うれしいこと ― 2009年02月17日 21時15分07秒
バレンタインデーの日に、いずみホールでは、「バッハ・オルガン作品連続演奏会」の第4夜が開かれました。私はトークで乗るのですが、基本的に導入の解説と、演奏者へのインタビュー(休憩後、ときにはプログラム終了後)で構成しています。インタビューは通訳をしながらですから、立ち往生の危険が常にあり、それなりに緊張してやっています。
本当にうれしいのは、このシリーズにお客様がよく来てくださることです。回を重ねるごとに少しずつ増え、今回は8割を超える、最高の入りとなりました。出演者のアルヴィート・ガストさんは実力者ではありますが知名度は高くありませんし、演奏された曲もブクステフーデ、ベーム、ブルーンスとバッハなので、お客様が大勢来てくださったのは、むしろ不思議なことです。オルガンのコンサートはどこでも集客がむずかしく、最近の不況で難度はいっそう増しているというのが常識ですから、どちらの方角に足を向けて寝たらいいのか、わからないような心境です。
ライプツィヒのバッハ・アルヒーフと提携するとか、クリストフ・ヴォルフ先生に毎回原稿をいただくとか、回ごとにテーマを決めてプログラムに凝るとか、いろいろな工夫はしていますが、シリーズが健闘している最大の要因は、招聘するオルガニストが実力派揃いで、毎回目覚ましい演奏を展開してくれている、ということでしょう。今回のガストさんも技術のしっかりした、大きなフレージングをもつ音楽家でした。
ここからわかるのは、質のいいものを磨き抜いて提供すれば、共感して足を運んでくださるお客様はかならずいる、ということです。集客率が悪くなると、編曲ものなど通俗的な路線を取って食い止めようとする場合がほとんどだと思いますが、オルガンの場合はやっぱりオルガン音楽の本流をなす作品群--たいていは地味なものですが--をきちんと聴いていただくことが、結局は一番大切だと感じます。他の分野のコンサートについても、このことは言えるのではないでしょうか。
インタビューではこちこちに固くなっていた好漢、ガスト氏とビールを酌み交わし、2日連続の終電で、東京に戻りました。
独創的な料理店 ― 2009年02月19日 23時55分04秒
「行きつけのお店」の減少に悩む私ですが、新たに面白いお店を発掘したのでご紹介します。国立駅から大学通りを南に3分ほど歩いた左側のビル3Fにある、「農家の台所」というお店です。
お店自体が、有機野菜の農園風。素朴な若い人たちが、はきはきと迎えてくれます。3800円のコースを頼むと、野菜・魚・肉の比率を選ぶようになっている。私は1回目は5:2:3、2回目(昨日)は4:3:3を選びました。全体に野菜をさまざまに使った独創性あふれる料理が揃っており、色とりどりの有機生野菜をコップに詰めるコーナーも、楽しさいっぱい。一度行ってみてください。
(私とこのお店に行った人は11人いると思いますが、どなたか写真をお持ちではありませんか。もちろん、お店のHPに行けば一発ですけどね。)
今月のCDから ― 2009年02月20日 21時56分26秒
昨日の毎日新聞に、恒例のCDベスト3選が掲載されました。今月は選者3人の選が全部別々で、他の人の選ばれたものの中には、私の手元にないものも何点かありました。補い合った結果だと考えたいと思います。
私が1位にしたのは、アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのハイドン《四季》(DHM)。ハイドンの音楽というといつでもはつらつとして若々しいように思いますが、この演奏はしみじみムード一杯で、老年の味わいがにじみ出る趣。思えば、ハイドンも、作詞者スヴィーテンも、指揮者アーノンクールも、すべて老年ですよね。その意味で、とくに《冬》を、深く聴くことができました。
第2位は対照的に、音楽の化身のような新人を選択。平野花子さんというハーピストで、早稲田大学在学中だそうです。冒頭のバッハ/パルティータ第1番でその的確な様式感に引き込まれ、フランス系の諸曲で優雅さを満喫しました。がんばってください(ライヴ・ノーツ)。第3位は、20絃箏の巨匠、吉村七重さんの「箏歌・蕪村五句」というCDです(カメラータ)。猿谷紀郎、湯浅譲二、西村朗氏らの作品が朗々と演奏されており、新しい表現世界の広がりを味わえます。
経たない時間 ― 2009年02月21日 18時48分28秒
いま、入学試験中です。今日は、朝から全学を挙げて学科の試験をする日。以前は1年中でももっとも緊張する日のひとつでしたが、最近、そうでもなくなりました。ひとつには慣れたためですが、昔に比べると受験生が減ったためでもあります。
「ああ、もうこれで試験を受けなくてもいいんだなあ」と安堵した日のことを、よく覚えています。20代の終わり頃だったでしょうか。それなら、今「ああ、受験生でなくて良かった」という気持ちで感謝しつつ試験監督をやっているかというと、案外、そうでもないのです。
受験生は、いつまでもその気持ちを忘れないで欲しいなあ、と思いたくなるほど、懸命に、純粋に答案に向かっています。それに比べて、監督する方は、退屈の一語で、時間がまったく経たない。歩き回ったり、椅子に座ったりして終了を待つのですが、その間何も、やることがないわけです。もちろん試験中ですから、本を読んだり携帯を使ったりも御法度。受験生のほうが、ずっと充実した時間を過ごしていると思います。
そこから想像するに、懲役刑より禁固刑のほうが辛い、ということはないでしょうか。
新しい課題 ― 2009年02月23日 23時20分08秒
懸案の『カンタータの森』第3巻を出しましたので、次の目標に取りかかる必要が出てきました。ずっと後回しにしていたのが、DVDの百選。なかなか取りかかれませんでしたが、ようやく書き始めました。すばらしい映像に触れて、必要になる多大の時間を楽しもうと思い、自分を後押ししました。
とりあえず2枚分書きました。ムラヴィンスキーのチャイコフスキー第5交響曲と、クーベリックのスメタナ《わが祖国》です。どちらの映像も圧倒的なすばらしさですが、偉大な音楽家による渾身の演奏の記録というのに加えて、歴史や社会と音楽の関係について考えさせる、いい素材になっています。前者のキーワードはソ連、後者は東欧の民主化です。どちらの映像にもリハーサルやインタビューが豊富に含まれていて、参考になります。少しずつ、積み重ねていくつもりです。
もうひとつ予定されているのが、初の論集。こちらはもうゲラになっています。「救済の音楽」という感じのタイトルで、ワーグナー論もいくつか収録される予定です。
一寸先は闇 ― 2009年02月24日 22時09分07秒
人生の勝負は終わりのほうで決まる、という考えを抱くようになっていましたが、どうやら「一寸先は闇」ということわざは、どこまでも追いかけてくるようですね。そう思うのは、期待され胸ふくらませて発足した麻生内閣が、短い間に坂を転がり落ちるように支持を失っているから。これは誰も、予想できなかったのではないでしょうか。「(趣味などが同じで)親しみやすいから支持する」というのはダメだということがわかりますね。
バチカンの話はあまりにもひどいので、私も放置できず、報道を追い掛けています。国際的な舞台で仕事するのは多大の緊張を要しますから、多少の飲酒なら大丈夫。よほど責任感を欠いていないと、あのようにはなりません。それでロシアの要人と会談ですか・・・。私も今回初めて、「任命責任」という言葉の意味がわかりました。そういう人を重要なポストに任命し、事後は「オレが守る」と言っていたわけですから。
ただ私が思うのは、飲酒を認め、いさぎよく謝罪して辞任していたら、世間の風当たりはよほど違ったのではないか、ということです。嘘やごまかしという要因が加わると、感じは格段に悪くなる。たくさん一緒に食事をしたが酒を飲んだことはない(首相談)、なんて、信じられるわけないじゃないですか。以前の談話で書いた「言葉の信頼性」という価値を、ゴミ箱から救い出したいような気持ちです。
文章力 ― 2009年02月25日 22時57分19秒
私の専攻の入学試験には、小論文があります。明日から始まる博士課程の入試には、領域を超えて、小論文が課せられている。後者には修士課程で作成した修論や研究報告の提出も義務づけられていますから、結局のところ、文章力がものを言います。
文章力と学力や将来性は、等価ではありません。しかし現実には、勉強の成果はかなりの程度まで、文章力で計られてしまいます。きれいな文章で整然と書かれた文章は説得力があり、よみにくい文章よりはるかにいい印象を、読み手に与えるからです。とくに学習過程の論文について、そのことが言えるでしょう。
しゃべる力、弁論術に比べたらどうでしょうか。「巧言令色少なし仁」と言いますね。話がうまいのは長所ですが、疑惑もつきまとう。これに対して文章は、「文は人なり」というぐらいで、信頼性が高そうです。
いずれにせよ、文章力の養成は、これから勉強をしてゆく若い人にとって、避けることができません。昨日の談話とのつながりで言えば、言葉を大事にするスタンスを通じて、いい文章は養われていくと思います。
永久の別れ ― 2009年02月26日 23時21分05秒
不肖私、「4月始まり 能率手帳 EXCEL Casual1」というものを購入しました。これにより私は、これまでの人生に何度かあったダブルブッキングやっすっぽかしに、永久に別れを告げることになりました。何年かするとそうした記憶さえ失われ、「へえ、私もダブルブッキングしたことあるの」などと言うようになるものと思われます。これまでご迷惑をおかけした方々にも、これでお返しができることになりました。ご報告申し上げます。
前話で、「巧言令色少なし仁」と「文は人なり」の対比を申し上げました。その後気がつきましたが、「文章がうまい」というのは褒め言葉ですが、「口がうまい」というのはそうではありませんね。なぜ違うんだろう。
記憶の使い方 ― 2009年02月27日 22時28分37秒
皆さん、書き込みありがとうございます。
なるほど、「口が軽い」というのがありますか(国語辞典さん)。しかし「口が堅い」というのもありますね。これはいい意味ですが、しかし口の使用を避ける、という意味が含まれているとすれば、悪い意味を出発点にしている、と言えるかも知れません。「口ばっかり」とか(笑)。
今日、ドクターコースの入試の空き時間、「永久に決別」の話を自慢したのですが、学長も同僚も一笑に付して、まったく信じません。紙の手帳にしたって、記入するのが同じ人間なら変わりない、というのです。くやしい。
わかったことは、私が犯したダブルブッキングの話を、みんなじつに良く覚えている、ということです。静岡に1週間間違えて行き、何かを食べて帰ってきたという話があるのですが、そのときに私が「うなぎを食べた」と皆さんが言う。私は外でうなぎを食べることは滅多にないので、「お寿司ではないか」と反論したのですが、みなさん、「いや、うなぎだ」と断定されます。くやしい。
人間の記憶って、そんなことに使っていいものでしょうか。諸事多難なこの時期に、です。
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