独学 ― 2008年07月13日 22時54分46秒
花岡千春さんが、清瀬保二(1900-81)のピアノ独奏曲の全曲(!)録音を発表されました。ベルウッドからの2枚組です。
ぽつりぽつりと抒情を語る趣のスケッチ風小品は、どの曲もごくごく簡素、木訥。こうした小品を味わい深く演奏し、どの曲からも独特の光を引き出す花岡さんの見識に脱帽します。
リーフレットの中に、「独学とは、自分が自分の作品の批評家にならなければならないことである」という清瀬の言葉が引用されていました。はっとする言葉でした。
私自身、音楽研究は独学だという意識をもってやってきました。こう書くと、すばらしい先生方の教えを受けながらなんということを言うか、というお叱りを受けそうですが、先生方から貴重な教えを受けたということと、私の独学意識は、抵触しません。むしろ、自分自身の力で進もうと悪戦苦闘するという前提が、尊敬する先生方との出会いを導いたと言えると思っています。独学であるがゆえの弱点も、自分としてはさまざまに意識していました。
なぜこんなことを書くのかというと、今の学生さんが、自分自身の力で徹底して考えることを、あまりしないように思えるからです。多くの大学が手取り足取りの親切な教育を標榜し、マンツーマンの指導を行うようになっている。そうなると、自分自身で極限まで詰める前に、先生のところにもっていって教えてもらおう、というスタンスになってしまうのではないでしょうか。
準備した論文草稿なり、翻訳なりを読んでいて、この人は本当にこれでいいと思って持ってきているのだろうか、と思うことがあります。やはり、自分の価値観で磨けるだけ磨き、その上で先生の判定を乞わないと、本当の力はつかないと思う。演奏でもそうですよね。自分の解釈ができていないうちにレッスンにもっていっても、先生の教えを本当には吸収できないと思います。
ですから私は、自分の弟子たちも、みんな基本的には独学していると思っているのです。心配性の方のために注釈。この項目は清瀬に触発されて書いたものであり、ここしばらくの論文指導への不満から書いたものではありません(笑)。
コメント
_ N市のN ― 2008年07月14日 23時15分42秒
_ おおぐま ― 2008年07月14日 23時56分23秒
しかしながら、自分の生徒の試験での演奏を聴くと、自分の指導力が至らないのだろうか、と、悩んでいます。
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ピアノ教育の現場においては、教育する側・受ける側双方、早期に結果を出すことに縛られている場合が多い為か、表現までマニュアル化しているように思います。
「技術」・・・フルトヴェングラーは「科学」という言葉を使っていますが、洞察や必然を伴わない「科学」だけを教え、さて何が残るか?ということですが、残念ながら、世間の評価は「科学」を効率よく教える先生が「よく教える優秀な教育者」と判断する場合が多いようです。
教育を受けた後、最後に残るのは、教育した先生の音・音楽に対する考え方・・・「哲学」の他はないと思います。