カトリックの波?2011年04月19日 09時06分16秒

情報提供を喜んでいただけましたので、もうひとつ話題を。

《ロ短調ミサ曲》がカトリック教会音楽の系譜に連なることはすでに常識だと思いますが、われわれは、バッハ=ライプツィヒ=ルター派、ザクセン選帝侯=ドレスデン=カトリックという風に峻別した上で、バッハがドレスデンのためにカトリック教会音楽を書いた、という形で認識しています。また、バッハがライプツィヒ時代の中程からカトリック教会音楽のコレクションを始め、いわゆる「古様式」の研究をしたことについては、音楽史に対するバッハの内的な関心から起こったことと考えてきました。

しかし今訳しているクリストフ・ヴォルフの著作では、外側に大きな流れがあったことが強調されています。ライプツィヒの教会がドイツ語のルター派作品一色であったわけではなく、バッハのカントル在任途中からラテン語の教会音楽を演奏することが増え、それがドイツ語のカンタータに代用されることさえ行われた。こうした流れは、礼拝制度の何らかの改革、変更と結びついているのではないか、というのです。バッハの後任のカントルはハラーという人ですが、ハラーはパレストリーナなどラテン語のミサ曲をたくさんトーマス教会、ニコライ教会で演奏しました。このことは、バッハ時代にすでに始まっていた流れの帰結ではなかったかと、ヴォルフは述べています。

そう言われると、いろいろなことが、それに結びついてきますね。バッハがライプツィヒに移って最初の数年カンタータ創作に励み、その後ほとんどやめてしまったという事実。上記カトリック教会音楽の収集と、《ロ短調ミサ曲》や小ミサ曲の創作を行ったという事実。ハラーが帝国宰相ブリュール伯爵の強い後押しでカントルに就任したという事実。

ポーランドの王位を継承するために先代の選帝侯がカトリックに改宗したこと、それによってザクセンのルター派民衆との間にきしみが生まれたことは周知の通りですが、どうやら一連の事実は、帝国文化のカトリック化が、政治的背景をもって遂行されていたことを指し示しているように見えます。本当にそう言えるかどうか、さらに研究します。