福岡で学会 ― 2014年11月11日 11時53分33秒
今年の日本音楽学会全国大会は、九州大学。私は選挙管理委員長でしたので6日の木曜日に入り、7日に開票と全国役員会。8日、9日とフルタイムで学会をこなし、暦が10日になってから(=深夜に)戻ってきました。たいへん疲れましたが、しっかり運営された、いい学会でした。
4つの教室で発表が進行し、さらに2つのシンポジウムが行われています。そんな重なり方でしたので、公平な概観はとうていできませんが、わずかの分母の中から、まったくの個人的感想を述べておきます。
最初から注目していたのは、「後期マッテゾンの音楽美学における宗教性」という、私がやっても不思議はないようなテーマを出された岡野宏さん(東京大学)の発表でした。幅広くテキストを読み、バランスのよい意味づけを与えたレベルの高い発表で、私が長いこと離れてしまっているマッテゾン研究の後継者を発見したような、嬉しい気持ちになりました。
中間発表を聞いたことがあったのが、京谷政樹さん(大阪音大)の「サーストン・ダートの音楽解釈」。その段階ではこの日の発表をまったく予想できず、驚かされました。なぜなら、京谷さんが研究した内容をすっかりわがものとし、自分のとらえ方、考え方を熱く語って、諸先達の評価を仰ごうとしていたからです。論文に集中することで若い人がいかに成長するかの好例に接し、さわやかな思いに誘われました。
選挙管理業務に奮戦した方の一人、神保夏子さん(東京藝大)の「マルグリット・ロンとフォーレ」。いい意味でとても面白く構成された発表で、展開に魅了された聴衆から、終わったとたんに拍手が湧き上がりました。普通は、質疑応答が終わったところで、拍手を差し上げるのです。
全体として、先輩から見たアドバイスというのももちろんありますが、それについては、稿を改めたいと思います。皆さん、お疲れさま。
4つの教室で発表が進行し、さらに2つのシンポジウムが行われています。そんな重なり方でしたので、公平な概観はとうていできませんが、わずかの分母の中から、まったくの個人的感想を述べておきます。
最初から注目していたのは、「後期マッテゾンの音楽美学における宗教性」という、私がやっても不思議はないようなテーマを出された岡野宏さん(東京大学)の発表でした。幅広くテキストを読み、バランスのよい意味づけを与えたレベルの高い発表で、私が長いこと離れてしまっているマッテゾン研究の後継者を発見したような、嬉しい気持ちになりました。
中間発表を聞いたことがあったのが、京谷政樹さん(大阪音大)の「サーストン・ダートの音楽解釈」。その段階ではこの日の発表をまったく予想できず、驚かされました。なぜなら、京谷さんが研究した内容をすっかりわがものとし、自分のとらえ方、考え方を熱く語って、諸先達の評価を仰ごうとしていたからです。論文に集中することで若い人がいかに成長するかの好例に接し、さわやかな思いに誘われました。
選挙管理業務に奮戦した方の一人、神保夏子さん(東京藝大)の「マルグリット・ロンとフォーレ」。いい意味でとても面白く構成された発表で、展開に魅了された聴衆から、終わったとたんに拍手が湧き上がりました。普通は、質疑応答が終わったところで、拍手を差し上げるのです。
全体として、先輩から見たアドバイスというのももちろんありますが、それについては、稿を改めたいと思います。皆さん、お疲れさま。
水曜日の学び ― 2014年10月16日 00時00分07秒
ここ数日多忙でしたので、今日、水曜日の朝日新宿校の準備に苦労しました。ワーグナー、バッハと2コマあるからです。昨日大阪へ往復した時間もフルに使いましたが、準備は嘘をつきませんね。今日は、自分なりにいろいろな発見がありました。
ワーグナーの方は、《神々の黄昏》第3幕のブリュンヒルデの自己犠牲の場面を研究しようということで、藤野一夫さんの論文や高辻知義先生の翻訳を下調べし、この場面の変遷の歴史を扱いました。
そこから明らかになるのは、長大な《リング》の、ジークフリート死後をどう終息するかについてワーグナー自身が揺れ、試行錯誤を繰り返したということです。いわゆるフォイエルバッハ的結末やショーペンハウアー的結末をあきらめて元に戻した時点で、ワーグナー自身が、明確な結論を断念したようにも見えます。これでは演出家が迷い、やり過ぎるかやり足らずになるかして、満足な舞台をなかなか作れないのも仕方ありません。ワーグナーの壮大な構想は、人間の知恵をもっては整理できないところまで行ってしまった、ということなのだと思います。
昔は圧倒されていた《ブリュンヒルデの自己犠牲》も、そう思うとずいぶん違って聞こえてきます。すなわち、批判的に聴く知恵がついたということなのですが、もちろん、それが絶対ではありません。研究は、作品によりよく戻る道筋を作るためにこそあります。作品に戻ってみると、研究の認識を超えるものがあることにまたまた気がつく、という繰り返しが、名曲なのです。
「リレー演奏でバッハを聴く」講座の方は、オルガンの特集でした。映像を揃え、さまざまな楽器を紹介しながら聴いていく形にしたのですが、感動的な名演奏をDVDに発見したので、ご報告させてください。
輸入盤にHistory of the Organというシリーズがあります。その第2巻の終わりに、北海沿岸のひなびた教会で、長老のハンス・ハインツェ(故人)がシュニットガー・オルガンを弾いている光景が出てきます。木訥と言いたいほど淡々と演奏しているのですが、その後ろ姿には後光がさしているようで、まことに味わい深く、すばらしい。《オルゲルビューヒライン》のいくつかとトリオ・ソナタの第4番第2楽章が演奏されていますが神品ともいうべき美しさで、これこそオルガンだと思いました。
ワーグナーの方は、《神々の黄昏》第3幕のブリュンヒルデの自己犠牲の場面を研究しようということで、藤野一夫さんの論文や高辻知義先生の翻訳を下調べし、この場面の変遷の歴史を扱いました。
そこから明らかになるのは、長大な《リング》の、ジークフリート死後をどう終息するかについてワーグナー自身が揺れ、試行錯誤を繰り返したということです。いわゆるフォイエルバッハ的結末やショーペンハウアー的結末をあきらめて元に戻した時点で、ワーグナー自身が、明確な結論を断念したようにも見えます。これでは演出家が迷い、やり過ぎるかやり足らずになるかして、満足な舞台をなかなか作れないのも仕方ありません。ワーグナーの壮大な構想は、人間の知恵をもっては整理できないところまで行ってしまった、ということなのだと思います。
昔は圧倒されていた《ブリュンヒルデの自己犠牲》も、そう思うとずいぶん違って聞こえてきます。すなわち、批判的に聴く知恵がついたということなのですが、もちろん、それが絶対ではありません。研究は、作品によりよく戻る道筋を作るためにこそあります。作品に戻ってみると、研究の認識を超えるものがあることにまたまた気がつく、という繰り返しが、名曲なのです。
「リレー演奏でバッハを聴く」講座の方は、オルガンの特集でした。映像を揃え、さまざまな楽器を紹介しながら聴いていく形にしたのですが、感動的な名演奏をDVDに発見したので、ご報告させてください。
輸入盤にHistory of the Organというシリーズがあります。その第2巻の終わりに、北海沿岸のひなびた教会で、長老のハンス・ハインツェ(故人)がシュニットガー・オルガンを弾いている光景が出てきます。木訥と言いたいほど淡々と演奏しているのですが、その後ろ姿には後光がさしているようで、まことに味わい深く、すばらしい。《オルゲルビューヒライン》のいくつかとトリオ・ソナタの第4番第2楽章が演奏されていますが神品ともいうべき美しさで、これこそオルガンだと思いました。
ワーグナーに回帰中 ― 2014年07月17日 00時57分19秒
8/1のモンテヴェルディ・コンサート、マスコミに取り上げられることもない、ささやかなコンサートです。しかしご紹介すると関心をもっていただけるようで、今日も朝日カルチャーセンター新宿校で何人ものお客様にご来場いただけることになりました。ありがたいことです。
その朝日新宿の、ワーグナー講座。今は《神々の黄昏》の第1幕をやっています。レファレンスにはバレンボイム/クプファーのバイロイト盤を使っていますが、今日は比較のためにルイージ/ルパージュのメト盤と、ブーレーズ/シェローのバイロイト盤を鑑賞しました。大衆志向、「皆さんよっていらっしゃい」というメト盤と、シリアスな探究のバイロイト盤の違いは絶大。それにしても、DVDにリメイクされたブーレーズ/シェローのすばらしさは格別で、いまでこそわかるその歴史的価値、という感じです。パレンボイム/クプファーもよく、クプファー演出による秋の新国立劇場《パルジファル》が、楽しみでなりません。
ワーグナーに回帰している昨今ですが、日本ワーグナー協会の機関誌『ワーグナー・シュンポシオン』の最新号が送られてきました。私はここに、完結した注解付き協会訳台本全10巻(白水社)の書評を書いているのです。膨大な時間を費やして完遂された画期的お仕事の書評は重荷以外の何ものでもなく、苦労しました。立場上避けられない、と思っての作業でした。
たいへん勉強になる作業でしたが、それなりに自分の意見も生まれ、結果として、相当な私論に。書きすぎたかなとも思い、気にしていました。開いてみると編集長から「独自の識見に基づいた、読み応えのある重厚な書評」というご紹介をいただき、安堵したところです。「重厚」という言葉をいただいたのは、これが初めてです(笑)。
だからというのではありませんが、ワーグナーの研究情報の満載されているこの機関誌、非会員でも購入できますので、ご紹介しておきます。1990年代に、私が編集長を務めていた雑誌です。
その朝日新宿の、ワーグナー講座。今は《神々の黄昏》の第1幕をやっています。レファレンスにはバレンボイム/クプファーのバイロイト盤を使っていますが、今日は比較のためにルイージ/ルパージュのメト盤と、ブーレーズ/シェローのバイロイト盤を鑑賞しました。大衆志向、「皆さんよっていらっしゃい」というメト盤と、シリアスな探究のバイロイト盤の違いは絶大。それにしても、DVDにリメイクされたブーレーズ/シェローのすばらしさは格別で、いまでこそわかるその歴史的価値、という感じです。パレンボイム/クプファーもよく、クプファー演出による秋の新国立劇場《パルジファル》が、楽しみでなりません。
ワーグナーに回帰している昨今ですが、日本ワーグナー協会の機関誌『ワーグナー・シュンポシオン』の最新号が送られてきました。私はここに、完結した注解付き協会訳台本全10巻(白水社)の書評を書いているのです。膨大な時間を費やして完遂された画期的お仕事の書評は重荷以外の何ものでもなく、苦労しました。立場上避けられない、と思っての作業でした。
たいへん勉強になる作業でしたが、それなりに自分の意見も生まれ、結果として、相当な私論に。書きすぎたかなとも思い、気にしていました。開いてみると編集長から「独自の識見に基づいた、読み応えのある重厚な書評」というご紹介をいただき、安堵したところです。「重厚」という言葉をいただいたのは、これが初めてです(笑)。
だからというのではありませんが、ワーグナーの研究情報の満載されているこの機関誌、非会員でも購入できますので、ご紹介しておきます。1990年代に、私が編集長を務めていた雑誌です。
ダークサイド? ― 2014年06月08日 23時51分30秒
私が副会長として関与している「藝術学関連学会連合」(藝関連)の第9回公開シンポジウムが、7日の土曜日、東京国立近代美術館で開かれました。「藝術の腐葉土としてのダークサイド」という、一種奇抜なテーマを掲げたこのシンポジウム。チラシには、「老い・倦怠・挫折・過疎・・・・文明的生の腐葉土を滋養に換え、アートは芽吹いている」というなかなかの文章が載っています。まさに「野心的」(西村清和会長)なテーマです。
この日は大雨で、ICUから「警報が出ていますが授業は実施します」という連絡が回ったほど。受講者の数を心配しながら、委員会を終えて会場に向かいました。着いたのがちょうど、午後1時になってしまいました。
地下の会場に降りてみると、受付の学生さんとパネリストの方々がおられるだけで、がらんとしています。少ないとは思ったが、まさかゼロとは。これは、究極の内輪向けシンポジウムだな・・・と覚悟を決めたところ、開始は1時半と判明。なんとか、一定数のお客様を確保できました。
藝関連のホームページにもレジュメが載りますので、全部は紹介いたしませんが、面白かったですね。とくに美術史学会・山本聡美さんの「醜い身体--日本中世仏教絵画における病と死」という発表は、仏教経典における因果応報思想と図像との関連が克明にたどられていて、バッハを考える上で、とても参考になりました。律法における病死への考えをどう克服してゆくかが、イエスの課題であったと同時に、バッハの問題意識でもあったと思うからです。
東洋音楽学会・ジェラルド・グローマーさんの「瞽女--差別と芸能」という発表も、かつて私のもとでいい卒論を書いた学生がいたことを思い出し、胸に迫るものがありました。外国人が古文書に分け入って行う研究、たいしたものですね。
最後、5分間の閉会スピーチをする役割が回ってきました。皆さんへのお礼とともに上記のことも述べたいと思い、シミュレーションもして前へ出たのですが、私としたことが、しゃべることを忘れ、しばし立ち往生してしまったのです。いわゆる「頭が真っ白」の状態。この期に及んで、人前で上がるとは思いませんでした。次回はメモを取ります。
神保町で打ち上げ。疲れてしまい、二次会は失礼しました。
この日は大雨で、ICUから「警報が出ていますが授業は実施します」という連絡が回ったほど。受講者の数を心配しながら、委員会を終えて会場に向かいました。着いたのがちょうど、午後1時になってしまいました。
地下の会場に降りてみると、受付の学生さんとパネリストの方々がおられるだけで、がらんとしています。少ないとは思ったが、まさかゼロとは。これは、究極の内輪向けシンポジウムだな・・・と覚悟を決めたところ、開始は1時半と判明。なんとか、一定数のお客様を確保できました。
藝関連のホームページにもレジュメが載りますので、全部は紹介いたしませんが、面白かったですね。とくに美術史学会・山本聡美さんの「醜い身体--日本中世仏教絵画における病と死」という発表は、仏教経典における因果応報思想と図像との関連が克明にたどられていて、バッハを考える上で、とても参考になりました。律法における病死への考えをどう克服してゆくかが、イエスの課題であったと同時に、バッハの問題意識でもあったと思うからです。
東洋音楽学会・ジェラルド・グローマーさんの「瞽女--差別と芸能」という発表も、かつて私のもとでいい卒論を書いた学生がいたことを思い出し、胸に迫るものがありました。外国人が古文書に分け入って行う研究、たいしたものですね。
最後、5分間の閉会スピーチをする役割が回ってきました。皆さんへのお礼とともに上記のことも述べたいと思い、シミュレーションもして前へ出たのですが、私としたことが、しゃべることを忘れ、しばし立ち往生してしまったのです。いわゆる「頭が真っ白」の状態。この期に及んで、人前で上がるとは思いませんでした。次回はメモを取ります。
神保町で打ち上げ。疲れてしまい、二次会は失礼しました。
木を見るか、森を見るか ― 2014年05月25日 17時44分42秒
最近若い研究者の方とお話しする機会があり、そのさい標記の話題を提供しましたので、ここにも書いておきます。
よく、「木を見て森を見ず」というたとえが語られます。視野は広く持つべし、との意で、私がよく使う言葉で言えば、「大局観」の重要性を語ったものです。
しかし私は若い方々に、むしろ「まず木を丹念に見よ、しかるのちに森を見よ」と述べたいと思います。その人の大きなテーマが森だとしますと、若いうちは、個々の木の丹念な研究を積み重ねる。木のことがよくわかってくるにつれて、森に対する視点が、しだいに開かれてゆく。かなりの歳月が必要でしょうが、その上に立って形成される森への視点は、強固にして確実です。
なぜこのように申し上げるかと言いますと、若い人が木をスルーして森を論じようとする傾向が、最近強いように思えるのですね。大きなテーマを、特定の視点を定めて、かっこよく切っていこうとする。基礎研究を省略して大きな視点を構築しようとすると、研究はおしなべて、イデオロギーになってしまいます。初めに結論ありきで、都合のいい資料だけを取り出してつじつまを合わせていくようになりやすいからです。
「木を見て森を見ず」といういましめは、たくさんの木を見ている人に対する激励として、理解したいと思います。
よく、「木を見て森を見ず」というたとえが語られます。視野は広く持つべし、との意で、私がよく使う言葉で言えば、「大局観」の重要性を語ったものです。
しかし私は若い方々に、むしろ「まず木を丹念に見よ、しかるのちに森を見よ」と述べたいと思います。その人の大きなテーマが森だとしますと、若いうちは、個々の木の丹念な研究を積み重ねる。木のことがよくわかってくるにつれて、森に対する視点が、しだいに開かれてゆく。かなりの歳月が必要でしょうが、その上に立って形成される森への視点は、強固にして確実です。
なぜこのように申し上げるかと言いますと、若い人が木をスルーして森を論じようとする傾向が、最近強いように思えるのですね。大きなテーマを、特定の視点を定めて、かっこよく切っていこうとする。基礎研究を省略して大きな視点を構築しようとすると、研究はおしなべて、イデオロギーになってしまいます。初めに結論ありきで、都合のいい資料だけを取り出してつじつまを合わせていくようになりやすいからです。
「木を見て森を見ず」といういましめは、たくさんの木を見ている人に対する激励として、理解したいと思います。
練習は嘘をつかない ― 2013年10月25日 13時50分11秒
マレイ・ペライアのすばらしいコンサート(批評を出します)から帰り、プロ野球ドラフトの結果を知りました。ドラフトで一番大事なことは巨人がいい選手をとれないことだと思っていますので、パ・リーグにたくさんいい選手が入り、広島にもいい選手が入った今年は、大満足です。
でも一位が活躍するとはかぎりませんよね。ヤクルトの小川も楽天の則本も、二位の成功例です。伸びる、頭角を現すというのは、どんな条件によるのか。人との出会いとか故障など運の要素も多分にあるでしょうが、それも込みで、その人のやり方と考えるべきではないかと思います。
定年になってから、若い人の勉強の仕方などを、以前より広い立場で見るようになりました。研究の場合でしたら間違いなく言えるのは、たくさん勉強した人が勝つ、という法則です。野球で「練習は嘘をつかない」というのと同じでしょうか。
勉強の量はかける時間と相関しますが、短い時間にたくさん勉強できる人は、掛け算で量が増えていきます。それは能力だとも言えますが、その前に、集中力と考えるべきでしょう。集中力は、意志や責任感とかかわり、対象への意欲とかかわります。面白いと思えることをやっていれば、意欲は大きく高まるわけです。
卒論・修論を必ず成功させる秘訣は読む人に「よく勉強した」と思わせることだ、といつも申し上げていますが、それは上記のような意味で、勉強の量とかかわります。量を増やす、いろいろな方法があることでしょう。
でも一位が活躍するとはかぎりませんよね。ヤクルトの小川も楽天の則本も、二位の成功例です。伸びる、頭角を現すというのは、どんな条件によるのか。人との出会いとか故障など運の要素も多分にあるでしょうが、それも込みで、その人のやり方と考えるべきではないかと思います。
定年になってから、若い人の勉強の仕方などを、以前より広い立場で見るようになりました。研究の場合でしたら間違いなく言えるのは、たくさん勉強した人が勝つ、という法則です。野球で「練習は嘘をつかない」というのと同じでしょうか。
勉強の量はかける時間と相関しますが、短い時間にたくさん勉強できる人は、掛け算で量が増えていきます。それは能力だとも言えますが、その前に、集中力と考えるべきでしょう。集中力は、意志や責任感とかかわり、対象への意欲とかかわります。面白いと思えることをやっていれば、意欲は大きく高まるわけです。
卒論・修論を必ず成功させる秘訣は読む人に「よく勉強した」と思わせることだ、といつも申し上げていますが、それは上記のような意味で、勉強の量とかかわります。量を増やす、いろいろな方法があることでしょう。
記憶を語るシンポジウム ― 2013年06月10日 08時13分25秒
15学会の協力による藝術学関連学会連合第8回公開シンポジウム「芸術と記憶」が、6月8日(土)、大阪の国立国際美術館で開かれました。立派な美術館ですね。地下に降りてゆく建物ですが、採光も申し分ないですし、広々とゆとりのある展示は、日本とは思われないほどです。
セッション2つ、パネリスト各4人の、なかなか大がかりなシンポジウムになりました。日本音楽学会からは沼野雄司さんがパネリストとして参加されましたが、この第2セッション、「記憶と創造」が、出色の面白さでした。沼野さんの「前衛音楽における形式と記憶」という発表は、音楽における記憶の役割の基礎論から始まり、前衛音楽におけるその変容と発展に議論が及んで、記憶の本質論と照らし合わせつつ締めくくられる、という白眉のもの。高度な内容がぎっしり整理して展開され、一語ももらさず傾聴して、勉強になりました。進んで発表を買って出てくださり、少しも誇るところのない沼野さんのお人柄に、感銘を受けました。
桑木野幸司さん(美術史学会)の「初期近代西欧の芸術文化における創造的記憶」という発表も独創性と大局観を兼ね備えていてすばらしく、山﨑稔惠さん(服飾美学会)の「服飾における触覚の記憶-『ユルスナールの靴』をめぐって-」という機微に分け入った発表には、じーんと感銘を覚えました。
終了後、新装なったフェスティバル・ホールのお店で打ち上げ。おいしいワインがあり、楽しく盛り上がりました。まだあまり知られていないシンポジウムですが、たいへん意義があると思いますので、役職のある間、協力を惜しまぬつもりです。
セッション2つ、パネリスト各4人の、なかなか大がかりなシンポジウムになりました。日本音楽学会からは沼野雄司さんがパネリストとして参加されましたが、この第2セッション、「記憶と創造」が、出色の面白さでした。沼野さんの「前衛音楽における形式と記憶」という発表は、音楽における記憶の役割の基礎論から始まり、前衛音楽におけるその変容と発展に議論が及んで、記憶の本質論と照らし合わせつつ締めくくられる、という白眉のもの。高度な内容がぎっしり整理して展開され、一語ももらさず傾聴して、勉強になりました。進んで発表を買って出てくださり、少しも誇るところのない沼野さんのお人柄に、感銘を受けました。
桑木野幸司さん(美術史学会)の「初期近代西欧の芸術文化における創造的記憶」という発表も独創性と大局観を兼ね備えていてすばらしく、山﨑稔惠さん(服飾美学会)の「服飾における触覚の記憶-『ユルスナールの靴』をめぐって-」という機微に分け入った発表には、じーんと感銘を覚えました。
終了後、新装なったフェスティバル・ホールのお店で打ち上げ。おいしいワインがあり、楽しく盛り上がりました。まだあまり知られていないシンポジウムですが、たいへん意義があると思いますので、役職のある間、協力を惜しまぬつもりです。
ハードル越え ― 2013年05月20日 22時36分22秒
1年に1ぺんぐらいの割で、高いハードルがやってきます。今年のそれは、19日(日)の日本音楽理論研究会で「ワーグナーにおけるドミナントの拡大」と題する研究発表をすることでした。
友人の見上潤さんから発表を打診されたとき、とりあえずお受けしたのは、問題意識としてもっていた上記のテーマを、ちゃんと研究してみたいな、と思ったから。しかしよく考えてみると、この研究会は島岡譲先生を源流とする音楽理論プロパーの集まりで、高度な専門性をもつこと、折り紙付きなのです。そうした場で和声を論ずるなどということは僭越にもほどがある、と思えてきました。
その歳で恥をかかなくてもいいんじゃないか、とささやく内心の声あり。和声は昔それなりに勉強したのですが、最近の方法論には触れておらず、その精緻な記号体系にも不案内です。よほと辞退しようと思ったのですが、一度引き受けたことだし、自分の勉強になることなので、何とかやり遂げよう、と決心しました。
このことが、1年間、ずっと重く心にのしかかっていました。勉強を始めなければ、と思うのですが、発表が近づくのに、まとまった時間が取れません。ともあれ少しずつ準備を始め、五線紙に楽譜を書いて種々分析も行い、ほぼ2週間前に、完全原稿を完成。それから見上さん、今野哲也さんのご助言もいただいて、改訂稿を積み重ねました。やっているうちに面白くなり、何とかいけるのではないか、という気持ちにもなってきました。和声論に終始しては力及びませんので、ワーグナーの音楽論、作品論と結びつけるべく務めました。
さて本番。重鎮が居並ぶなかで行われた見上さんの発表は、完璧に記号化された譜面を配り、《トリスタン》の和声を、縦横にピアノを弾きながら説明するもの。自分は場違い、という思いが何度も頭をもたげました。でももう仕方がないので開き直り、準備してきた内容で、プレゼンテーションにベストを尽くしました。
発表が至らぬものであることは自分が一番良くわかっていますので、勘違いはしていません。しかし皆さん好意的に受け止めてくださり、アドバイスもいただけた上にディスカッションもはずんだので、本当に、やって良かったと思いました。「楽譜をよく見ている」とおっしゃってくださった方が何人もあり、分析に対して、新たな意欲が湧いてきました。
重荷を下ろして気分爽快。打ち上げでは、先生方と共にさまざまなことを、楽しく論じ合いました。尊敬する島岡先生が相変わらず聡明そのものでいらっしゃることが、嬉しい驚きでした。
友人の見上潤さんから発表を打診されたとき、とりあえずお受けしたのは、問題意識としてもっていた上記のテーマを、ちゃんと研究してみたいな、と思ったから。しかしよく考えてみると、この研究会は島岡譲先生を源流とする音楽理論プロパーの集まりで、高度な専門性をもつこと、折り紙付きなのです。そうした場で和声を論ずるなどということは僭越にもほどがある、と思えてきました。
その歳で恥をかかなくてもいいんじゃないか、とささやく内心の声あり。和声は昔それなりに勉強したのですが、最近の方法論には触れておらず、その精緻な記号体系にも不案内です。よほと辞退しようと思ったのですが、一度引き受けたことだし、自分の勉強になることなので、何とかやり遂げよう、と決心しました。
このことが、1年間、ずっと重く心にのしかかっていました。勉強を始めなければ、と思うのですが、発表が近づくのに、まとまった時間が取れません。ともあれ少しずつ準備を始め、五線紙に楽譜を書いて種々分析も行い、ほぼ2週間前に、完全原稿を完成。それから見上さん、今野哲也さんのご助言もいただいて、改訂稿を積み重ねました。やっているうちに面白くなり、何とかいけるのではないか、という気持ちにもなってきました。和声論に終始しては力及びませんので、ワーグナーの音楽論、作品論と結びつけるべく務めました。
さて本番。重鎮が居並ぶなかで行われた見上さんの発表は、完璧に記号化された譜面を配り、《トリスタン》の和声を、縦横にピアノを弾きながら説明するもの。自分は場違い、という思いが何度も頭をもたげました。でももう仕方がないので開き直り、準備してきた内容で、プレゼンテーションにベストを尽くしました。
発表が至らぬものであることは自分が一番良くわかっていますので、勘違いはしていません。しかし皆さん好意的に受け止めてくださり、アドバイスもいただけた上にディスカッションもはずんだので、本当に、やって良かったと思いました。「楽譜をよく見ている」とおっしゃってくださった方が何人もあり、分析に対して、新たな意欲が湧いてきました。
重荷を下ろして気分爽快。打ち上げでは、先生方と共にさまざまなことを、楽しく論じ合いました。尊敬する島岡先生が相変わらず聡明そのものでいらっしゃることが、嬉しい驚きでした。
尽きない発見 ― 2013年04月03日 11時25分26秒
私がゲスト音楽監督を務めている合唱団CANTUS ANIMAEの《ロ短調ミサ曲》、準備が進んできました。バッハの実践にならってコンチェルティスト方式を採ることにし、コンチェルティストには、いっしょに勉強してくれる人ということで、くにたちiBACHコレギウムのメンバーを選んでいただきました。コンサートミストレスの大西律子さんのもと、ピリオド楽器のメンバーもあらかた揃い、合唱団は早くも盛り上がっています(公演は来年3月29日)。
3月末日の日曜日は、〈グローリア〉に関して私が講演し、そのあとテスト演奏、解釈に関するディスカッションを行いました。野球で言えばGMと監督(指揮者の雨森文也さん)が綿密に意見交換するようなもので、なんともありがたい信頼関係です。
このために、私は、かなり時間をかけて準備しました。プレゼンテーションに凝ったからばかりではありません。ヴォルフ先生の訳書(おかげさまで増刷になりました)を作るさい、またiBACH公演に向けて、相当勉強したつもりでしたが、今になって気づくことが次々と出てくるのです。
それは主として、「この曲はなぜこうなっているのか」を説明しようとするときに、見えてきます。実践家を対象にお話しするさいには、演奏の指針を示す必要がありますから、音楽学的な知識の切り売りで済ませるわけにはいきません。だからこそ、自分にとってたいへん勉強になることだと感じています。
ひとつ実例を挙げたいと思いますが、長くなりますので、明日更新します。
3月末日の日曜日は、〈グローリア〉に関して私が講演し、そのあとテスト演奏、解釈に関するディスカッションを行いました。野球で言えばGMと監督(指揮者の雨森文也さん)が綿密に意見交換するようなもので、なんともありがたい信頼関係です。
このために、私は、かなり時間をかけて準備しました。プレゼンテーションに凝ったからばかりではありません。ヴォルフ先生の訳書(おかげさまで増刷になりました)を作るさい、またiBACH公演に向けて、相当勉強したつもりでしたが、今になって気づくことが次々と出てくるのです。
それは主として、「この曲はなぜこうなっているのか」を説明しようとするときに、見えてきます。実践家を対象にお話しするさいには、演奏の指針を示す必要がありますから、音楽学的な知識の切り売りで済ませるわけにはいきません。だからこそ、自分にとってたいへん勉強になることだと感じています。
ひとつ実例を挙げたいと思いますが、長くなりますので、明日更新します。
圧巻のBach Digital ― 2013年04月01日 22時41分57秒
情報がタダになるのは弊害も大きいと事あるごとに言っている私ですが、やはり、探す、注文する、買う、足を運ぶ、といった面倒なしに、いながらに情報を手にできる便利感は絶大。わがGoogle Chromeのブックマーク・バーには、Choral Wiki、IMSLP/Petrucci Music Library、Bach Digitalの3つのブックマークがあり、常時クリックされています。第1のサイトから声楽曲の楽譜や歌詞、第2のサイトから種々の楽譜、第3のサイトからバッハのオリジナル資料を参照するのです。
中でも、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒとベルリン国立図書館、ライプツィヒ大学、ザクセン州立図書館が共同して行っている「バッハ・デジタルBach Digital」プロジェクトのすばらしさには、目を見張るばかり。バッハ作品の自筆譜や筆写譜が、カラーの鮮明かつ美麗な画像で閲覧できるのです。たとえば《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ロ短調ミサ曲》といった主要作品の自筆総譜はもちろん、パート譜までもが、すべて公開されています。今年に入ってから、急速度で公開が進んだという印象です。
ベルリン国立図書館の所有するバッハのオリジナル資料は、従来マイクロフィルムで市販されていました。私が大学の図書館長をしているときにそれを買うか買わないかという話になり、100万円を超える価格では手が出ないと、泣く泣くあきらめた記憶があります。
以来、必要があると芸大の図書館に見に行っていましたが、白黒のマイクロフィルムは不鮮明で、目を皿のようにしても、細部は判別できません。それがカラーの大画像を自宅で見られるようになるとは、なんというありがたい変化でしょう。高価なファクシミリだって、買わなくてもよくなります。バッハのオリジナル資料の保存には大金が投じられているので、そのあたりの収支が心配にはなるのですが・・・。
Bach Digitalで検索し、サーチ画面を出せば、あとはBWV番号を入れるだけです。お試しください。2つ閲覧ソフトがあり、下の方を使うとダウンロードも可能です。
中でも、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒとベルリン国立図書館、ライプツィヒ大学、ザクセン州立図書館が共同して行っている「バッハ・デジタルBach Digital」プロジェクトのすばらしさには、目を見張るばかり。バッハ作品の自筆譜や筆写譜が、カラーの鮮明かつ美麗な画像で閲覧できるのです。たとえば《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ロ短調ミサ曲》といった主要作品の自筆総譜はもちろん、パート譜までもが、すべて公開されています。今年に入ってから、急速度で公開が進んだという印象です。
ベルリン国立図書館の所有するバッハのオリジナル資料は、従来マイクロフィルムで市販されていました。私が大学の図書館長をしているときにそれを買うか買わないかという話になり、100万円を超える価格では手が出ないと、泣く泣くあきらめた記憶があります。
以来、必要があると芸大の図書館に見に行っていましたが、白黒のマイクロフィルムは不鮮明で、目を皿のようにしても、細部は判別できません。それがカラーの大画像を自宅で見られるようになるとは、なんというありがたい変化でしょう。高価なファクシミリだって、買わなくてもよくなります。バッハのオリジナル資料の保存には大金が投じられているので、そのあたりの収支が心配にはなるのですが・・・。
Bach Digitalで検索し、サーチ画面を出せば、あとはBWV番号を入れるだけです。お試しください。2つ閲覧ソフトがあり、下の方を使うとダウンロードも可能です。
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