学術論文の条件 ― 2008年03月02日 22時51分46秒
2月13日のブログで、「学術論文として認められるためにはどんなことが必要か」についてそのうち書く、と予告しました。今日はそのお話です。
特定の作曲家、特定のジャンル、特定の楽器などについて、ものすごく詳しい方がよくおられます。論文を書いたので読んでほしい、学会に投稿したいがどうだろう、という熱心なご相談も、時折ある。そんな場合、ぜひ踏まえておいていただきたいのは、次のようなことです。
好きな対象について考えているとき、こうではないだろうか、というアイデアがひらめく。ベートーヴェンの不滅の恋人はこの人ではないだろうかとか、この出来事がモーツァルトの死と関係があるのではないかとか、いろいろな場合が考えられるでしょう。それから、資料や文献の探索が始まり、論文へと発展してゆきます。それは当然、自説の論証、という色彩を帯びてきます。
その際、けっしてやってはいけないことがあります。それは、自分の仮説に都合のいい文献や資料だけを集め、都合の悪いものは排除して論文を構築することです。私は日頃からそれはいけない、と学生に注意していますが、後を絶たず、起こる。不都合な資料を入れると論旨が弱くなる、だから触れずにおこう、と考えるようです。
それは、まったく逆。別方向を向いているように思える資料や文献を採り入れ、それを比較考量してから結論に向かうようにすれば、著者の厳正で客観的な態度が示され、立論の信頼性が大幅に増すのです。著者の自己批判によって慎重に吟味された論述であることが伝えられるからです。それだと100%の主張ができない、70%になってしまう、というのであれば、こういう理由で70%そう考えられる、と書けばいいのです。
センセーショナルな新説は、往々にして、都合のいい資料の、都合のいい解釈によって主張されます。それが面白がられることもあるわけですが、一方的な記述になっていないかどうか、警戒して読むべきだと思います。
《シャコンヌ》の祭典 ― 2008年03月03日 23時32分08秒
3月のご案内、その1です。
3月12日(水)の19:00から相模大野グリーンホールで、「バッハの宇宙」シリーズの最終回として、「シャコンヌの祭典」と題するコンサートを開催します。バッハの《シャコンヌ》を主役に、その原曲と種々の編曲を楽しもう、という趣旨のコンサートです。プログラムは以下の通り。
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ短調BWV1004全曲 川原千真 チェンバロのための《シャコンヌ》 大塚直哉(編曲、演奏) ヴァイオリンとピアノのための《シャコンヌ》 メンデスルゾーン編曲、平澤仁(ヴァイオリン) 竹村浄子(ピアノ) ギターのための《シャコンヌ》 福田進一(編曲、演奏) 4つのヴィオラのための《シャコンヌ》 野平一郎編曲、坂口弦太郎、岡さおり、丸山奏 他
さまざまな形態を通じて、《シャコンヌ》の名曲たるゆえんを浮き彫りにしたいと思います。いらしてくださる方は、メールをくださるようお願いします。前売り3150円です。
シフ、神業の《パルティータ》 ― 2008年03月04日 22時24分34秒
いまいずみホール(大阪)で、アンドラーシュ・シフによるバッハ《パルティータ》全曲を聴き終わったところです。6曲を黙々と弾き続けて、終了9時半。満場熱狂の幕切れになりました。
9年ぶりの、シフの公演。《パルティータ》全曲ではチケットが売れないのではないか、と危惧するスタッフもいました。ところが発売即売り切れで、争奪戦の様相に。やはり皆様、よくわかっておられます。前半に第5番、第3番、第1番、第2番の4曲。後半には第4番、第6番が並べられ、わかりやすい第1番が、絶妙のタイミングで登場しました。シフの頭には全部の曲が完璧に入っており、配慮の届かない音符は1つもなかったと思います。
ピアノで弾くバッハの最高峰は、という問いに、現在ならシフ、と言下に答える私ですが、そのことが立証されるコンサートでした。《パルティータ》では、バッハ特有の線的ポリフォニーが、かなり複雑に絡み合います。そのすべての声部に、血の通った生命力がゆきわたっている。そして、端然と息づくポリフォニーの中から、思いがけない旋律が、音型が、花開くごとくに浮かび出てきます。さまざまな発見に満ちた、新鮮な演奏なのです。アーティキュレーションも理にかなっており、古楽の耳でも、違和感なく聴ける。構成力も卓抜で、曲尾のジーグが、《平均律》のフーガさながらに盛り上がりました。
自由度が最高に達した第6番が、当夜の白眉。こういう演奏を、ピアノの方々に、たくさん聴いていただきたいですね。ちなみにシフの足はペダルから遠く離れて置かれ、ただの一度も、そこに触れることはありませんでした。
古楽100%の《ヨハネ》 ― 2008年03月05日 23時46分15秒
2月25日、紀尾井ホールで、ヨス・ファン・フェルトホーヴェン指揮、オランダ・バッハ協会合唱団・管弦楽団による《ヨハネ受難曲》を聴きました。「合唱団」とあるが、リフキン方式により、「合唱」は4人のソリスト(コンチェルティスト)と、4人の補充歌手(リピエニスト)のみ。弦も1本ずつで、考えられるかぎりの小編成です。旧知のピーター・デュルクセン(オルガンを弾いていた人)による1724年初演バージョンが使われましたが、これはしっかりした研究に基づくものでした。
リフキン方式の可能性を探る意味でも注目した公演ですが、声楽・器楽ともにこれだけレベルが高いと、貧弱な感じは受けません。冒頭合唱曲も、抜けるように透明な協和音と鋭くきしむ不協和音の対比によって、立派に大きさを出していました。しかし追求されるのはあくまでも室内楽的なコンセプトで、きめ細かさ、統一性の高さは、たいしたものです。
ずらりと並んだ合唱団による演奏にはもう戻れないなあ、などと感心しつつ聴きましたが(客席も大いに沸きました)、にもかかわらず感動できないのはなぜだろう、という疑問も、ずっと心から離れませんでした。申し分のない、古楽様式。しかし主役は、「イエスの受難」ではなかったようです。
錦まつり2008 ― 2008年03月06日 23時47分26秒
3月16日(日)は、毎年恒例の錦まつりコンサート--「楽しいクラシックの会」がお借りしている立川市錦町の地域学習館で開かれるお祭りに、会が出品するコンサート--の日です。ここ数年、「~って面白い!」というタイトルのシリーズで、いろいろな楽器を採り上げてきました。今年はヴィオラで、将来が期待される優秀なヴィオラ奏者、坂口弦太郎さん(N響)が出演されます。
お茶やお菓子の出る気楽なコンサートなのに、充実した本格的なプログラムを用意してくれました。しかも、入場無料!ぜひ覗いてください。コンサートは14時からですが、10時から例会を催します。今月は「フランス音楽の愉しみ」と題して、シャルパンティエ、ドラランドあたりの作品をご紹介する予定です。
「ヴィオラって面白い!」プログラム
1.シューマン:アダージョとアレグロ 作品70 2.日本の歌曲より
(休憩)
3.ブラームス:アルト独唱、ヴィオラとピアノのための2つの歌作品91
第1曲 静められた憧れ 第2曲 宗教的な子守歌
4.シューベルト:アルペッジョーネ・ソナタイ短調
ヴィオラ:坂口弦太郎、ピアノ:元井美幸、アルト:北條加奈
改宗と言われても・・ ― 2008年03月08日 23時06分30秒
書き込みをたくさんいただき、にぎやかになってきました。ありがとうございます。
パソコン業界の構造については、暗黙のうちに知られていたことかと思いますが、はっきり言っていただくと、不合理に呆然とします。しかし、もうMacには変われないんですよ。Windows95を行列して購入して以来、つねに一番乗りでOSをグレードアップし、周辺にいるMac派の羊たちを威圧・迫害して、今日に至っているのですから。
職場のマシンはまだXPですが、XPはたしかに、拍子抜けするほど軽く感じられます。先日知人から、Vistaへの乗り換えも考えているが、ここは良かった、ということは何か、と聞かれました。しかし考えてみると、ひとつも浮かんできません。ガジェットは使っていないし、検索が速いといっても、グーグル・デスクトップとかあるわけだし、ユーティリティだの何だのは、オンラインソフトでどんどん改良してしまっているし・・。それなら、OSの進化は、こんなにコンパクトで、こんなに速く動かせるようになった、という方向で計られるべきではないでしょうか。XPへのダウングレードも、考えてみたいと思います。
G-Mailへの転送によってメールの喪失が一定部分防がれた、というお話をしました。皆様にもぜひお薦めします。ところが、両方を見るようになってから、恐ろしいことに気づいたのです。メインのメーラーであるShurikenに入ってくるメールはみなG-Mailに入りますが、G-Mailに入っているのにShurikenには見あたらないメールが、一定数あるのです。ここ数日で緊密にやりとりしたメールの複数が、その状態。転送のシステムのトラブルかもしれませんが、たいへん気になります。
清浄な空間で ― 2008年03月09日 22時55分30秒
2月27日(水)には、「バッハの宇宙」シリーズの番外編として、オルガン・コンサートを開催しました。もちろん、相模大野グリーンホールではできませんから、青山学院大学相模原キャンパスのウェスレー・チャペルをお借りすることになりました。
快晴の日。横浜線淵野辺駅に初めて下車。南東の方面に歩き、やや町を離れたころ、眼前に忽然と、豪華な建築群があらわれます。これが相模原キャンパス。すごいですねえ。いま大学はどこも学生減で四苦八苦していますから、よくもこんな立派な校舎が建てられるものだなあ、と、素朴に感心。キャンパス中央にあるチャペルがまた優雅のきわみで、美しいステンドグラスに彩られています。
これだけ清浄な空間だと、罪深い自分がステージに上っていいのかと、まことに恐れ多い気持ちになります。聞くところでは青山学院の起点にあるメソジストという流派は、生活を律し、悔い改めの精神をもつことを尊重するとか。たしかに、そんな気持ちになりました。このちょっと浮世離れのした空間にしつらえられたデンマークのオルガンを使って、コンサートは行われました。
演奏家は、専属オルガニストの筒井淳子さん。リハーサルのときから、歴然と緊張しておられます。まじめで折り目正しい、その意味では場にふさわしい方なのです。あとでお聞きしたところでは、緊張のあまり、花粉症が治ってしまわれたとか。出演者と解説者の緊張の総量はどうやら一定であるらしく、筒井さんが緊張してくださればくださるほど、私はリラックスしてお話しできました。
《トッカータ、アダージョとフーガ》、私の好きなニ短調のトリオ・ソナタ、《パッサカリア》に2曲のコラールを加えたコンサートは、清潔感あふれる筒井さんの演奏で、気持ちのいいひとときになりました。オルガンの実演は、見てとても面白いものです。対話の中でストップの説明や比較を行っていただいたことも、いい勉強になりました。バッハのためにも、オルガンのコンサートがポピュラーになるといいと思います。
「さ」は必要? ― 2008年03月10日 23時20分11秒
皆様、ブログを「きちっと」読んでくださっていますか。当欄で書いて以降も注意していますが、「きちっと」がやはり優勢ですね。トレンドはこちらのようです。私は使えませんが・・。
言葉の用法というのは、当然ながら自分の誤用は気づかず、人様のものばかりが気になる、という性質のものです。私の誤用も、恥をかかないうちにぜひご指摘ください。「的を得た」(射たの誤用)というのも、ご指摘いただくまで気がつきませんでしたから。
という前提で、私がたいへん気になる、しかも数多い用法について。それは、「やらさせていただく」「行かさせていただく」「書かさせていただく」という言い方です。(変換していたら、ATOKが「さ入れ表現」と指摘しました。ひとつのカテゴリーなんですね。)私には、「やらせていただく」「行かせていただく」「書かせていただく」でなければおかしい、という感覚が、身体に染みこんでいる。でも「さ」を入れる方は相当に多く、職場でもよく出会います。年長者にもおられるので、地域がかかわっているのかな、とも思いますがどうなんでしょうか。
もうひとつは、「昨日長野に行ってきました」「そうでいらっしゃいますか」というパターン。女性によくあります。でも、「そうですか」でないと、長野に行くことを尊敬することになってしまうと思うのですが、いかがでしょう。それとも、上位の丁寧表現として、これまた定着しつつあるのでしょうか。
切れ味のいい文章 ― 2008年03月11日 22時55分37秒
本や雑誌を読んでいて、「ムム、できるな!」と思うことがあります。いつぞや、週刊文春の女性政治家に関する記事を読んでいたら、切れ味のいい文章力で前後にきわだった寄稿がありました。著者は、横田由美子さんという方。本屋で『ヒラリーをさがせ!』(文春新書)という本を見つけたので、さっそく購入しました。
これが、圧倒的に読ませる。日本の女性政治家に取材し、それぞれの人となりや活動の仕方、彼女たちを取り巻く状況について書いているわけですが、細かなところまで観察した上で、目に映る長所も短所も、遠慮なく言葉にする。そこまで書かれたくない、と思う人も多いことでしょう。しかし、けっして貶めてはいないのです。突っ込んで描くことを通じて、対象のたぐいまれな個性やその不思議な魅力が、しっかり伝わってくる。そして、長所の裏にある短所、短所の裏にある長所を、かならず見ている。私が感心するゆえんです。音楽の世界でもここまで書いたら面白いでしょうが、勇気と手腕と愛情が、相当なレベルで必要ですね。
あとがきに、日本の女性政治家には良い意味でも悪い意味でも権力に対する強い固執が感じられない、と書いてありました。アメリカのご本尊は、この点すごいですね。報道によると、対抗馬になりふりかまわぬネガティブ攻撃を仕掛け、相手の側に類似のことが見つかると、「恥を知れ」とキレたとか。こういう人が超大国の「最高司令官」になるのは、ずいぶん怖いことではないでしょうか。
ホールオペラ ― 2008年03月13日 16時00分40秒
ホールオペラがさかんですね。いずみホールでも5月にロッシーニの《ランスへの旅》を出しますが、3月6日にサントリーホールで見たモーツァルト《フィガロの結婚》は、見事なものでした。
コンサートホールでオペラを、というのは、不自由を承知で名曲を聴きたい、というところから始まったと思います。初期にはほとんど、演奏会形式に近かった。しかし最近は著しく発展し、むしろ劇場以上に自由な創意工夫が行われている印象があります。今回の《フィガロ》がまさにそうで、スピーディーなイタリア喜劇を愉しみました。
11日の毎日新聞に賛辞を書きましたので、ここではごく簡単に。指揮者ルイゾッティの生き生きした表現と縦横無尽のフォルテピアノがすばらしく、セッコがこれほど面白く感じられた《フィガロ》は初めてです。キャスティングも、完璧。5人の主役は、上昇中の旬の歌い手を、イメージぴったりに揃えていましたし、脇役も劣らず練達で、みごとな支えになっていました。この人選とプロデュース能力は、さすがサントリー。脱帽です。(バルトロを歌ったカプアノの大ファンになりました。)
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