バッハの最後期2011年04月16日 22時58分16秒

『バッハ年鑑2010』に、アナトリー・P・ミルカというサンクトペテルブルクの学者が、バッハの最晩年の筆跡について、興味深い研究を発表しています。現存するバッハ最古の文字資料は1997年に発見されたJ.N.バムラーへの第2の能力証明書なのですが、これは1749年12月11日という日付をもっていて、本文は代筆、サインのみがバッハによります。同じ人物のための4月12日の証明書(本文、サインともバッハ自身)と比較すると、書体の不自由度が亢進しています。

ミルカは晩年における一連のバッハのサインを厳密に比較し、その硬化のプロセスが、眼疾ではなく脳の血行不全によるものだと推測しました。そして、第2証明書のサインの筆跡は、《ロ短調ミサ曲》の最終段階を示す〈クレド〉3曲目の二重唱の歌詞を振りなおした重唱譜の筆跡と重なる、とします。すなわち、《ロ短調ミサ曲》の完成は49年の12月、というのが彼の見解です。

ということになると、この時点でバッハの目はまだ見えていたわけですよね。ミルカによれば、50年に入ってから、バッハは《フーガの技法》の出版準備を続け、カノンの曲順を変更した。そのさいに校正本の欄外にページ数を書き入れたが、それこそがバッハの最後の筆跡だ、というのが彼の考えです。バッハの最後の作品はやはり《フーガの技法》と考えるべきだ、というわけです。

では、演奏を仕切ることは、どこまでできたのでしょうか。最後の演奏は1749年8月の市参事会員カンタータ(BWV29)の演奏であろうとするのが従来の通念で、私もそう説明しています。しかし1750年の聖金曜日は3月27日で、バッハが目の手術を受けた日は早くても3月28日ということなので、1750年に《ヨハネ受難曲》の第4稿を演奏し、それを終えてから手術を受けたという可能性も、考えられないわけではありません。その傍証となるのは、『故人略伝』が手術の時まではバッハがきわめて健康であったと述べていること、J.A.フランクという別の音楽家の能力証明書にバッハが1750年の聖霊降臨祭にはカントルとしての活動を停止していたという情報があることです(復活祭までは活動していた、とも取れる)。

真相はまだわかりませんが、概して1750年に入ってからの活動を想定する研究者が増えつつあることは、間違いないようです。