エンディング ― 2009年01月25日 22時52分54秒
当今のオペラ上演における演出家の「読み替え」に対する私の抵抗感については、新聞批評でも、またこの欄でも、ときおり書いています。中でも承服できないと感じるのは、エンディングの方向性を逆転させようとするやり方です。これは決まれば鮮やかな力業ですから、演出家もあえて意欲を燃やすのかも知れません。
めでたしめでたしの大団円が、じつは不幸への入り口であるように設定する。逆に、絶望的な結末に、未来への希望を見て取る。どちらもよく見る演出です。私は、こうしたことが許容されるのは、音楽に根拠がある場合だけだと思う。音楽が不協和音から協和音にシフトし、安らかな大団円に向かっているのに、そこに悲劇性だの裂け目だのを持ち込んでくるのは間違っている。でもワーグナーの演出なんかに、結構ありますね。
話が大きくなってしまうので、狭めましょう。私が個人的に好きでないのは、作品に明示されていないヒューマニズムを演出家が加えて、めでたし感を盛り上げることです。たとえば、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の大団円で、ザックスとベックメッサーを握手させる。《魔笛》の最後で、神殿での戴冠式にパパゲーノ・ペアを参加させる。演出によっては、夜の女王やモノスタトスまで参加して喜び合う。こうすれば、「ああよかった」と思いつつ帰宅する人々が増えるのでしょうか。私は、エンディングが全方位的な価値観になっていないのも作品の重要な要素であり、それを変えたり薄めたりしてはいけないと思うのです。そこに実は、作品のメッセージが隠れている可能性がある。しっかり向き合うべき、辛口のメッセージが、です。辛口のものを甘口にしては、見るべきものが見えなくなってしまいます。
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