南太平洋2014年05月07日 22時54分18秒

オランダ旅行中には、日本でもいろいろなことがあったようです。それによって押し出され、報道もされなくなったのが、南インド洋におけるマレーシア機の墜落事件。飛行機に乗る前に起こったことですので、関心をもってウォッチしていました。

南半球に行ったのは一度だけ。北オーストラリアのケアンズです。中学のとき「南太平洋」というミュージカル映画に魅了されて以来、南へのあこがれがずっと心にありました。まあ「南太平洋」という映画はハワイ・カウアイ島でのロケで、現実には北太平洋だったのですけれど。

でも事故の報道でわかったのは、南半球というのはそんなに甘いところではない、ということです。陸が少なく大半が海である結果、強風が吹いて海はたえず荒れ、「吠える40度・狂う50度・絶叫する60度」という言い方があるとか。南インド洋は地球でもっともわかっていない地域だ、という報道も読みました。

陸地が多く、人がたくさん住んでいる北半球は、恵まれているということなのですね。南半球に乗り出した昔の船乗りたちは、勇敢だったんだなあ・・・。

事件は、迷宮入りになりそうです。危険がありお金もかかる深海の探索はそうそうできないのだろうけれど、好都合な幕引きという面もあるようなので、気の毒に思います。

成田からご挨拶2014年04月07日 22時25分49秒

成田のホテルに入りました。皆さんは日本で働いておられると思いますが、私は明日、オランダに発ちます。

今回はなぜか、劇的な出来事が起こるような気がしません。順調に、オランダ、ベルギー、ドイツあたりを旅行して参ります。国際用のルーターを借りましたので、順調ぶりをご報告できると思います。

日本でも、ここしばらく、いろいろな出来事がありました。目立つなあと思うのは、「逆ギレ」という現象です。3人ぐらいすぐ思い浮かびますが、共通点は、自分に甘く他人に厳しいという、精神構造。良くないですね。こういう世の中になると、バッハのカンタータのメッセージが光ってきます。そこでは繰り返し、まず自分自身を振り返れ、と教えているからです。

旅行前に仕事を済ませるため、緊張した数日間でした。このパターンだけは、変わりません。では、次はオランダから!

被災地訪問2014年04月05日 18時54分53秒

3月28日(木)に名取、30日(日)に南相馬と、被災地に行ってきました。「サントリー&ウィーン・フィル音楽復興祈念賞」の委員をしていなかったら得られない、貴重な機会でした。証拠写真をお目にかけます。南相馬の教育長さんに、ステージで盾を差し上げているところです。でもどうみても、私がもらっているようですね(笑)。


南相馬では、「ゆめはっとジュニア・ウィンド・オーケストラ」に元気をもらい、名取では、新実徳英さんの「つぶてソングの集い」に参加しました。震災のこと、その後の復興努力のことなどを現地の方から伺い、そこで音楽が果たしている役割を実地に体験して、とても勉強になりました。

「復興祈念賞」、まだまだ続きますので、ぜひ応募してください。サントリー芸術財団のホームページhttp://www.suntory.co.jp/sfa/fund/に説明があります。夢と希望を与える音楽企画であれば、被災地以外からも応募できます。

斬新かつチャレンジングな企画を用意されている方のためには、やはりサントリー芸術財団に、「佐治敬三賞」があります。http://www.suntory.co.jp/sfa/music/saji/index.html

第13回の今年は、「東京現音計画」と「東方綺譚」が受賞しました。応募が採択されますと、私を始めとする選考委員が、手分けをして聴きに行くことになっています。いい企画であれば、現代音楽にはかぎりません。ぜひ、ご応募いただければと思います。

弔いの精神2014年02月10日 10時17分26秒

8日(木)。NHKでの録音を終え、能を観に行きました。能は詞章が好きなので時折出かけますが、国立能楽堂は初めて、「能を再発見する」という鼎談付きのシリーズで、演目は『藤戸』でした。そのストーリーは次のようなものです。

源平合戦の将、佐々木盛綱は、若い漁師から浅瀬の存在を聞き知る。彼はその漁師を殺して口封じしてから軍を進め、大勝する。恩賞として手に入れた土地で盛綱が苦情受付を行ったところ、漁師の老母がやってきて、息子の死を激しく抗議する。そこで盛綱は弔いの管絃講を催し、あらわれた漁師の霊を供養して、成仏させる・・・。最近では権力の横暴、社会への告発という側面を強調されることもあるストーリーだが、真髄は供養、魂の鎮めにこそある、という趣旨の解説がされていて、なるほどと思いました。その老母を後ジテ(漁師の霊)が出ても舞台に残すのが、原型を復元する今回の工夫だそうです。

能を観るたびに思うのは、こういう様式美を作り上げた昔の人の偉大さです。音楽といい、所作といい、多くのことが非合理的とも思われますが、すべてが神様(広義)を呼び出す装置として作動していると言えば、納得できそう。異界との交信がまさに眼前に開かれ、閉じられるのです。

明日をも知れぬ世を生きていた人々にとっては弔いがこんなにも重要だったのだなあ、という重い感慨を抱きました。それは、長く生きられるようになった現代には軽んじられるようになっている。葬儀は簡略化される一方ですし、灰を撒いて葬儀に代える、という人もいますね。かくいう私も、「葬」に手厚く対処してはいないのですが。

昔の人は、思いを残して死んだ人の魂が手厚い弔いによって鎮められ、この世を離れることを体験し、自らの死への備えをなしたのにちがいありません。そうした精神が働いていれば、諸行無常もニヒリズムではない。そういう精神の喪われた現代に、むしろニヒリズムの温床はありそうです。

お墓考2013年08月16日 12時21分52秒

当家のお墓は、大宮市の外れにあります。猛暑のお盆、お墓の掃除に行きましたが、暑いのなんの。なにしろ、熊谷が近いのです。

最近墓石を補修し、玉砂利を入れました。墓石は、白御影石の立派なものです。父が死んだのはもう30年以上前ですが、その時父が石にこだわっていたのを覚えています。そんなところに見栄を張るのかなあ、と当時は思ったのですが、最近妻に聞いたところでは、父は私が入るときに恥ずかしくないように、という思いから、石を探していたとか。時間が経ってこそわかる、親の恩ですね。

お墓や葬式の相談も、家族で始めています。驚くのは、世間における簡略化の、急速な流れ。お墓を作らず灰を撒く、という流行(?)を実践する人が、周囲にも出てきました。葬儀を内輪で済ませる人は、増える一方。自分のことで迷惑をかけないように、と考えられる方が多いようです。

予定が詰まっているときに葬儀の知らせが入るのはたしかに困りますが、一方では、人がひとり亡くなるのを簡単に済ませていいものだろうか、という気持ちも、とてもします。難しい問題ですね。

今のところ私は、四分六で、お経を上げる葬儀をやってもらおうと思っています。人間の生死がこの世の人間関係だけにかかわるのであれば、迷惑をかけないように、という発想も納得できるのですが、現世を超える視点から考えたいとなれば、おのずと答が違うように思われる。簡略化の便宜を享受しつつも、日本人の文化伝統を振り返るにつけ、これでいいのかなあ、と思う昨今です。

現代医学2013年05月09日 08時40分43秒

寿命が延び、歳を取ってもそれなりに元気でいられる(実年齢は昔の7掛け、という説もありますね!)のは、つまるところ、現代医学のおかげ。私は以前何度か大病をしましたが、入院、手術などで克服することができ、人一倍、ありがたみを感じています。ガンもある程度までは、治る病気になってきました。

昔は、ガンは不治の病であり、最後は壮絶死、というイメージが固定していました。それが変わってきたのは、なにより医学の進歩、とりわけ早期発見、早期治療の前進だと理解しています。ちなみに、私の親族にはガン死が多く、私も一度、「早期発見」の経験があります。

ところが最近、検診は受けるな、早期治療は無意味、ガン治療は商売、ということを主張する人があり、週刊誌その他で、さかんにもてはやされていますね。その流れで、病気の治療はしない方が安らかに死ねるという、極論とも思える勧めを述べる本も出てきました。本当でしょうか。

私は、早期発見・早期治療という医療界あげての実践が無意味だとはまったく思いません。それをやめれば、以前のような状態に戻ることになると思う。しかし医学の専門的なことはわかりませんから、「思う」だけです。医学の方々には、この問題をもう少し世間に向けて、わかりやすく論争していただくことはできないものでしょうか。そうすれば、安心して治療を受けられる人も多いと思うのですが。

オーロラ2013年04月14日 23時52分51秒

NHKのBSで、大沢たかおさんがホストになっている「神秘の北極圏」という番組を見ました。オーロラ爆発という現象を訪ねての探索ですが、映像のすばらしさに感嘆しました。

超弩級の天体ショーである、オーロラ。一度は見たいと思いますが、本当に見るためには、大沢さんがなさったように、極北の厳しい風土に身をさらさなくてはいけないですよね。時代が時代ですから、大名旅行のツァーなどもあるのでしょうが、それではオーロラの体験に、ならないような気がする。さいはての地で生活する、あるいは冒険で訪れるわずかの人が計り知れぬ苦労の代償として恵まれるのが、オーロラであるように思います。

となると、自分はもう、見ないで終わるに違いありません。昔の天文少年の血が騒ぐことも確か、Auroraという言葉に寄せるバロック音楽のロマンを、思い起こすことも確かなのですが・・・。

画面には、ものすごい星空が映っていました。こうした星空にも、今後接する機会があるかどうか。文明というのは、ある意味で、視野の自己限定であると思います。明かりをつけてあえて星を見えなくし、「人命は地球より重い」などと言っているわけですから。

自然との共生2013年02月04日 23時35分11秒

「自然との共生」。最近よく言われることで、価値のあることだと思いますが、たいへんな難題であることに気づかされました。自然と触れあいつつ、豊かに生きたいと思っておられる方は、たくさんおられることでしょう。しかし自然は時に牙をむき、災害をもたらす。このことは必然的に、防災の観念を生み出します。

ナイル川が毎年氾濫することは、災いと同時に、青ナイルからの沃土という恵みを住民に与えました。しかし20世紀の人々は、アスワン・ダム、アスワン・ハイダムの建設によって、治水を優先した。その功罪については、専門家の間でも意見が分かれているようです。たしかに、両面あるに違いないと思います。

星空を見る体験は、人間の精神的成長に、かなりの影響を与えるはずです。しかしそのためには、闇がなくてはならない。闇は危険ですから、人間は街灯を整備します。しかしそのもとで育った人は、銀河や彗星を見る機会がありません。

先日、富士市の海岸で防波堤に登り、富士と駿河湾の大景に接した、と書きました。逆に言えば、登らなくては海が見えなかった、ということです。このあたりの海岸にはかなり高い防波堤が巡らされ、災害に備えています。いいことだと思いますが、欠点もある。海岸で暮らす人たちがある意味で海を奪われ、防波堤というコンクリートの中で日々を送ることになるからです。

その利害得失には、いろいろな考え方がありうるでしょう。住んでおられる方がどう思っておられるのか、私にはわかりません。しかし人為的な環境のもつ弊害も、考えてみたいと思います。

鎮魂の調べ2012年11月03日 08時30分02秒

ウィーン・フィルの方々は、日本が大好き。3.11の出来事にはひじょうに心を痛められ、何か力になれることはないか、と申し出られたそうです。そこでサントリーが受け皿になり、「ウィーン・フィル&サントリー音楽復興基金」が成立(詳細はサントリー芸術財団のホームページをご覧ください)。私も、縁あってこのプロジェクトのお手伝いをさせていただいています。

活動の二本柱は、「音楽復興祈念賞」と、「こどもたちのためのコンサート」。復興祈念賞には多数の応募があり、審査の末、助成金受賞者が決定しました。第1回の受賞者は、すべて被災地の方々です。いい企画がたくさんありました。

「こどもたちのためのコンサート」は11月1日から始まり、私も2日間、ご一緒してきました。15人による小編成オーケストラが、東北地方を巡演するのです。曲目はオール・モーツァルトで、ヴァイオリン協奏曲第4番、フルート協奏曲第2番、交響曲第29番の全曲か、その抜粋。1日の夕方には仙台の常磐木学園シュトラウスホール(←立派なホール)、2日の午前には岩沼西小学校でコンサートが行われました(ここで私は帰郷)。ホールでも、体育館でもみごとに響かせることのできるのがウィーン・フィルなので、高校生も、小学生も集中して聴き入っていました。小学校では、《紅葉》のほほえましい合唱が、感謝のお返しとなりました。

小学校のコンサートの前に立ち寄ったのが、被害がもっとも深刻だったところのひとつ、名取市の閖上(ゆりあげ)地区です。バスで向かった現地は、一見草原のようなのですが、よく見ると、建物の土台がそこここに。盛り土された慰霊碑に昇ってみると、風の強い日であったせいか大きな波が打ち寄せており、身震いしました。

ウィーン・フィルの人たちの献花と演奏が予定されていたのですが、あいにくの雨模様。野外で弦楽器というわけにもいかないだろうと思ったら、ウィーン・フィルの方々はぜひやると主張され、ディ-タ-・フル-リ-氏ら3人が、バッハのトリオ・ソナタト長調BWV1039の第3楽章を演奏されました。その模様はNHKのニュースで「鎮魂の調べ」として放映されましたから、ご覧になった方も多いことでしょう。

現場を見、いろいろなご説明を伺って、被害の状況と、復興のために行われている努力のたいへんさがよくわかりました。遅ればせながら訪問の機会を得、多くを学ぶことができました。あらためてお悔やみ申し上げるとともに、復興の早からんことをお祈りします。

真意はどこに2012年05月17日 11時23分31秒

言葉を使うのを商売にしているとさけて通れないのが、レトリックです。バロック音楽ではレトリックが語彙になっていますから、私の研究対象でもある。しかしディベートの手段となるような、言いくるめ、言い逃れのようなレトリックは、私のもっとも忌避するところです。政治の世界では(裁判の世界でも?)、そういうレトリックが多いですよね。

いまレトリック分析の対象になっているのが、橋下大阪市長です。分析しがいのある対象だと思いますがまだ私にはその用意がないので、今日は別の話。レトリックなのかどうなのか、どうにも真意がわからないのが、鳩山由紀夫さんの発言です。

先般、イランを訪問して大統領に友愛を説いた、という報道がありましたよね。良かった、また訪問したい、とおっしゃっているそうです。でも、行動の趣旨は何でしょう。2つ考えられます。心を込めて友愛を説けば異国の大統領も理解し、政治が変わってくるはずだ、と思っている。もうひとつは、そんなことで政治は変わらないと承知しているが、自分がそういう活動をしている姿を見てもらいたいと思っている。

後者でしょうか。それも好ましくはないですが、そういう人はたしかにいるし、いることも理解できます。しかし前者だとすると、私にはとうてい理解できないし、深刻だと思う。上に立つ人には、冷厳な現状分析と人間へのシビアな眼が前提として必要だと思うからです。先日まで日本を預けた人だけに、どうも納得がいきません。