ドイツ旅行記2103(4)--《オランダ人》を観ましたが・・ ― 2013年06月24日 23時28分48秒
ドレスデンのゼンパーオーパーは、旧建物の時代に、ワーグナーが《さまよえるオランダ人》を(そして《リエンツィ》と《タンホイザー》を)初演したところ。そのオペラハウスが、ワーグナー・イヤーに《オランダ人》の新演出上演を行うのは、いかにもふさわしいことです。しかしその新演出(フロレンティーネ・クレッパー)が本当によいものであるかどうか確信がなく、半ば腰が引けながら出かけました(右奥が歌劇場)。
私は、演出家が自分本位に作品を換骨奪胎するのが大嫌い。しかし演出家が本当にいい仕事をすれば、オペラの舞台が見違えるように緊張感に高いものになることもわかっています(《リング》におけるハリー・クプファーなど)。この夜眼前に展開されたのは、換骨奪胎極まれりと思える舞台でした。
序曲が終わると、音楽の始まる前に長いパントマイムが挿入されます。「斬新な」アイデアを実現するために必要なことなのでしょうが、それが長いこと自体、無理な継ぎ合わせをしていることの証拠。にもかかわらず、黙劇の意味はわかりません。これはいったい何を意味するのか、などと根を詰めて考えるのは本末転倒なので、わかろうとしないことに決めました。
ですから、演出家の意図を、私は説明出来ません。確かなのは、じつにさまざまなアイデアが作品外から持ち込まれたこと。例は2つだけにします。1つは、本来男性だけで進められる荒々しい第1幕に、女性が4人登場した。ゼンタと、少女時代のゼンタ、酒場女2人です(逆に出てこないのは、海や船です)。もうひとつは、女性だけで始まる第2幕、〈糸紡ぎの合唱〉が、病院における出産のシーンになり、女性たちはすべて臨月の姿で合唱した。ストーリーにないが登場する人物、ストーリーにいるが違う脈絡で登場する人物は、皆容赦なく演技をして視覚に介入する。その結果、音楽の方がコンテクストから浮き上がってしまうこともしばしばでした。
演奏の方はというと、徹底した力勝負。みなさんすごい声量だしオーケストラも迫力満点でしたが、愛、味わい、潤いといったものは見当たらない。そうなると、《オランダ人》というのはこの程度の作品なのかな、という思いが、頭をもたげてしまうのです。同行した方々の中からも、ワーグナーはちょっと、やっぱりバッハの方が、という声が、終了後かなり聞こえました。私としてはそれも残念なので、「この演出のことが嫌いでも、《オランダ人》のことは嫌いにならないでください」「《オランダ人》のことは嫌いでも、ワーグナーのことは嫌いにならないでください」と説得。上演が作品をあの手この手で引き下ろすという、あってほしくない構図が、大手を振って実現しているのです。
まあこれはこれ、と割り切り、翌朝バスで、ライプツィヒに出発しました。いよいよ、ガーディナーの《ヨハネ受難曲》です。
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