やりがいある講演2012年12月17日 23時55分23秒

モーツァルト愛好家が集う「モーツァルティアン・フェライン」では、2年に一度の割で、お話をさせていただいています。いろいろなテーマをいろいろなところでお話しする日常ですが、じつはあまりやりたくないのが、モーツァルトのことを、こうした団体の前でお話しすること。モーツァルトに関しては何でも知っている、という博識の方が何人もおられ、いい加減な勉強では、とても体面を保てないからです。

たとえば、モーツァルトがこういう小さな町に泊まったときにできた曲だ、とご紹介するとき、当然私は、その町に行ったことがありません。ところが客席から来る反応は、「その町で今年泊まりましたっ!」というもの。旅行三昧に過ごしたモーツァルトの足跡を逐一たどっておられる方が、何人もいらっしゃるのです。

したがって講演は引き受けにくく、他の先生方もきっとそうだろうなあ、と思っていました。もちろん好意的には聴いてくださるので、やったあとに後悔したことはありません。しかし今回は、それこそ準備をして余裕がありましたので、かなり違った気持ちを抱きました。

私は、モーツァルトの管楽器用法にははっきりした深化があり、それが彼の音楽の円熟とほとんど同義語である、という仮説を立て、それを諸分野の作品で検証する、という進め方をしました。それがもっともすばらしく展開される分野はピアノ協奏曲であるとする理解から、いくつかの楽章を、グリモー、ポリーニ、ピリスの演奏で鑑賞しました。

そうすると、趣旨を理解し音楽に感動しながら、本当によくついてきてくださるのですね。ほとんど帰る人のなかった打ち上げを楽しくご一緒していて感じたのは、年配の男性が多くを占めている会員それぞれの、手応えのある存在感です。モーツァルトを愛し、モーツァルトを学び、モーツァルトを聴いてきた方々の長年の経験が蓄積されて、オーラを放っている。こういう聴衆を相手にする講演こそ、引き受けていくべきだと思いました。もちろんそのためには、相当の勉強をしなくてはならないわけですが・・・。次回が楽しみです。

完全原稿の勧め2012年12月14日 20時57分27秒

皆様のおかげで充実のイベントが続き、多忙ながら幸福感さえ感じる今週です。見えない仕事も多々あり、中でもちょっと大変だったのは、学会で開催したシンポジウムの、学会誌用報告をまとめることでした。

このシンポジウムは90分の枠に4人のパネリストがいましたから、時間の不足が懸念されました。そこで既報のように、基調報告には各12分の完全原稿を用意していただき、事前に時間確認もしてもらった上で進行させたわけです。

それぞれの原稿は、きわめて凝縮されたものになっていました。400字1枚が1分として、48枚ですよね。その後相互ディスカッションが12分、フロアとのディスカッションが12分、締めのスピーチが4分ありましたから、全部合計すると、原稿用紙にして76枚程度の言葉が飛び交ったことになります。

学会誌用の報告は、それを400字10枚にまとめなくてはなりません。7対1。だらだらした会話を短くするならまだしも、凝縮されたものをさらに大幅に短縮し、エッセンスと議論の進展を伝えるのは、きわめて困難な作業です。

この一例が物語るように、学問的な作業では、一定字数、一定時間に対する情報量を極限まで高めることが求められます。大きな時間を費やした研究を短い時間に発表することがほとんどなので、1字1句、無駄にできない。そのためには、完全原稿を準備することに勝る方法はありません。

そして、時間にぴったり収まるように推敲を重ねる。ほとんどが、削る作業に費やされるでしょう。書き原稿を読むと話が堅苦しくなる、というのは、原稿の文章に問題があるからです。わかりやすい話し言葉で、つとめて聞きやすいように準備をしておく。しっかりした土台があれば、脱線もまた、効率よくできます。

ですから、しっかり原稿を作らず、時間も計らないで始めるのは、経験の少ない人であれば、危険と言うより論外です。ベテランの方であれば原稿なしで円滑にという可能性もありますが、そういう方が準備すればもっと内容は濃くなるだろうに、と思います。結局、「時間がもっとあれば良かったのだが」ということになってしまうからです(続く)。

仮説2012年10月19日 00時40分48秒

ノーベル賞・山中先生は、若い人に、どんどん失敗しなさい、と指導されているそうですね。これは、まず仮説を立て、それが一般化できるかどうか実験を重ねていく、という理系の研究現場において、ぴったりとはまるご指導だと思います。もちろん文系にも、応用できる考え方です。

音楽研究の場合、論文を書くためには、事例の研究を行います。方法は、分析、データ収集、フィールドワーク、文献読解など、さまざまです。その過程で論文がまとめられることもままありますが、本当は、次のプロセスまで進んでいなくてはなりません。情報が羅列されているだけでは「何を言いたいのかわからない」ものになってしまうからです。論文には、使うデータや情報の評価や意味づけを欠かすことができない。この段階で、仮説が必要になってきます。

このこととこのこととは、こういう関係があるのではないか。このことは一般にはこうとらえられているが、本当はこう理解するべきではないか--仮説がひらめくと、論文執筆はモチベーションを得て、はかどります。しかし文系といえども一定の論証は必要ですから、さらなる情報収集と検証作業が必要であることは、いうまでもありません。

ここで必要となるのが、良心というか、客観的な真理探究の精神です。いけるのではないか、と思える自分の仮説に対して、どこまで批判的になれるかが重要なのです。なんとかこの仮説を成功させたいという気持ちが先になると、その人は必ず、自分に都合のいい情報だけを集めようとします。そのようにして書かれた論文、著作は筋が通っていてインパクトもあるわけですが、その実態は、見る人が見れば一面的で脆弱です。でも、こうした傾向のものを、なんと多く経験することでしょう。

文化事象はきわめて複雑であるのが常ですから、どんな主張にも、不都合な事例や反対の主張が存在します。それをオミットせず、そうしたものが存在することを認め、それをどう考えるかを記述することによって、仮説の提唱は、格段に重みを増してきます。少なくとも、多様な見方が存在することを明示するために注を活用することを、若い方々にはお勧めします。いずれにしろ、一面的な主張よりも手厚い価値観に、信頼は寄せられるものです。

つながった仕事2012年08月07日 23時57分01秒

風邪は相当よくなり、今日は座談会に出席しました。ご心配をおかけしてすみません。

オルガン・コンサートの後、『エヴァンゲリスト』と『マタイ受難曲』の初版本をもって長いこと待っていてくださった九州のお医者様とお話しました(コメントもいただいています)。びっくりしたのは、その方が、前日メールを交換した読者の方とまったく同じことをおっしゃったことでした。お二人とも、私の読者になってくださったきっかけは、1982年に私が『レコード芸術』誌に連載した「ミーメのミュンヘン日記」だそうなのです。

楽しく読んでいただこうと、若さにまかせて、軽いノリで書いた連載でした。学者がこういうものを書くことには賛否両論があり、研究に専念すべきだという意見も正論です。しかし私は実践や現場が人一倍好きなタチで、レコード/CDの仕事をたくさんやってきました。なにしろ美学に進学したきっかけが、「レコードの解説が1枚でもできれば本望だ」というものだったのですから。今でもCDを手にすると、ワクワク感があります。

そんな気持ちで手がけた小さな仕事がはるか現在につながっていることがわかり、とても嬉しい気持ちです。どんな仕事でも、どこかで、誰かが見てくれている。だからこそ若い方に、「先へつながるような仕事をすること」が大切だと申し上げているのです。

辻荘一賞授賞式2012年01月22日 23時24分46秒

21日の土曜日はたいへん寒い雨の1日になりましたが、立教大学のチャペルで行われた、辻荘一・三浦アンナ学術奨励金の授賞式に出席しました。受賞者は既報の通り、芸大教授の大角欣矢さんです。

完全な礼拝形式で、授賞式は進みます。記念講演は祭壇で行う。そういえばやったような気がしますが、私がいただいたのは第1回で1988年のことですので、何をお話ししたか、まったく記憶がありません。

ご専門の宗教改革期の音楽、ルターとシュッツをつなぐ時期の聖句モテットについて語られた大角さんの講演は、感動的なものでした。作品の成り立ちを追悼説教からアプローチするのが大角さんのオリジナルで、当時の人々がいかに死としっかりと向き合い、そこに価値観を発見していたかが語られていきます。それは同時に、死と向き合うことを放棄した現代人への警鐘ともなっているのです。そこで発揮される音楽の力を評価すべきだと、大角さんは主張されました。

おっしゃることのすべてが、私の心から同意できることばかり。発想にしろ楽曲分析にしろ、自分が話しているのではないかと錯覚しそうになることも何度かありました。しかし私からの影響は、微々たるものだと思います。ご自身でオーソドックスに勉強された結果、私の心から共感できるお考えに、到達しておられるのです。

ただ、決定的に違うことが、1つあります。それは大角さんが敬虔な信徒であられ、私がそうでない、という点です。それなのにどうしてこういう共感があるのだろう。私には不思議に思えてなりませんでしたが、ふとよぎった直観があります。これは、私が《ロ短調ミサ曲》について述べている「宗派を超えた宗教性」というもののもたらしたつながりと考えることはできないでしょうか。

次の世代にすばらしい研究者を得て、シメオン老人(ルカ福音書参照)のような心境です。

何を研究するか2011年11月23日 11時04分36秒

私の司会する月曜日のゼミで、先日、興味深いラウンド・テーブルがありました。野中映先生のコーディネートするテーマは、「誰がために研究は在る」というもの。研究と勉強の違いから始めて、種々の基礎的かつシリアスな問題が取り上げられました。そのトピックの1つだった「何を研究すればいいのかわからない」という点について、今日は自説を申し述べます。

文系の学問で、テーマの自主性が尊重されているところでは、「何を研究すればいいかわからない」ことが、多くの学生の悩みになります。卒論にしろ修論にしろ、早くからテーマ提出を求められる場合が多いですから、テーマの選択に何ヶ月も費やしてしまうという例も、まれでありません。

ここでわきまえるべきは、「何を研究すればいいか」ということは、研究を始めないうちにはけっしてわからない、ということです。適切なテーマを選ぶためには、その対象についてどういう研究が行われているのか、すでにわかっていることは何か、わからないことは何かをまず知る必要がある。どんなに研究されている対象でも、わかっていることより、わからないことの方が、はるかに多いはずです。

そこでテーマ探しの着眼は、わからないことを知る方向に向かう。しかしすでにわかっていることを再吟味することも、選択肢としては重要です。再吟味による通説の修正は、学問の柱とも言えるものであるからで、もう研究されているという理由から忌避する必要はありません。

「まだわかっていないこと」の中に自分の知りたいことが含まれていれば、そこにテーマ発見のチャンスが生まれてきます。この段階で大切なのは、それが自分の現能力や与えられた時間との天秤において、成果としてまとめられるかどうかを見極める、ということです。成功を左右するのは、十中八九、焦点を狭めた絞り込みです。大きな問題意識が背後にあるのであれば、絞り込んだテーマ設定は有意義だし、先につながります。

という次第なので、興味のあることをどんどん調べ、まずは知識を増やしていくことです。それが面白くなってくると、疑問が疑問を呼んで世界が広がり、選ぶべきテーマへのアンテナも磨かれてゆきます。それをしないて考え込んでいては、いけません。

対象に関するすぐれた著作や論文を読むことは、つねに助けとなる方法です。また、情報を集めるだけでは研究にならないとしても、それらに対して自分なりの評価と意味づけを行うことは、その第一歩になります。文献の丸写しは手の運動。しかしそこでわかったこと、自分が考えたことを記述してゆくことで、小さなレポートも、研究の第一歩とすることができるのです。

先にテーマを決めてしまおうとあせらず、暫定的なテーマから始めて、発展的に修正していくことが一番いいと思います。つねに後押ししてくれるのは、知的な好奇心です。

学会終わる2011年11月07日 22時44分07秒

日本音楽学会の全国大会が無事終り、ほっとしました。東大駒場のもろもろ完備した環境を使わせていただいての、充実した2日間でした。

種々の研究発表やラウンド・テーブル、総会における諸々の部署からの報告を聞いていると、なんと多くの人の時間と努力が、こうした学会を支えているのだろうと思います。そんな上に私などが乗っかっていていいのかなとも思いますが、実行委員会をはじめ関係されたたくさんの方々には、感謝でいっぱいです。

若手研究者の着実な台頭を実感するのも、こうした大会においてです。私が接した発表は平行して置かれた分科会の一部に過ぎませんが、たとえばヴィヴァルディの音楽を演奏したヴェネツィアの救貧院の女性たちがどんな制度の中でどんな生活をしていたのかの資料研究は、誰でも知りたいがなかなかわからないことに対する、勇気ある切り込みだと思います。また、よく発表してくださる重鎮の方が今回の発表を、過去の発表に対する率直な自己批判から開始されたのには驚きました。大いに感銘を受け、信頼をもって発表に聞き入りました。

こんな大事な時間の中で、私が犯したことといえば、ダブルブッキング。全部空けていたはずの予定にキャンセルし残した部分があったことが偶然発覚し、天を仰ぎました。なんとか帳尻を合わせたのですが、その詳細は内緒です(汗)。

今日はさすがに疲れが出ました。いま、京都の近くを走っています。

福島で学会2011年09月11日 23時34分18秒

福島に行ってきました。学会の仕事です。日本音楽学会はもともと4支部制だったのですが、今年度から、東北北海道支部と関東支部が統合され、東日本支部として発足しました。それを記念する第1回の東北北海道地区における例会が、10日(土)に福島大学で開催されたのです。

福島大学は、丘陵ひとつが大学になっている、気持ちのいい環境。当日の企画は「明治の国家政策と音楽--東北・福島から考える」というものでした。福島大学の平田公子さん、杉田政夫さんに東京芸大の塚原康子さん、大角欣矢さんが加わってのシンポジウムは、皆さんよく準備されてモチベーションが高く、参加者もなかなかで大成功。合同を旧東北北海道支部地域の研究をいっそう支援する機会としたい、という私の念願からすれば、まさに願ったり叶ったりの機会となりました。長い目で地域の応援にもなれば嬉しいです。皆さん、ありがとうございました。

福島の自然、飲み物食べ物のおいしさ、すばらしいですね。本当にいいところです。お昼に入ったお寿司屋さんの海鮮丼もすごく良かったですが、ふと気がつくと、当店は北海道、日本海、西日本の魚を使用しております、と書いてありました。早く、三陸の魚を食べたいと思います。

学位論文を考える2011年07月31日 12時23分13秒

前期最後の公務は、29日に行われた、博士論文のプレ発表でした。すばらしいものが複数あり、新ドクターの誕生を期待しています。私はご存知の通り何人もの候補者を指導しておりまして、今年はぜひとも2人、恵まれれば3人のドクターを出すことを目標に掲げてきました。しかし手を挙げた人たちのうち複数が辞退し、目標を達成できないことがはっきりしました。やはり博論ともなると、簡単にはいかないですね。

音楽学、音楽教育学の学生は論文1本で審査されますが、実技の学生は実技+論文で審査されます。したがって、論文に求められる要求にも違いがあります。どこまで要求されるのか、という質問もよくいただきますが、最低ここまで、というラインを引くことはむずかしく、具体例が出てきたときに考えていくほかはない、と思っていました。しかし今回、分野が違っても博士論文の条件になることはこれかな、とかなり思いが定まりましたので、そのことを書きたいと思います(私の個人的な意見です)。

それは、研究は解説とは違う、ましてや概説や紹介とは違う、ということです。もちろん、研究と解説には重なり合う部分も多くあり、その区別は、容易ではありません。ある意味では、そのことを理解すること自体が、研究の発展であるとも言えるでしょう。振り返れば私も、勉強の過程で少しずつ、そのあたりを会得していったように思います。いずれにしろ解説では、どんなに字数を費やしても、学位の取れる論文にはならないのです。

どう違うか。解説というのは、対象を当然の前提として、それについて「わかったこと」を幅広く、わかりやすく伝えることを目指す。悪い意味ではなく、上から下への方向です。

研究は逆で、対象そのものが謎となり、その何を解明したいかが、テーマとなる。そして資料だの先行研究だのを使いながら、対象の「わからないこと」に、一歩ずつ迫ってゆくという、下から上への営みになります。得られる知見は新しいものですから、研究者が下した判断は厳密でなくてはならないし、検証可能なものでなくてはならない。こうしたプロセスが反映されて、論文が出来上がっていくのです。どんなテーマと向き合い、それを何によってどう調べ、どういう考えからどう判断したかを記述することが、論文には欠かせません。

こう言うとすごくたいへんなようですが、資料の引用であれ仮説の提示であれ、自分の書いたことが本当にそう言えるかどうか1つ1つ考える習慣をつければ、前進できると思います。コツがわかれば、けっしてむずかしいことではないのです。魅力的な考え方が提示されているようであっても、都合のいい材料だけを集め、整合しないものを切り捨てるというのではだめで、これも、よくある誤りです。不都合な材料も明示し、併せて考えてゆくことで、論文の厚みが生まれるわけです。

というわけで、学位を大事に考え、しっかりしたものをしっかり評価したい、という発想で取り組んでいます。これから挑戦される方も、ぜひがんばってください。

カント2011年05月13日 23時54分36秒

受講者に恵まれて、音楽美学の授業でカントの『判断力批判』を読み始めた、ということは、ご報告しました。その続報です。

私の手元にも、4種類の翻訳があります。それを並べてコピーし、原文も併せてコピーして、勉強を始めました。その結果確認したのは、翻訳をいくら読んでもさっぱりわからないが、原文を読めばわかる、という、よく指摘される単純な事実です。私がドイツ語が得意だから、そう言うわけではない。これは哲学書の翻訳のもつ、基本的な問題点なのです。

4種類の翻訳は、優秀な方が訳されていて、それぞれ立派なものです。しかしその違いは小さく、難解な点では五十歩百歩。それは、いずれもがドイツ語の構文をそのまま日本語に移す、直訳であるからです。

でも、そうせざるを得ない、ということもあります。カントの文体は、概念を立ててはそれを分析し、精細に区別して、美的判断の本質を抽出してゆく。それを訳す場合には、概念すなわち名詞を日本語に名詞のまま移し、分析を行っていく他はない。たとえば「無関心性」といった概念を使わざるを得ず、意訳して砕いてしまうことはできないわけです。

しかしそれだと、カントがドイツ語の普通の概念を精査している部分で、聞いたこともないような日本語を、対応させざるを得なくなります。結果として特殊な文章が出来上がり、日本語ではあるが、意味がわからない、ということになるわけです。

それをドイツ語で読めばなんでもない、ということが、案外よくあるのです。こうなると、翻訳とは何だろう、と考えざるを得ません。概念の直訳はごく少数に限り、徹底した意訳を基本とすることで、カントの言いたいことを広く伝える翻訳は、本当にできないのでしょうか。試みるには値することだと思います。意訳の足らざるところは、原文を読んでもらえばいいわけですから。