総合芸術2012年05月10日 23時23分25秒

今日は、11日のICU講演を準備しました。《ロ短調ミサ曲》の話は、最近いろいろなところでさせていただいています。ネタの使い回しのようでもありますが、その都度、進化もしているのですね。目的に合わせて準備し直すたびに新しいことに気がつき、考えが整理されます。

聖心女子大の学生の反応に、音楽は感覚的に作るものだと思っていたが、バッハはずいぶん頭を使っているようで驚いた、というものがありました。素朴な反応ですが、本質をとらえています。

たとえばキリストを扱うとき、バッハはフィーリングで音楽を付けるのではなく、「2」の象徴を使う。2は、三位一体の第二位格を指し示すと同時に、神であり人であるという二重性の表現にもなります。そこから引き出されるのは、「2が1である」というメッセージです。

〈クリステ・エレイソン〉を見てみましょう。この曲が二重唱であり、2声が並行して進むことにまず象徴的表現が見られますが、2声をどちらもソプラノにしたことが、バッハの工夫です。自筆譜を見ると、器楽の序奏の間は第2ソプラノの調号がアルト記号になっており、歌が入る段で初めて、ソプラノ記号に変化する。これはバッハが、ソプラノとアルトの二重唱を原曲とし、そのパロディとして、ソプラノ+ソプラノの二重唱を作っているためだと思われます。第2ソプラノの音域はひじょうに低く、アルトにぴったり。にもかかわらず「ソプラノ」と指定した理由は、「2が1である」ことを示すため以外に考えられません。

第1、第2ヴァイオリンがユニゾンでオブリガートを弾くのも、音を大きくする目的ではなく、「2が1である」ことを示すためです。同じことは、〈グローリア〉の二重唱〈ドミネ・デウス〉でも起こっている。バッハは自筆譜で(ドレスデン・パート譜と異なり)、フルートのオブリガートを、2本のユニゾンと指定しているのです。二人のフルーティストが最初から終わりまで一緒に吹くことを、音楽上の理由から考えるとは思えません(こちらの「2が1」は位相が違って、父と子の同一性にかかわります)。

つまりバッハの構想では、音楽と神学が結びついているのです。私は、このことがたいへん重要であると思います。人間の耳に聞こえるものだけが重要である、音楽は純粋に音楽であるべきである、という(かつてよく主張された)自律主義はバッハにはなく、バッハは音楽と音楽以外のものを結びつけることによって、より高い価値の表現を目指しているのです。調べれば調べるほど、バッハの音楽は総合芸術だ、という実感が深まります。