《マタイ受難曲》、感動の富山初演(2) ― 2015年02月24日 22時23分05秒
一般論をさせてください。アマチュア合唱団とのお付き合いは徐々に広がり、私のバッハ啓蒙活動の、大切な一部になっています。バッハが大好きで活動されている方々とさまざまな場所で接点をもつのは、私にとって、とても嬉しいことです。
でもそこには、率直のところ、リスクも伴います。コンサートの準備のためにお話しさせていただくわけですから、事後にはコンサートに原稿を寄せることになりますし、対訳や字幕を提供することもしばしばです。数が増えてくると、それもたいへん。しかし私にとっていちばん悩ましいのは、コンサートに来てください、と招待されることです。それには、打ち上げでスピーチしてください、という依頼が付随しています。もちろん、主催の方々としては当然のご依頼であると思います。
とはいえ、一日がかりになるコンサートの時間を見つけるのは、容易ではありません。さらなる問題は、演奏がどういうものなるかを事前に予測するすべがなく、達成感あふれる演奏者の皆さんに喜んでいただけるスピーチができるという保証はない、ということです。なにしろ、心からの賛辞を差し上げたいと思うからこそ、心にもない賛辞は差し上げない、という原則を貫いているからです(と格好をつけましたが、要するに人間ができていない、ということです)。
そんなこんなで、時間と気持ちの負担が増え、失敗を犯すようにもなってきました。いっそお付き合いを全面的に見直した方がいいのではないか、とも思っているタイミングで、富山のコンサートが近づいて来たのです。
依頼されたのは、お約束していた解説、対訳、字幕原稿の提供に加えて、字幕の操作と、公演前の挨拶でした。字幕の操作をするとなると、リハーサルから入らなければならず、公演前にスピーチをするとなると、演奏に確信をもっていなくてはなりません。正直のところ、そこまでやらなければならないのか、と思いました。かといって報酬のことを伺うのは、お金のためだと思われたくありませんから、できません(私の虚栄です)。
というわけで、迷った末にいったん、行くのをお断りしたのです。しかしその後のやりとりで一定の信頼感が回復され、2日間を投入しようと決心しました。
列車を降り立った富山は快晴、雪もなくて温かく、眼前に、立山連峰が屏風のごとく展開しています。ホールを間違えたとか、入り口がわからなくてうろうろしたとか、いつもの話題は申し上げません。少し遅れてリハーサルに入って合唱を聴き、驚きました。昨年6月の講演で熱心に聴いてくださった方々が、その思いを大切にして、バッハと正面から向かい合って練習してきてくださっていたことが、すぐわかったからです。なんと申し訳ない対応をしてしまったのでしょう。(続く)
でもそこには、率直のところ、リスクも伴います。コンサートの準備のためにお話しさせていただくわけですから、事後にはコンサートに原稿を寄せることになりますし、対訳や字幕を提供することもしばしばです。数が増えてくると、それもたいへん。しかし私にとっていちばん悩ましいのは、コンサートに来てください、と招待されることです。それには、打ち上げでスピーチしてください、という依頼が付随しています。もちろん、主催の方々としては当然のご依頼であると思います。
とはいえ、一日がかりになるコンサートの時間を見つけるのは、容易ではありません。さらなる問題は、演奏がどういうものなるかを事前に予測するすべがなく、達成感あふれる演奏者の皆さんに喜んでいただけるスピーチができるという保証はない、ということです。なにしろ、心からの賛辞を差し上げたいと思うからこそ、心にもない賛辞は差し上げない、という原則を貫いているからです(と格好をつけましたが、要するに人間ができていない、ということです)。
そんなこんなで、時間と気持ちの負担が増え、失敗を犯すようにもなってきました。いっそお付き合いを全面的に見直した方がいいのではないか、とも思っているタイミングで、富山のコンサートが近づいて来たのです。
依頼されたのは、お約束していた解説、対訳、字幕原稿の提供に加えて、字幕の操作と、公演前の挨拶でした。字幕の操作をするとなると、リハーサルから入らなければならず、公演前にスピーチをするとなると、演奏に確信をもっていなくてはなりません。正直のところ、そこまでやらなければならないのか、と思いました。かといって報酬のことを伺うのは、お金のためだと思われたくありませんから、できません(私の虚栄です)。
というわけで、迷った末にいったん、行くのをお断りしたのです。しかしその後のやりとりで一定の信頼感が回復され、2日間を投入しようと決心しました。
列車を降り立った富山は快晴、雪もなくて温かく、眼前に、立山連峰が屏風のごとく展開しています。ホールを間違えたとか、入り口がわからなくてうろうろしたとか、いつもの話題は申し上げません。少し遅れてリハーサルに入って合唱を聴き、驚きました。昨年6月の講演で熱心に聴いてくださった方々が、その思いを大切にして、バッハと正面から向かい合って練習してきてくださっていたことが、すぐわかったからです。なんと申し訳ない対応をしてしまったのでしょう。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(3) ― 2015年02月26日 10時47分40秒
私のメイン・ジョブは、字幕の操作です。字幕のプロ、幕内さんがきれいに整形されたファイルが送られてきていて、それをiPadで操作するよう、現場は設定されていました。どうやら、Windowsの環境には移せないようです。
私は反マック陣営で過ごして来ましたので、iPadにはさわったことがありません。ここにまず、不安があります。また、私は字幕が好きだといわれていますが、操作を自分でやったのは、松本の《ロ短調ミサ曲》だけ。熟達しているわけではまったくありません。《ロ短調》と比べれば《マタイ》はるかにテキスト量が多く、人物や群衆の会話も錯綜している。操作は大忙しです。
整形されたプロの字幕には、強いフェードがかかっていました。ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと消えていく。その効果はたしかにいいのですが、タイミングを取るのがたいへん。歌の入りに、少しずつ先行しなくてはならないからです。
あまりにも失敗するので、これは困ったという焦りが出てきました。なにしろ字幕の作りが内容の伝達にこだわっていて、操作の困難を無視している。文句を言いたくなりましたが、作成者はあいにく、私自身です。今まで操作された方、さぞ苦労なさったことでしょう。なんとか少しずつ慣れ、あとは本番に集中するのみと、気持ちを切り替えました。
さて本番。4階のブースに籠りました。指揮者津田雄二郎さんの身振りをモニターで見ながら、iPadにタッチしてゆきます。リズムに乗り、流れが出てくると、演奏者の一人になったような気持ちがして、楽しい。それにしても、《マタイ》はなんと、いい曲が次から次へと出てくるのでしょう。
少しずつミスをしましたが、まあ、大勢に影響ない部分であったので引きずらないようにし、後半へ。しかし事実上のシロウト作業で3時間を完遂できるほど、字幕は甘くありません。落とし穴が待っていました。(続く)
私は反マック陣営で過ごして来ましたので、iPadにはさわったことがありません。ここにまず、不安があります。また、私は字幕が好きだといわれていますが、操作を自分でやったのは、松本の《ロ短調ミサ曲》だけ。熟達しているわけではまったくありません。《ロ短調》と比べれば《マタイ》はるかにテキスト量が多く、人物や群衆の会話も錯綜している。操作は大忙しです。
整形されたプロの字幕には、強いフェードがかかっていました。ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと消えていく。その効果はたしかにいいのですが、タイミングを取るのがたいへん。歌の入りに、少しずつ先行しなくてはならないからです。
あまりにも失敗するので、これは困ったという焦りが出てきました。なにしろ字幕の作りが内容の伝達にこだわっていて、操作の困難を無視している。文句を言いたくなりましたが、作成者はあいにく、私自身です。今まで操作された方、さぞ苦労なさったことでしょう。なんとか少しずつ慣れ、あとは本番に集中するのみと、気持ちを切り替えました。
さて本番。4階のブースに籠りました。指揮者津田雄二郎さんの身振りをモニターで見ながら、iPadにタッチしてゆきます。リズムに乗り、流れが出てくると、演奏者の一人になったような気持ちがして、楽しい。それにしても、《マタイ》はなんと、いい曲が次から次へと出てくるのでしょう。
少しずつミスをしましたが、まあ、大勢に影響ない部分であったので引きずらないようにし、後半へ。しかし事実上のシロウト作業で3時間を完遂できるほど、字幕は甘くありません。落とし穴が待っていました。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(4) ― 2015年02月27日 23時31分51秒
字幕の操作ミスというのは、ここはむずかしい、というところでは案外起こりません。よし、乗り切ったぞと心中ガッツポーズをしたりするとき、何でもないところでタイミングを外してしまったりするのです。大いなる意気込みで始めた操作ですが、後半になると疲れが出て、少し、ミスが増えてきました。立ち往生したのは第52曲、アルトのアリア〈この頬の涙が〉のところでした。
字幕ソフトは、ヴィンシャーマン指揮、大阪フィルで使われたものです。この公演では、上記の長大なアリアのダ・カーポが前奏のみでカットされたようで、反復に備えて用意された訳詞は、早送りで飛ばされる仕組みになっていました。しかし富山の演奏は、全曲カットなしです。したがってこの部分を復元しなくてはならず、iPadの持ち主である縄文さんに作業をお願いして、無事復元することができました。
ところが、実演でこの部分に来たとき、起こるはずのない早送りが起こったように思え、胸騒ぎがしました。映写中に確認するわけにいきませんから、私の取り得る選択肢は、2つ。1つは、早送りが起こったとみなして字幕の進行を中止し、次の曲まで待つというもの。この場合、早送りが起こっていないと、次の聖書場面に、アリアの残り歌詞が出てしまいます。
もうひとつは、早送りが起こったのは錯覚であるとして、予定通りアリア歌詞を先に進める、というもの。この場合、早送りが本当に起こっていたとすると、アリア内で次の聖書歌詞が出てしまいます。
さあ、どちらを取るかを決めなくてはなりません。私は、何らかの事情で早送りが起こったという方に賭け、字幕送りをストップしました。
次の曲に入り、祈るような気持ちで字幕を送ります。するとぴたり、聖書の歌詞が出ました。ああよかった、ということですが、それは、持っているツキをここで使った、ということでもあります。
演奏は進み、〈ああ、ゴルゴタ〉に続く、第60曲のアルト・アリア〈ご覧なさい〉へ。物語の転換点に座る、この上なく重要なアリアです。アルトと合唱のすばやい対話が入ってきますから、油断できません。
私も、最大の集中力をもって対処。対話を経て、〈生きなさい、死になさい、ここに憩いなさいLebet,, sterbet, ruhet hier〉の、すばらしいくだりに来ました。このテキストは2回繰り返され、〈見捨てられた雛たちよ Ihr verlassnen Küchlein ihr〉の句で締めくくられます。短い句ですがメッセージの核心部で、名アリアの感動が、ここに集約されている。私はここを絶対決めてやろうと、力強くタップしました。
そうしたら、ああ、勢い余って、ファイルが2枚送られてしまったのです。すなわち、肝心の部分が飛んだということです(汗)。痛恨の失敗で、いい歌を歌われていたアルトの福永圭子さんに申し訳なく、公演後、最敬礼でお詫びをしました。
というわけで功罪両面あった字幕作業でしたが、ヘトヘトの中にも喜びのある時間ではありました。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(5) ― 2015年02月28日 23時50分01秒
目の色を変えて字幕の操作をしていたわけなので、演奏について、観察者としての報告をすることはできません。しかし、ひしひしと迫ってくるものがあったことは、間違いないです。終始ひたむきな演奏で、一体感があり、作品に向かう姿勢が、一貫して貫かれていました。誰がどうというのではなく、全員が等しく演奏に貢献していたという感じがあります。たいてい、あそこはよかった、ここはちょっと、という感想になるものなので、これは珍しいことだと思いました。
この真摯な一体感はなにより、アンサンブルを代表として牽引され、自らエヴァンゲリストを歌われた東福光晴さんの献身的ながんばりに由来する、というのが、衆目の一致する事実のようです。堂々たるイエスを歌われた佐々木直樹さんらの声楽、古楽器のガンバから朗々たる響きを引きだした平尾雅子さんらの器楽など、皆さんが、ベストを尽くした演奏でした。津田雄二郎さんは、沈着冷静に要所を押さえ、音楽としてのステイタスをしっかり確保してゆく、プロの指揮。曲ごとのつながりと流れを重視されたことが大きな効果を挙げており、コラールの表現もつねに内容に即していて、感心しました。
往復に乗った「はくたか」号は、新幹線の開通と共に廃止されるとか。いいタイミングでの、富山旅行でもありました。最後にホール近くの公園で撮った北アルプスの写真を載せますが、あいにく夕闇が迫っていて、この程度です。富山の方々、ありがとうございました。
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