最近の好み? ― 2008年12月17日 22時43分15秒
今夜の夕刊(毎日新聞)に、今月のCD3選が出ていました。いつもちょっと、見るのが不安です。岩井宏之さん、梅津時比古さんと3人でやっているので、自分の選択に客観性があるかどうか、心配に思うからです。思えば変な感情ですね。右にならえよりも、自分だけの選考で目立たないものを知っていただくことが、3人制の趣旨でもあるでしょうから。
今月はペライアのベートーヴェン/ピアノ・ソナタ(9、10、12、15)を1位にしたのですが、これが、岩井さんの2位。2位にしたマインツ・バッハ合唱団のサン=サーンス《クリスマス・オラトリオ》他は、梅津さんの1位。3位にしたバティアシュヴィリのシベリウス/リントベルイのヴァイオリン協奏曲は、岩井さんの1位でした。できれば日本人のものを、といつも思っているのですが、最後まで考えて、今月は見送りました。
60代に入ったペライアの円熟は、すばらしいものです。が、これを1位にするところに、最近の私の好みが見えるのかも知れません。最近とみに、軽快な演奏、繊細な演奏、やさしい演奏が好きになってきているのです(ただし微温的な演奏は依然嫌いです)。ペライアがもうひとついいのは、ポリフォニー感覚がすごく生かされていて、日陰からたくさんの旋律や音型が拾い出され、命を与えられていること。新しい曲を聴くような印象にとらわれるところが、たくさんありました。感性が若々しいのですね。
音量第一主義は、以前にも増していやになりました。音楽は、量より質です。
意外に正確 ― 2008年12月14日 22時56分54秒
私は、楽譜の指示をきちんと守った演奏が好きです。もちろんそれは古楽の話ではなく、演奏家に楽譜通りの演奏が求められるようになった、近代の音楽に関してです。
楽譜の指示にはほどほどに従っておけばよい、という場合もあることでしょう。ヴェルディのオペラ、たとえば《オテロ》などの歌い手に対する演奏指示はものすごく細かいですが、あれをシンフォニーと同じような感覚で再現したら、かえって不自然になってしまうかもしれません。しかしその「案配」も含めて、なるべく楽譜を生かすことが大切だと思います。
先日あるゼミで学生が、プッチーニの《ラ・ボエーム》第1幕について発表しました。画面にはパヴァロッティの若い頃の映像が出ている。それを、少しですが、楽譜を見ながら聴きました。
そしたら、驚くほど正確なのですね。たとえば、フレーズの終わりがきちんと楽譜通りに、長い音は長く、短い音は短くなっている。歌の人は短い音でも延ばす人が多く、実演ではとくにそうなりやすいと思っていたので、意外の感に打たれました。
ところでパヴァロッティは、楽譜を直接読んで覚える人でしたっけ、それとも弾いてもらって、耳から覚える人でしたっけ?その時の話し合いでは、耳からの人の方がとことんやるので、かえって後まで正確なのではないか、ということになったのですが、どうなんでしょう。いずれにせよ、感心しました。
身振りの術 ― 2008年10月19日 23時56分04秒
今日は「三善晃作品展」の2日目のために、オペラシティに足を運びました。三善先生の生誕75年を兼ねたこのイベント、この日は合唱曲特集で、演奏担当は栗山文昭指揮の栗友会諸合唱団でした。
合唱コンクールによく出かける私ですが、三善先生の作品のすばらしさは桁違い、とかねがね思ってきました。その思いで結ばれた合唱人が、本当に、たくさんいるのですね。コンサートはそうした人たちが結集して先生に思いを届ける場となり、どのステージも、いくつもの合唱団が相乗り。最後は500人ほど(?)の壮大なコーラスが、会場をゆるがせました。
繊細、鋭利を特色とする三善作品にとって、相乗り方式は必ずしもプラスだけではなかったと思いますが、音楽を介して広がる人の輪の実感は、この上なく強いコンサートでした。先生には、ぜひお元気でご活躍いただきたいと思います。(先生はたいへんな料理通だそうですが、軽井沢の中華料理店で、偶然ご一緒したことがあります。)
ところで、合唱のステージを見るとき、皆さんは、どこをご覧になりますか。今日わかったのは、内容と一体になって歌っている人に、眼が吸い寄せられるということです。必ずしも、美貌の女性ばかりを見るわけではない。今日の歌はすべて日本語なのであまり違いは目立ちませんでしたが、外国語の歌だと、内容を理解して表現している人と、外目にそれがわからない人とでは、大きな違いがあります。逆に言えば、内容への共感を身振りで示すことも、演奏家の大切な技術だということです。マッテゾン(18世紀)はそれを、「身振りの術」と呼んでいます。
想像力豊かなピアノ ― 2008年09月10日 23時03分17秒
5日間の演奏旅行というのは、演奏家の方にとってはよくあることなのでしょうが、私はへとへと。昨日は東京に戻ったあと大学に出てスケジュールをこなし、今日も会議や指導がたくさん入っていて、たいへん疲れました。
しかし、自分の企画したコンサートを優秀な手駒で実現できるというのは、幸せなことですね。北陸の方々から心温まる歓待をいただき、想い出に残る日々を過ごすことができました。北陸の方々、同行された方々、ありがとうございました。
《魔笛》の管弦楽は足本憲治さんによる室内楽編曲版を使ったのですが、パパゲーノの鳴らすグロッケンシュピールがありません。そこでピアノで代用することにし、ピアノ四重奏曲ト短調のために同行された久元祐子さんに、演奏を依頼しました。
とにかくそのパートを弾いてくださればいい、ぐらいに思っていたのですが、久元さんの演奏はピアノであることを忘れるぐらいにかわいく、歯切れ良く、夢を乗せて響きました。そしてそういう音を出すために、何度も練習してくださっていたのです。
久元さんがモーツァルトの名手であることは皆様ご存じの通りですが(『青春のモーツァルト』というすばらしいCDがALMから出ています)、さまざまな要素を兼ね備えた中でも特筆に値すると思うのが、音楽に寄せる想像力です。インタビューしたところでは、ピアノ・パートのあちこちで、オペラの情景を脳裏に浮かべておられるとか。それがよくわかったのは、《魔笛》における短調と長調の使い方を調べるために、いくつかの部分を演奏していただいたときでした。曲想に従って音色が縦横に変化し、ピアノとは思えないような色合いと情感が醸し出されるのです。
そうするために、初見でも楽に弾ける数小節を何度も練習されていたのが、久元さんです。ミューズに仕える人のひとりとして、尊敬を深めました。
ジュリアス・シーザー ― 2008年08月16日 22時11分52秒
ヘンデルのオペラ《ジュリアス・シーザー》のDVDをあらためて鑑賞しました。2005年グラインドボーン音楽祭のライヴで、演奏は、ウィリアム・クリスティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団。作品といい、演奏としい、演出(デイヴィッド・マクヴィカー)といい、まれに見るすばらしさですね。圧倒されました。
いまどき、こんなに舞台が豪華で、衣装がきれいで、凝った動きがきちんとできあがっているプロダクションって、珍しいのではないでしょうか。クリスティの統率力はたいしたもの。ドラマの中からアリアが始まるところなど、「わあこの曲だっ!」とその都度思わせられるような形で、絢爛と立ち上がってくるのです。ナチュラルホルンが響くオーケストラの力強いこと、《花火の音楽》のごとし。
キャストがまた卓抜です。女性の歌う女性役2、男性が女声音域で歌う男性役2(←カウンターテナー)、女性の歌う男性役2で、とにかく高音域のアリアばかりが、次々とあらわれる(男性の歌う男性役は脇役1のみ)。カストラートの世界ですね。でもタイプの違う一流どころを揃えているので、違和感はありませんし、むしろ、オクターヴ下げて男が歌うのではダメなのだな、と実感しました。
学術文庫の拙著ではド・ニース(クレオパトラ)のど派手な活躍ぶりについて書きましたが、今回はそれ以上に、主役のサラ・コノリーに感心しました。まったく、度肝を抜かれる男ぶり。ダ・カーポ・アリアでの変奏も音楽的だし、二重唱ではソプラノを完璧にフォローしている。すばらしい歌手がいるものです。
昔の音楽史では、ヘンデル後半生のオラトリオを高く評価するあまり、オペラを軽んじていました。しかし、本格的に復活してきてみると、オペラの方が面白いですね。手持ちの映像だけで、8作品もある盛況です。演奏が平凡だと単調になりやすいが、一定レベルを超えると、急に作品が輝いてくるのが、ヘンデルのオペラであるようです。
ほめついでに ― 2008年07月11日 22時47分41秒
ブログの価値はコメントの量ではかられるのだそうです。それだとさびしい、私の家。大江麻理子さん(テレビ東京)のブログなどまことに壮観で、別世界のようです。
でも当家のコメントは、量より質。コメントまで見ない、という方もいらっしゃるでしょうから、コメントにはなるべく、本文でお答えしています。「たのもーさん尊敬」などというのがそれですが、何のことかと首をひねられた方もおられることでしょう。今日は、「四畳半のテノール」という不思議な方から、コメントをいただきました。ハイCの可聴範囲が四畳半とは理解に苦しみますが、多くの読者には、四畳半の説明から始めなくてはならないかもしれません。昔、日本の家屋には・・・(以下略)。
本当にいいものを心から推薦する、という私のポリシーに照らして、ひとつ。今日午前中の「歌曲作品研究」の授業では、ドクターコース在学中の山崎法子さんに、ヴォルフの歌曲の演奏と解説をしていただきました。山崎さんはウィーンに7年間留学し、シェーンベルク合唱団の団員として、アーノンクールの指揮で歌っておられた方です。
ドイツ語がものすごくできる方なのですが、それは7年いたからではなく、言葉への感受性のゆえだと思います。メーリケ歌曲集からの5曲が、なんとすばらしかったことか。シニカルな曲は演劇的に、多彩に歌われ、宗教的な曲は、たちのぼるような雰囲気をこめて。そのすべてに、温かい人間性がゆきわたっているのですね。授業中ですが、思わず涙してしまいました。
やはり私が論文指導しているメゾソプラノの湯川亜也子さんは、最近、日仏歌曲コンクールに優勝。周囲の若い人たちがいい結果を出してくれて、喜んでいます。あ、お二人とも、くにたちiBACHコレギウムのメンバーです。
コンチェルトの演奏法 ― 2008年05月28日 23時37分24秒
古典的なコンチェルトの場合ですが、今の演奏は、ソリスト中心になりすぎているのではないかと思っています。
古典的なコンチェルトでは、ソリストがなかなか出てきません。たいてい、管弦楽が長々と演奏しています。これは序奏、あるいは導入、というイメージで受け取られていると思いますが、それでいいのでしょうか。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど古典派の交響曲では、第1楽章はソナタ形式で書かれています。ソナタ形式の提示部は、楽譜では反復されるように指定されている。ソナタ形式がバロックの舞曲にある二部形式から発展したためで、楽曲のコンセプトを強く印象づける、という狙いもあります。そんなとき、提示部の1回目は、気合いをいれて演奏しますよね。「顔」のような部分ですから、当然です。
さて、古典的な協奏曲の場合、第1楽章はいわゆる「協奏風ソナタ形式」で書かれていて、反復にあたる部分で、ソロが入ります。管弦楽による提示部を、ソロを交えて豊かに発展させるわけです。
私は、管弦楽による提示部が交響曲なみに充実して演奏されることが、ソロの入りに対するよき前提になると思います。ところが現実には、ソロを引き立てることを目的に、控えめに、軽く演奏される場合が多い。これでは、協奏風ソナタ形式の面白さは生かされない、と思うわけです。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲では、ヴァイオリンが管弦楽の第1ヴァイオリンを、つねにいっしょに演奏しています(楽譜通りの場合)。要するにソロは管弦楽を率いていて、ソロが入ってくると、「その他」がソロと向かい合うわけです。ピアノ協奏曲でも、ソロは通奏低音のような形で、管弦楽の提示部に参加しています。腕をぶして待っているわけではありません。この精神は、失ってはならないのではないでしょうか。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では、ソロはずっと休んで、管弦楽の提示部が終わったところで入ってきます(アインガング)。しかしそれ以前のコンチェルトでは、ソリストは管弦楽と一緒に演奏するのが本当であると思います。「弾き振り」は、それでこそ生きてくるのです。
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