなっていては、応募した原稿の採用もままなりません。

『モーストリー・クラシック』の宗教音楽特集号に「受難について」「バッハの《ヨハネ受難曲》」「バッハの《マタイ受難曲》」という3つの原稿を書きました。その字数が、2400、1200、1200。少ないですが、最近は字数絶対厳守を心がけていますので、下書きを短くすることに力を注ぎました。

一方、日本ピアノ教育連盟からは、3月にさせていただいたモーツァルト/ピアノ協奏曲に関する講演を、『紀要』用に文章化することを依頼されていました。枚数自由という申し出に甘えて、用意した原稿のうち時間が足りずに話せなかった部分を入れ、日本モーツァルト協会講演のためにバージョンアップした部分も加えることにしたところ、完成稿は18,000字に達しました。

しかしその仕事をしている時点で、連盟の発行している『Klavier Post』という会報のために7,000字の短縮版を並行して依頼されていることを、うっかりしていたのです。さて、楽譜別で18,000字の原稿を、楽譜込みで7,000字の原稿にどう集約するか。

今回これがとても困難だったのは、3月の講演の内容が「モーツァルトのピアノ協奏曲創作を年代順に見ていく」という、本来講演のテーマにしてはいけない、大きなものであったからです。編曲を含めてピアノ協奏曲は30曲ありますから、個別曲に割けるのは18,000字だと600字以内、7,000字だと楽譜もあるので200字以内。これでは一口解説になってしまいます。

ではどうするか。学生さんを想定して、短縮のコツをまとめてみましょう。(続く)

帰国後の活動から2015年07月01日 05時52分58秒

20日(土)に関空に付くと、そのままいずみホールへ。その日はバッハ・オルガン作品全曲演奏会の当日で、ステージに間に合わせることが、絶対条件でした。とぼとぼ歩きで、リハーサルへ。出演者は小柄な韓国女性、오자경(オ・チャギョン)さんです。

到着と並んで心配だったのは、バッハゆかりの教会でオルガン・コンサートを聴いてきた自分が、日本のコンサート・ホールのオルガンに失望しないだろうか、ということでした。演奏者がアジア人だけに、なおさらです。

しかしそれは、杞憂でした。♯調の曲を集め、それらが「バッハ好みのロ短調」に向かっていくという選曲の構想をオさんは見事に踏まえてくださっていて、基礎のしっかりした音楽性で、潤いのある演奏をされたのです。とりわけ最後のロ短調フーガは、正確無比のテンポの上にフーガが端正かつ壮大に築かれ、まさに大伽藍の趣きでした。

韓国の古楽事情は日本より20年遅れているとおっしゃっておられましたが、こういう正統的な方が指導的地位にあるのなら、着実に成長することでしょう。彼女の存在を本当はわれわれが知るべきなのに、ヴォルフ先生から教えられるとは。シリーズの視野が、世界にもうひとつ広がったコンサートでした。

日曜日からもイベントだの、授業だのが連なっていて休めません。トピックを申しますと、日本モーツァルト協会におけるピアノ協奏曲論が、26日で終了しました。3月のピアノ教育連盟講演を基礎にし、さらに調べを加えて全協奏曲をたどったのですが、おかげでたいへん勉強になり、諸作品がそれぞれ、内包する方向性や工夫とともに、個性的所産として眼に映じてきました。よき聴き手を得て、勉強したなあという実感のもてる講演でした。

でもどうやら、バッハに集中するタイミングを失ったようです。モーツァルトの仕事も、結局継続してゆくことになりそう。ともあれいま先決なのは、いまだどっぷりとはまっている時差を解消することですが。

《冬の旅》!2014年12月16日 07時13分27秒

27日の《冬の旅》のために、解説と字幕を用意しなくてはなりません。「自筆譜稿による」なとど謳っていますから、研究が先決。このところ寸暇を惜しんでそれに取り組み、解説と対訳を完成しました。

自分で訳してみてはじめて実感できる、この作品のすごさです。なるほどそうか、こうつながるのか、と思えるところが、自分なりにずいぶんあり、目下、《冬の旅》に夢中。その成果(?)は当日を楽しみにしていただきますが、解説のワン・パラグラフだけ、引用しておきます。

「《冬の旅》は、詩も音楽も、考え得るかぎりの厳しい世界を展開する。だが確かなことは、主人公の旅は逃避でも自暴自棄でも狂気でもなく、明確な目的意識をもって頭を高く上げた者の意志的な選択であり、自己に課した修練だ、ということである。そこにあるのは妥協のない生への意志であり、死への願望は否定されてゆく。ミュラー=シューベルトは、生への意志が突き詰めて問われるのはぬくぬくした環境においてではなく、厳しい孤独においてなのだと主張している。」

梅津時比古さん(東京書籍)と三宅幸夫さん(春秋社)の《冬の旅》研究書に多くを学ばせていただきましたが、渡辺美奈子さんの博士論文(東北大学)『ヴィルヘルム・ミュラーの詩作と生涯~『冬の旅』を中心に』もじつに立派なお仕事で、勉強になりました。興味のある方にお薦めします。

「わかりやすさ」の意味2014年11月21日 08時34分21秒

研究発表には、「わかりやすくする」ための努力が欠かせません。なぜなら研究発表は、高い専門性をもつがゆえに、必然的にむずかしいものであるからです。しかし、むずかしすぎるものを生き生きと受け止めることは、人間にはできません。ですから、不必要なむずかしさを極力排除し、コアの専門的な部分を、よりよい形で「いっしょに考えていただく」必要があります。

不必要なむずかしさを生み出す大きな源泉は、書き言葉を連ねた、こなれていない原稿です。主語が出てくる前にいくつもの言葉を置いた、頭の重い文章。主語と動詞が、はるかに離れている文章。句点でつないでいるが、いつの間にか主語が入れ替わっている文章。判別しにくい同音異義語が使われている文章。また、むにゃむにゃと聞き取りにくい発音など、除去できる障害は、たくさんあります。除去のコツはただひとつ。聴き手の立場になってこれでわかるかどうか考える、ということです。コア以外の部分で、聴き手に労力を払わせるのは損です。

このようにわかりやすい言葉でスタートさせ、共有したい予備知識もさりげなく盛り込んでおけば、発表の中核をなす専門的な部分を、同業の聴き手は、気持ちよく「いっしょに考えてくれる」はずです。もちろん、助走が長すぎるのはいけませんし、最後までわかりやすいだけの発表は、説明どころか、紹介になってしまいます。

専門的な部分が難解なのは、お互い承知の上です。しかし、問題意識や取り組み方をつねに明確にしておくことによって、独走は避けられます。問題意識がはっきりしていれば、発表の結論や将来への展望も、効果的に語れるはずです。

発表の時間は概して短いものですから、すべての時間を意味深く使うのが理想です。記述をわかりやすくする代わりに、一度言ったことは言わない、説明は本当に必要な事項に限定する、あるいは、文章の流れが指し示していることは、できれば言いたいことでも思い切って省略する(=言外に伝える)といった措置も必要です。これによってスリム化できる分量は、思ったよりずっと多いものです。

研究発表のわかりやすさは、聴いてくださる人たちへの敬意から生み出されるものではないでしょうか。

研究発表のノウハウ2014年11月18日 12時34分39秒

学会でさまざまな研究発表に触れ、研究発表にはこれが大切だ、ということを申し上げたい気持ちになりました。それは長い経験のもとに今思うことで、私自身が実践してきたとは言えませんし、多少理想論かも知れません。

基本として大切なのは、研究発表と説明の違いをわきまえる、ということです。亡くなった友人が、昔「さっきの発表は授業みたいだった」と言ったことを覚えていますが、これはこのことと関係があります。授業は、説明にずっと近いものだからです。

説明は概して、上から下への方向を取ります。知っている人が知らない人に対して行うのが、「説明」だからです。しかし研究発表は「下から上」への方位をもつべきだと、私は思います。

発表者は、自分が問題意識をもって取り組んでいるテーマ(上にあるもの)に対して、自分がどのように取り組み、どんな方法で研究を進めて、どんな成果にたどり着いたかを(つまり向上のプロセスと結果を)、発表を通じて示すべきなのです。

学会や研究会に参加する聴き手は、キャリアはさまざまであるにしても、学問を志す同業者です。研究発表は、その人たちに「いっしょに考えていただく」というスタンスをもたなくてはなりません(ここが重要)。発表をできるだけわかりやすくするのは、聴き手が専門外でわからないからというのではなく、いっしょに考えていただくために、負担を軽減して条件を整えようとする作業です。

いっしょに考える作業は説明を受ける作業よりずっとクリエイティヴで面白いしですから、発表の終了後には当然、受講者はいろいろな質問や意見を出したくなります。ですから、生き生きした質問が飛び交ったか、あるいは重苦しい沈黙が支配したかは、発表の成功度を測る重要な指標になります。それは発表の学問的なレベルとは同一ではありませんが、重く受け止めるべきです。「質問が出なくてほっとした」という受け止め方は、間違っています。(続く)