コンサート回想(2):モテット ― 2009年12月10日 22時09分37秒
カンタータ第64番に続いて、モテット《イエスよ、私の喜び》が演奏されました。私にいただく感想は、モテットがもうひとつだった、というものと、モテットが一番よかった、感動した、というものに二分されていて、中間がありません(1:2ぐらいで後者が優勢)。なるほど、やっぱりね、という思いです。
練習していて痛感しましたが、カンタータより、モテットの方が格段にむずかしいですね。カンタータは器楽の助けがありますし、歌うところも少なくて、たとえば140番のソプラノ・リピエーノのように、コラールの主旋律を歌っていれば済む、という曲もあります。毎週のように新作をやらなくてはならない状況の中で、バッハが演奏家に配慮していることがわかります。
しかしモテットは、ポリフォニー合唱の連続。しかも《イエスよ、私の喜び》は全11楽章と長大で、たいへんむずかしい。ですから、コンサートを迎えるにあたって一番「こわい」のが、この曲でした。
バッハの時代には全パートに器楽の重複が入っていました。歌声部はこの曲の場合各パートひとりだったろうと思いますので、器楽の支えは欠かせなかったことでしょう。しかし今回は各パート4人で編成したこともあり、器楽はオルガンのみに限定しました。
これについて、複数の方が、やはり楽器を使うべきではなかったか、とアドバイスされました。私も今ではそう思っています。楽器の支えがあることで音程が取りやすくなり、歌の負担が飛躍的に軽減されるからです。楽器の重複には、こうした実践的な意味合いが大きいことがわかりました。バッハは、思いのほか実践家なんですね。
《イエスよ、私の喜び》は、しみじみと美しいコラールが奇数楽章で変奏されます。ここで表現されるのは、現世への決別です。一方、これにはさまれる奇数楽章は、『ローマ人への手紙』をテキストに、肉を去って霊にある者には永遠の命が授けられる、と述べる。両者が対置され、響き合い、生と死へのスタンスを深めながら、モテットは進んでいきます。そのさい、偶数楽章のメッセージがより高く、より尊いものとして響いてくることを作品は求めていると、私は考えました。
既報の通り、今回は偶数楽章をコンチェルティストの重唱として編成し、リピエーノが入って合唱される奇数楽章とはっきり区別されるようにしてみました。コンチェルティストには、大きな負担のかかるやり方です。そのためか、前の週の練習では偶数楽章が歌い切れず奇数楽章に埋没するような形になっていて、私は、それでは何もならない、と叫んでしまいました。ムンクのような顔をしていたかどうかは、わかりませんが。
食事をしながら意見交換をしているさい、指揮者の大塚さんがおっしゃるには、メッセージを大切にとは言っても、偶数楽章の歌詞は抽象的で、理解がむずかしいのではないか、とのこと。そうか、と私もはっとして、都合のつく人に別途集まってもらうことにしました。そこではパウロ書簡のもつ意味をお話しし、メッセージへの理解を深めました。
そして本番。コンチェルティスト(山崎法子、川辺茜、湯川亜也子、中嶋克彦、杉村俊哉/千葉祐也)の士気はきわめて高く、前週とは比べものにならないほどの充実をもって偶数楽章が再現されました。わ~よかった、と安堵。ですから私の感想は、「個人的にはモテットのコンチェルティストに拍手を送りたい」と書き込んでくださった浦和人さんのそれに、ぴったり重なります。精根尽くして演奏してくれた若い人たちに、感謝の心で一杯です。
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