ドイツ旅行記2013(8)--真髄の演奏方式2013年06月28日 15時29分12秒

22日(土)の昼間は、ツアーの企画で、ケーテンとハレへ。この地域には水害の後遺症が残っていました。ドイツは全土が平坦なので、上流から来た水がどこかで溢れると、引いて行かない。そのため、今年のヘンデル音楽祭も中止になったと伺いました。

ハレ聖母教会のオルガンと対面し、このオルガンならばバッハも食指が動いただろうなあと思いましたが、それよりも、その夜のコンサートのことを語りましょう。ガーディナーとモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツが聖ニコライ教会に出演し、《復活祭オラトリオ》と《昇天祭オラトリオ》で、またまた圧巻の演奏を聴かせたからです。その驚くべき躍動感に、一同感激。学ぶこと、教えられることが、いくつもあります。

この日もソリストはモリソン、グレイブル、マルロイ、ハーヴィーで、合唱から出る形が守られていました。いずれもが一流のレベルをもち、音楽の方向性を体現していることは先に述べた通りですが、何よりもみな、音程がいい。速いパッセージになるところでも細部までピタリと決まっていて、よくここまで訓練できるなあ、と思うほどです。そういう人の集団ですから、人数の何倍かハーモニーが充実し、すみずみまで明晰な演奏が可能になります。

キャリアを見ると、それぞれ、かなりのもの。モリソンなど、外見も魅力的で、すぐにでも花形になり得る人です。そういう人が、モンテヴェルディ合唱団に入る道を選ぶ。皆自信満々で、喜びにあふれて歌っている、という感じを受けます。オーケストラも同様です。

つまり、ガーディナーの指揮はすばらしい統率力をもっているのだが、それは演奏者を抑圧したり萎縮させたりするものではみじんもなく、スピリットを吹きこむことで全軍躍動の形をもたらすものだ、ということです。本当に稀有のことで、これこそが指揮です。

私はかねてから、バッハの声楽曲演奏におけるコンチェルティスト方式の利点を説いてきました。その点でひとつの理想的な形が、この夜の演奏に実現されていました。声楽家の方にも、ぜひ知っていただきたいと思います。

招かれたソリストが合唱曲を一緒に歌う姿は、最近よく見るようになりました。しかし、参加してはいるが形作り、と思えるケースもよくあります。ソロの演奏に差し障らないように、ということだと思いますが、ソリストに対するこうした要請は、合唱曲を充実させるためではありません。それは、合唱曲とソロ曲に関連をもたらし、メッセージの一貫性を演奏に付与することを、真の目的にしています。ですから、合唱曲に主体的に参与することは、問題意識を体に感じながらソロに入ることになるので、ソロの演奏をいちだんと充実させる可能性があると、私は考えます。

バスのピーター・ハーヴィー。彼は唯一団員ではないソリストなのですが、闘志満々でほとばしるように合唱を歌い、バス・パートを引っ張っていました。これこそがコンチェルティストの姿で、まさに、我が意を得た思いでした。

昇天祭オラトリオの合唱曲とコラールがアンコールされ、熱狂は頂点に。同席した富田庸先生も、ニコライ教会でこの10年間に響いた最高の演奏だと、心からの賛辞を呈しておられました。