富田庸氏、圧巻の講演2011年11月10日 23時04分55秒

8日(火)の夜、国立音楽大学で、富田庸さんによる《ロ短調ミサ曲》講演会が開かれました。富田さんは世界に冠たるバッハの資料研究者のひとりですが、とりわけ《ロ短調ミサ曲》に関しては、2007年にベルファルストのロ短調学会を主宰されたほどですから、オリジナルから受容史の諸段階にいたるまで、多方面に精通しておられます。講演ではそうした専門的知識が駆使されるのに加え、それを裏付ける画像が、パソコンから手品のように湧いて来る。江端伸昭さん、高野昭夫さんら「軍団」の方々のご協力もあってディスカッションは盛り上がり、あたかも学会のひとこまを見るようでした。

聴衆の中心はiBACHのメンバーでしたが(外部からも大勢)、みんな、資料研究の奥深さ、世界最先端におけるその凄さ、楽譜の背後にある研究者の作業の膨大さと複雑さ、校訂にたずさわる者同士の競争意識や相互批判の厳しさなどなど、多くのことを学んでくれたと思います。次々と登場する校訂版の比較を、内幕も交えて掘り下げてくださったのが興味深く、来年1月の公演のポリシーである「リフキン版の使用」に自信をもつことができたのも収穫でした。ありがとうございました。

最後にフロアから思いがけず、とても考えさせられる問題が提起されました。議論は、種々の背後の情報が参照可能になっている校訂楽譜の価値を認め、その使用を推奨する方向に進んでいたのですが(音楽学者は誰でもそう考えます)、ある演奏家がおっしゃるには、自分たち歌い手はいろいろ注釈の書きこまれた楽譜は見たくない、何も書いてない楽譜の方がよほどファンタジーが湧いて歌いやすい、というのです。ちなみにこの方は、バロックを専門とする、一流の歌い手です。

私がはっとしたのは、バッハ自身の楽譜が文字通り、注釈もなにもないシンプルな楽譜だからです。自筆譜ではその幾何学的な美しさがそれ自体意味をもっており、アスタリスクだの、破線だのはもちろんありません。音楽学者がよしとする重装備の楽譜がいいのか、それは研究用の楽譜であって演奏用の楽譜とは異なるべきなのか。新しい議論のテーマが与えられました。考えていきたいと思います。