年齢も芸のうち ― 2010年11月13日 23時22分55秒
考えてみると、最近、80代の指揮者ばかり聴いている。新聞批評でやったのが、アーノンクールとプレートル。今日やっていた今月のCD選でぶっちぎりなのが、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲と交響曲第3番を指揮している、ブーレーズ。そしてブルックナーがDVDになった、スクロヴァチェフスキー。80代の人たちが、すごい演奏を続けているのです。ギュンター・ヴァントの最晩年も、思い起こされます。
いろいろな理由があると思いますが、主な理由は、2つでしょう。1つは、演奏家と違って指揮者は自分だけでは練習できないので、キャリアを積むことで勉強が加速される。ようやく統率できるようになった、と実感するのも、かなり年が来てからに違いありませんし、その頃にはおのずと、周囲の信頼も増してきています。
もうひとつ、同じぐらいに大きいのではないかと思うのが、高齢になることによって、世俗的な関心から離れるということです。若い人はなかなか喝采とか格好良さから離れられないと思いますが、ある程度高齢になると、本質的なことだけを追求するようになる。結果として、受け狙いの高齢指揮者、というのは存在しません。そんな追求の喜びがあるためでしょうか、80代の指揮者の方々、皆さんお元気ですよね。足元が多少おぼつかなくても、長大な交響曲を精力的に指揮して、危なげがありません。電車で座席を譲られるのかどうかは、存じませんが。
意識改革 ― 2010年06月14日 09時38分15秒
前話で「歌い手の言い分」という言葉を使ったのは、学生指導の機会に、意識改革を求めているからなのです。自分のパートを歌うのに精一杯で、ピアノや合奏を聴いていない人が、あまりにも多い。たとえ自分のパートをしっかり覚えたとしても、ピアノがどうなっているか、和声がどう進行しているかがまったく把握されていなければ、作品の演奏が、いいものにならないことは当然です。作品の全体を見ることが、大きな意味をもつからです。
高度なことを最初から要求するわけではありませんが、とにかくピアノを聴き、ピアノといっしょに音楽を作ることを心がけるだけで、演奏の力は二倍にも、三倍にもなります。ピアノが主役としてきらめく場も歌の曲にはたくさんあり、そんなとき歌い手が意識して引き立て役に回ると、音楽はとても引き立ちます。
そんなことを考えるようになってから、私の音楽の聴き方も、ずいぶん変わりました。世界的な歌い手にも、ピアノやオーケストラを聴いている人といない人がおり、聴いている人のすばらしさを痛感する昨今です。
声楽曲に歌詞はない ― 2009年07月14日 23時29分28秒
7月9日(木)、いずみホールで、1年ぶりに、「日本のうた」シリーズのコンサートを開きました。作曲家・木下牧子さんをゲストに迎え、木下さんの選による日本の名歌と、ご自身の代表作、そして人気作をたっぷり聴く。そして最後に、当日のピアニストであった加藤昌則さんの作品で締めくくるという趣向でした。木下さん、および出演者と入念に意見交換しつつ、こうしたプログラムを組み上げました。
大学3年生のときの初挑戦曲から最近作まで・・。洗練された木下ワールドの諸作品はいずれも魅力的で、日本的な美の精髄が注ぎ込まれています。ソプラノ、佐竹由美さんの芸術性の高さと安定した技術、バリトン、宮本益光さんの洞察力と性格表現もみごとで、オリジナリティのあるコンサートを作れたと思っています。
やっぱりなあ、と思ったのは、木下さんが詩の選択に大いにこだわり、高い基準で選び抜き、音楽をつけることにたっぷり時間をかけ、磨き抜いていく、ということでした。内外を問わず、多くの作曲家が、そのようにしてきたのではなかったでしょうか。
普通の歌や合唱の練習の場合はどうでしょう。まず階名や母音で歌う。歌えるようになったところで、「さあ、歌詞をつけて歌ってみましょう」ということになる。でもこれだと、歌詞は音符に振られている言葉に過ぎませんよね。実質はあくまで、音楽の方にある。これでは、詩を音楽を通してしか見ないことになります。音楽のついていないときの詩それ自身の美しさや生命力。それを愛するからこそ、作曲家はファンタジーをふくらませて、音楽をつけるのではないでしょうか。
私は、声楽曲に歌詞はないと思う。あるのは歌詞でなく、詩です。詩を詩として、できるかぎり尊重すべきです。外国語の発音を学び、辞書を引いて意味を書き込んでも、詩を生かすことはできません。急に語学に上達するわけにいかないとすれば、必要なのは暗記であり、朗唱です。それをみっちりやれば、語学の感覚はその詩その詩に即して、ある程度身につくものなのです。
模範としたいホール・オペラ公演 ― 2009年06月29日 21時47分40秒
めずらしく日曜日(28日)に開かれた「たのくら」のテーマは、《平均律》。最近出た、4人のピアニストが分担して演奏しているDVD(ユーロアーツ)を、一部使いました。第1巻がアンドレイ・ガヴリーロフ(印象としてはリヒテルの系統)とジョアンナ・マグレガー、第2巻がニコライ・デミジェンコ(ギレリスの系統)とアンジェラ・ヒューイットによって演奏されています。見たかぎりではマグレガーがすばらしく、ロ短調が感動的な名演奏だと思いました。
大急ぎで飛び出し、静岡AOIへ。間宮芳生作曲のオペラ《ポポイ》(倉橋由美子原作)初演に列席するためでした。さすがに見事に仕上げられた作品で種々話題になると思いますので、ここでは一点だけ。
主演の吉川真澄さん(ソプラノ)が、首を飼育する好奇心に満ちた少女の心を明晰に、魅力的に歌ってくれました。私が特筆したいのは、この歌が明快ながら音量を控えて歌われ、聴き手を言葉に引き込む形で進められていたことです。中小のコンサートホールで上演されるオペラにおいては質の高い音楽内容こそが追求されるべきで、フルヴォイスの競演は必要ないと私は確信しているのですが、どうしたものか声量を競う公演になることが多く、もっと繊細な様式を普及させたいなあと思っていました。
その意味で模範的な公演を観ることができて、喜んでいます。こうした方向性が確立されれば、力を存分に発揮できる歌い手の方が、たくさんいるはずなのです。
カウントダウン4--「上から」でなく ― 2009年06月10日 22時10分56秒
リフキン先生のレッスンは、「くにたちiBACHコレギウム」に属する6人の歌い手に対して、各1つの(レチタティーヴォ+)アリアを指導する形で行われました。チェンバロ伴奏と通訳を大塚直哉さん、ヴァイオリンのオブリガートを大西律子さんに付けていただいて進めたのですが、大塚さんの英語通訳は完璧無比のすばらしいもので、私がやらなくてよかったと、胸をなでおろしました。さまざまの意味で、大塚さんのお力なくしては成立しえない、今回の企画です。
リフキン先生の指導は、指揮者にありがちな「こう歌え」という「上から」のものではなく、「下から」といいましょうか、演奏者の内側から、その人自身の温かい音楽を引き出すことを目指して行われました。こう書くと何でもないようですが、これは驚くべきことで、私見によれば、じつに感動的なことであると思います。
まず通して歌わせたあと、曲ごとの問題を投げかけて、歌手に考えさせる。どうすべきかの案が出されるとそれを実践させ、それに対する評価を、歌手自身に行わせる。そして、「いろいろ変えて歌ってみてください」と要求してその場でヴァリアントを試させ、どう歌うべきかの考えを、歌い手自身の内に育てていく。こうして、バッハと演奏者を接近させ、両者の間に、人間的な共感を作り出していくわけです。
最後に千葉祐也君が、〈来たれ、甘い十字架よ〉を歌いました。このアリアでは、峻厳な付点リズムを繰り返す器楽(ガンバ)と優美な歌のラインが、交わらすに進んでいきます。そこである小節を例にとり、「甘い」の言葉を2つのヴァリアントで実験しました。イエスに倣う意思を押し出したヴァリアント(千葉君が最初に提案したもの)と、音色をやわらげて「甘い」にこだわったヴァリアント(リフキン先生がサジェストしたもの)です。その結果、「甘い」を的確に表現することで、音楽がいかに効果的になるかが確認され、満場が納得。意欲と品格を備えた千葉君の歌も、いちだんとすばらしいものとなりました(彼は実演のユダです)。
時間を惜しまず、忍耐を惜しまず内なるものを育てようとするリフキン先生の姿勢に接するうち、私の心には、これほどの音楽家といっしょに音楽できる幸せがあふれてきました。そして、このような方向性が「リフキン方式」の本質とまったくひとつであることに、あらためて思い当たった次第です。
涙もろい ― 2009年05月22日 21時42分29秒
私は、悲しくて泣く、ということは、絶対にない人間です。そんなこと、思いもよらない。しかし「なんてすばらしい音楽だろう」と思ったときに涙が出てくる傾向はずっと加速していて、これはたいへん困ります。なぜなら、学生さんや受講生の方々により抜きのすばらしい演奏を紹介する機会が多くあるからです。
今日もある授業で、エトヴィン・フィッシャーを紹介するためにシュワルツコップの歌うシューベルトの《水の上で歌う》をかけたところ、久々に聴くその音色の、記憶をはるかに超える気高さに圧倒的な感動を覚え、抑制のきかない状態になってしまいました。みっともないことです。でも、こうしたことが自分の人生を支えているのかな、とも思います。
ミケランジェリ ― 2009年04月25日 23時28分29秒
今月から、毎日新聞のCD推薦欄に、DVDが加わりました。まずCDから選び始め、ファビオ・ルイージ指揮、ドレスデン・シュターツカペレのシュトラウス・シリーズから、《アルプス交響曲》と《4つの最後の歌》を入れることを決定。《アルプス交響曲》は、かつては映画音楽などと言われましたが、とてもいい曲だと思います。アルプスの自然の描写力は卓越したものですし、登山と人生の重ね合わせには、いつも心に響くものを感じます。それ以上にこのCDでは、アニヤ・ハルテロスの歌う《4つの最後の歌》が、「広やかに幻想を湧き上がらせて」(←自分の引用)見事です。
これと、有田正広ご夫妻の「フリードリヒ大王の宮廷音楽」(浜松市楽器博物館の「クヴァンツ・フルート」を使ってもので、さすがの味わい)を決めた上で、DVDの選考に入りました。手持ちが少なかったので、立川のショップで購入。最後に残ったのが、ベネデッティ=ミケランジェリが1962年にイタリアの放送局で録画したライヴ「ミケランジェリRAI1962」でした。
ミケランジェリというピアニストにはもともとたいへん関心がありましたが、最晩年の実演の印象は、いいものではありませんでした。閉鎖的、という一語に尽きるように思われ、周囲からは、人間性を喪った演奏だ、という批判もきこえてきました。
で、久しぶりに、画面で全盛期のミケランジェリと対面。ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシーがまとまったアルバムで、分売もされています(デノン)。
いや、すばらしかった。最初のベートーヴェンの最後のソナタは若干違和感がありましたが、あとは、ピアノの通念をはるかに超える名演奏が並んでいます。「信じがたいほどの透明な響きで本質のみを弾くことにより、すべての作品が、端正な古典へと高められてゆく」(引用)。ベートーヴェンの巻に収められたガルッピ、スカルラッティが最高だと思いますが、ショパンの、感傷をいっさい省いたアプローチからかえって引き出される高貴な悲しみにも心を打たれました。本当の芸術家だと思います。
作曲家の演奏 ― 2009年03月25日 23時53分39秒
私には、理にかなった演奏への好みがあります。ひとつひとつの音の意味が的確に捉えられ、しっかりした方向性をもって弾き表されている演奏に接すると、喜びと共感を覚えます。反面、そこがあいまいになったまま効果に走っている演奏には、不満を覚えることしばしばです。
こういう傾向ですと、自分が作曲をする人の演奏に、特別の敬意をもって耳を傾けることになります。野平一郎さんが、まさに好例です。こうした好みのしからしむるところだと思うのですが、毎日新聞の「今月のCD選」の1位には、高橋悠治さんの弾く冬のロンド/戸島美喜夫ピアノ曲集」(ALM)という1枚を選びました。
演奏されている7つのピアノ曲は、アジアなどの民俗的な素材をパラフレーズしたごく簡素な作風のものなのですが、音の意味を追究したクリエイティヴな演奏によって、たいへん興味深く聴くことができます。2位には、ピアノも名手だという若手ヴァイオリニストユリア・フィッシャーの、バッハ/ヴァイオリン協奏曲集を入れました。快活にはずむ演奏で、曲の良さを素直に出していると思います。
3位にしたラトル~ベルリン・フィルのラヴェル《子供と魔法》も傑出した演奏なのですが、ここまで来るとちょっとしたことに文句をいいたくなります。コジェナーの主役がまったく子供に聞こえない、というその1点です。
新譜が減っていることもあり、来月からDVDも含めることになりました。ちょうと本を書いていますから、好都合です。
心地よいシャコンヌ ― 2009年03月10日 23時16分50秒
19日の「シャコンヌの祭典」(杜のホールはしもと)に向けて、シャコンヌの勉強をしています。複数の場でその報告もしましたが、シャコンヌとは何かを知るのに適した素材として直観的に思い浮かぶのは、カヴァッリの歌劇《カリスト》でした。カヴァッリはモンテヴェルディの弟子で、《カリスト》は『バロック音楽名曲鑑賞事典』の百選にも採り上げた作品。その幻想的な上演が、ルネ・ヤーコプスの指揮でDVDになっています。
シャコンヌは3拍子の舞曲でスペイン起源。もともとは、かなりテンポが速かったようです。バロック時代には「踊るシャコンヌ」の伝統もずっと受け継がれ、ラモーに至るまで、「シャコンヌを踊って終わる」オペラがたくさんあります。《カリスト》も、第1幕と第3幕の最後に、シャコンヌが踊られる。その音楽的な特徴は、オスティナート・バス、すなわち、短いサイクルで繰り返されるバス音型の存在で、形式的には変奏曲ということになります。
ヤーコプスの《カリスト》がなぜすぐ頭に浮かんだのだろう、と思って注意してみましたら、理由は、その独特な演奏法にあることがわかりました。
この演奏では、オスティナート・バスを主役としてクローズアップし、変化する上声部を相対的に軽く付随的に、ほとんど即興的に扱っているのです。朗々と反復されるバスのサイクルはたいへん気持ちがよく、いかにも「これがシャコンヌだなあ」という感じ。太い幹にいろいろな花が咲き代わっていくような印象です。
やりすぎといえばやりすぎかも知れませんが、シャコンヌの本質に即した演奏法として、記憶にとどめておきたいと思いました。演奏家の方はお試しいただけると面白いと思います。(この談話は、バッハのヴァイオリン用《シャコンヌ》はなぜシャコンヌか、という問題をめぐって生まれたものです。)
エンディング ― 2009年01月25日 22時52分54秒
当今のオペラ上演における演出家の「読み替え」に対する私の抵抗感については、新聞批評でも、またこの欄でも、ときおり書いています。中でも承服できないと感じるのは、エンディングの方向性を逆転させようとするやり方です。これは決まれば鮮やかな力業ですから、演出家もあえて意欲を燃やすのかも知れません。
めでたしめでたしの大団円が、じつは不幸への入り口であるように設定する。逆に、絶望的な結末に、未来への希望を見て取る。どちらもよく見る演出です。私は、こうしたことが許容されるのは、音楽に根拠がある場合だけだと思う。音楽が不協和音から協和音にシフトし、安らかな大団円に向かっているのに、そこに悲劇性だの裂け目だのを持ち込んでくるのは間違っている。でもワーグナーの演出なんかに、結構ありますね。
話が大きくなってしまうので、狭めましょう。私が個人的に好きでないのは、作品に明示されていないヒューマニズムを演出家が加えて、めでたし感を盛り上げることです。たとえば、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の大団円で、ザックスとベックメッサーを握手させる。《魔笛》の最後で、神殿での戴冠式にパパゲーノ・ペアを参加させる。演出によっては、夜の女王やモノスタトスまで参加して喜び合う。こうすれば、「ああよかった」と思いつつ帰宅する人々が増えるのでしょうか。私は、エンディングが全方位的な価値観になっていないのも作品の重要な要素であり、それを変えたり薄めたりしてはいけないと思うのです。そこに実は、作品のメッセージが隠れている可能性がある。しっかり向き合うべき、辛口のメッセージが、です。辛口のものを甘口にしては、見るべきものが見えなくなってしまいます。
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