腹を決めて ― 2008年04月25日 16時14分11秒
最近、新聞批評の対象に恵まれていました。いい公演だと、このすばらしさと何としても伝えようと考えて、気合いが入る。必然的に、心のこもった批評が書けます。喜んでくださった方も、おられると思います。
しかし、いいことばかりは続きません。久しぶりに、これはダメだ、というものに当たりました。それどころではない。公演の方向性にがまんができず、激怒の状態。もちろんメジャーな、注目度の高い公演です。きっと、面白がる人も多かったことでしょう。さて、これをどう書くべきか。
そこでわかりました。批評の真価は、こうしたネガティヴな場合にこそ発揮される、と。どこまでを、どのように書くべきか。あいまいな形では自分の良心が許さないが、時代や流行にあらがって酷評に踏み込む自分は、果たして正しいだろうか。ずいぶん困り、ずいぶん考えました。
授業の間を縫ってぎりぎりまで作業し、完成稿を送りました。はっきり書き、責任は自分で取る、という道を選びました。掲載は来週初めかと思います。
コメント
_ BIN★ ― 2008年04月27日 03時15分25秒
_ I教授 ― 2008年04月28日 22時12分40秒
本日夕刊に掲載されました。この件については、また、折を見て。
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評価がネガティヴな場合、怒りと折り合いをつけるのがもっとも困難。モンテーニュは、エセーのなかで、『怒りほど判断の公正さを揺り動かす情念はない』と言い切っています。『怒っているときには、命令をくだすのは情念であり、ものを言うのは情念なので、われわれではない。怒りを通して見ると、過失は、ちょうど靄を通して物体を見るようにわれわれにより大きく見える。飢えた者は食物をとればいい。しかし、懲罰を加えようとする者は、それに飢えていても乾いていてもいけない』と。
今日、明治の画家・暁斎の展示会を見てきましたが、頭から時代におもねない陽気さと気骨を見せ付けられてきました。野卑という気もしますが、こういうユーモアにつつまれると笑うしかありません。
迷うことなく、陽気にすっぱり切られたら、読むほうも心の整理がつくのではないでしょうか。
来週の初め・・・ですか・・・。